吸血鬼51

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明智小五郎シリーズ
江戸川乱歩の作品です。句読点以外の記号は省いています。

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問題文

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(さ、しげるちゃん、かまわないから、てあしをばたばたやって、ありったけのこえで)

「サ、茂ちゃん、構わないから、手足をバタバタやって、ありったけの声で

(どなるのです。たすけてくださいって かあさま、いいの?しょうねんはままこのように)

呶鳴るのです。助けて下さいって」「母さま、いいの?」少年は継子の様に

(おじけたこえでききかえした。きっときつねみたいなめをしていたことであろう。)

おじけた声で聞き返した。きっと狐みたいな目をしていたことであろう。

(もう、おまわりさん、こないの?ああ、なんということだ。しずこは、しょうしの)

「もう、お巡りさん、来ないの?」アア、何ということだ。倭文子は、焼死の

(おそれに、げんざいのわがみのきょうぐうをどわすれしてしまっていた。それを、ろくさいのようじに)

恐れに、現在の我身の境遇を胴忘れしてしまっていた。それを、六歳の幼児に

(おしえられたのだ。いけません。いけません。こえをだしてはいけません)

教えられたのだ。「いけません。いけません。声を出してはいけません」

(よのなかに、これほどつらい、くるしいたちばがまたとあろうか。じっとしていれば、)

世の中に、これ程つらい、苦しい立場がまたとあろうか。じっとしていれば、

(かんおけとともにやきころされてしまうのだ。いきながらのしょうねつじごくのだいくもんをあじわわねば)

棺桶と共に焼殺されてしまうのだ。生きながらの焦熱地獄の大苦悶を味わわねば

(ならぬのだ。いとしごをだいたおんなのみで、これがたえうることであろうか。)

ならぬのだ。いとし子を抱た女の身で、これが堪え得ることであろうか。

(といって、このおもいもよらぬさいやくをのがれようと、どなりたててすくいをもとめたなら)

といって、この思いもよらぬ災厄を逃れようと、呶鳴り立てて救いを求めたなら

(たちまちけいさつのてにひきわたされるはしれたこと。それでなくてもげしにんとにらまれて)

忽ち警察の手に引渡されるは知れたこと。それでなくても下手人とにらまれて

(いるのに、このようなだいそれたとうぼうをこころみたとあっては、それがなによりもゆうりょくな)

いるのに、この様な大それた逃亡を試みたとあっては、それが何よりも有力な

(じはくとなり、もうもうおしおきはのがれられることでない。ああおそろしい。)

自白となり、もうもうお仕置きはのがれられることでない。アア恐ろしい。

(ろうごくだ。こうしゅだいだ。そしてかわいいしげるともはなればなれ。このこは、みじめな)

牢獄だ。絞首台だ。そして可愛い茂とも離れ離れ。この子は、みじめな

(みなしごだ。いや、そればかりではない。かんおけのひみつがばれたら、みたにさんも、)

みなし児だ。イヤ、そればかりではない。棺桶の秘密がバレたら、三谷さんも、

(じゅうざいはんにんをにがしたかどで、おもいけいばつをうけるはしれている。どうしよう。)

重罪犯人を逃がしたかどで、重い刑罰を受けるは知れている。「どうしよう。

(どうしよう じっとしていても、にげだしても、ひあぶりでなければこうしゅだいだ。)

どうしよう」じっとしていても、逃げ出しても、火あぶりでなければ絞首台だ。

(うしてもさしても、いくてには、ただまっくらなしがあるばかりだ。しげるちゃん。おまえ)

右しても左しても、行手には、ただ真暗な死があるばかりだ。「茂ちゃん。お前

(しぬのはこわいかえ つめたいほおとほおとを、ぎゅっとおしつけて、ささやきこえで、やさしく)

死ぬのは怖いかえ」冷い頬と頬とを、ギュッと押しつけて、囁き声で、やさしく

(たずねてみた。しぬって、どうするの?そのくせ、おおよそはしっているとみえ、)

尋ねて見た。「死ぬって、どうするの?」その癖、大凡は知っていると見え、

など

(しょうねんは、おびえたように、ちいさいりょうてで、ははのくびにしがみついてきた。かあさまと)

少年は、おびえた様に、小さい両手で、母の頸にしがみついて来た。「母さまと

(いっしょに、くものうえのうつくしいくにへいくのよ。しっかりだきあって、はなれないでね)

一緒に、雲の上の美しい国へ行くのよ。しっかり抱き合って、離れないでね」

(うん、ぼくいいよ。かあさまといっしょならしぬよ わきあがるあついなみだが、くっつき)

「ウン、僕いいよ。母さまと一緒なら死ぬよ」湧き上る熱い涙が、くっ着き

(あったふたりのほおのあいだを、にじむようにひろがっていった。しずこののどが、きみょうなおとを)

あった二人の頬の間を、にじむ様に拡がって行った。倭文子の喉が、奇妙な音を

(たてた。はをくいしばっても、そのはをわって、こみあげてくるおえつである。)

立てた。歯を食いしばっても、その歯を割って、こみ上げて来る嗚咽である。

(ではね、おててをあわせて、こころのなかでかみさまにおいのりするのよ。どうかぼうやを)

「ではね、お手々を合わせて、心の中で神様にお祈りするのよ。どうか坊やを

(てんごくへおつれくださいましってね ああ、なんという、ふさわしいおいのりであろう。)

天国へお連れ下さいましってね」アア、何という、ふさわしいお祈りであろう。

(ばしょは、かんおけのなかなのだ。そのかんおけも、ちゃんとかそうのろのなかにおさまって)

場所は、棺桶の中なのだ。その棺桶も、ちゃんと火葬の炉の中に納まって

(いるのだ。こおうこんらい、このようなばしょで、かみさまにおいのりをささげたひとが、ひとりでも)

いるのだ。古往今来、この様な場所で、神様にお祈りを捧げた人が、一人でも

(あったであろうか。そして、むじょうのときは、ようしゃもなくたっていった。いちじかん、)

あったであろうか。そして、無情の時は、容赦もなくたって行った。一時間、

(にじかん、だが、まだやっとひがくれたじぶんだ。せきたんがたかれるのは、)

二時間、だが、まだやっと日が暮れた時分だ。石炭が焚かれるのは、

(よるふけてからというではないか。かあさま、ぼく、しぬまえに、ほしいものが)

夜更けてからというではないか。「母さま、僕、死ぬ前に、ほしいものが

(あるの ふと、しげるしょうねんが、みょうなことをいいだした。それをきくとしずこは)

あるの」ふと、茂少年が、妙なことをいい出した。それを聞くと倭文子は

(ぎょっとした。ははをこまらせまいと、どんなにかがまんにがまんをしてきたことで)

ギョッとした。母を困らせまいと、どんなにか我慢に我慢をして来たことで

(あろう。かんがえてみると、ふつかにわたるぜっしょくである。おとなのしずこさえ、いたみを)

あろう。考えて見ると、二日にわたる絶食である。大人の倭文子さえ、痛みを

(かんじるほどもくうふくなのだ。こどもが、とうとうたえがたくなって、それをいいだした)

感じる程も空腹なのだ。子供が、とうとう耐え難くなって、それをいい出した

(のは、けっしてむりではない。ほしいといっても、ここにはなんにもありは)

のは、決して無理ではない。「ほしいといっても、ここにはなんにもありは

(しないわ。いいこですわね。いまに、いまに、てんごくへいけば、どんなおいしい)

しないわ。いい子ですわね。今に、今に、天国へ行けば、どんなおいしい

(おかしだって、くだものだって、どっさりありますわ。もうすこしのがまんよ)

お菓子だって、果物だって、どっさりありますわ。もう少しの我慢よ」

(そんなものじゃないの しげるはおこったようなちょうしである。でもおなかがへったの)

「そんなものじゃないの」茂は怒った様な調子である。「でもお腹が減ったの

(でしょう。のどがかわいたのでしょう うん、あのね、かあさまのおちちのみたいの)

でしょう。喉が渇いたのでしょう」「ウン、あのね、母さまのお乳のみたいの」

(しげるははずかしそうに、やっとそれをいった。まあ、おちちなの。・・・・・・かあさま、)

茂ははずかし相に、やっとそれをいった。「マア、お乳なの。……母さま、

(わらいはしないことよ。いいとも。さあおあがり。すこしはひもじさをわすれるかも)

笑いはしないことよ。いいとも。さあお上り。少しはひもじさを忘れるかも

(しれないわね せまいまっくらなひつぎのなかで、あたまやかたをごつごつぶっつけながら、しげるは)

知れないわね」狭い真っ暗な棺の中で、頭や肩をゴツゴツぶっつけながら、茂は

(やっとははのちぶさにすがった。かれはまだ、ちちののみかたをわすれてはいなかった。)

やっと母の乳房にすがった。彼はまだ、乳の飲み方を忘れてはいなかった。

(ちくびをやわらかいしたでまきつけて、ちゅうちゅうと、でもせぬちちを、おいしそうに)

乳頸を柔かい舌で巻つけて、チュウチュウと、出もせぬ乳を、おいしそうに

(すいはじめた。そして、いっぽうのてでは、あいているほうのちぶさを、くねくねと)

吸い始めた。そして、一方の手では、あいている方の乳房を、クネクネと

(ひねくりまわしながら。しずこは、ひさしくわすれていた、りょうのちぶさのものなつかしい)

ひねくり廻しながら。倭文子は、久しく忘れていた、両の乳房の物なつかしい

(かんしょくに、ふとゆめみごこちになって、げんざいのおそろしいきょうぐうもうちわすれ、わがこのせなかを)

感触に、ふと夢見心地になって、現在の恐ろしい境遇も打忘れ、我子の背中を

(なでさすりながら、ひくいかなしいこえで、むかしむかしのこもりうたをうたいだした。しばらくのあいだ)

撫でさすりながら、低い悲しい声で、昔々の子守歌を歌い出した。しばらくの間

(おそろしいかそうのろのことも、きゅうくつなかんおけのことも、せまってくる し のことも、)

恐ろしい火葬の炉のことも、窮屈な棺桶のことも、迫って来る「死」のことも、

(みんなどこかへきえさって、ははもこも、はるのようになごやかな、ゆめみごこちに)

みんなどこかへ消え去って、母も子も、春の様になごやかな、夢見心地に

(ひたっていた。しかし、そんなことがながくつづくはずはない。やがて、ふたりともまた)

ひたっていた。しかし、そんなことが長く続く筈はない。やがて、二人ともまた

(おそろしいげんじつにひきもどされ、まえにばいするくつうときょうふにさいなまれなければ)

恐ろしい現実に引戻され、前に倍する苦痛と恐怖にさいなまれなければ

(ならなかった。ひつぎのなかまでかんじられる、ひえびえとしたやき、もうよるもふけたことで)

ならなかった。棺の中まで感じられる、冷々とした夜気、もう夜も更けたことで

(あろう。それにしても、みたにさんは、いったいぜんたい、どこにどうしていらっしゃるの)

あろう。それにしても、三谷さんは、一体全体、どこにどうしていらっしゃるの

(だろう。こんなことになろうとは、あのひととても、おもいもよらぬところであろう。)

だろう。こんなことになろうとは、あの人とても、思いもよらぬ所であろう。

(さだめしいまごろは、いらいらしながら、わたしたちのことをあんじていらっしゃるに)

定めし今頃は、イライラしながら、私達のことを案じていらっしゃるに

(そういない。それとも、もしや、あのひとはいま、わたしたちをたすけるために、このかそうばへ)

相違ない。それとも、もしや、あの人は今、私達を助けるために、この火葬場へ

(じどうしゃをとばしているのではあるまいか。とおもうと、どこかとおくのとおくのほうから)

自動車を飛ばしているのではあるまいか。と思うと、どこか遠くの遠くの方から

(えんじんのひびきがきこえてくるようなきもするのだ。ぼうや、ほらきいてごらん)

エンジンの響が聞こえて来る様な気もするのだ。「坊や、ホラ聞いてごらん

(なさい。じどうしゃのおとがきこえるでしょう。あのじどうしゃにね、みたにさんがのって)

なさい。自動車の音が聞こえるでしょう。あの自動車にね、三谷さんが乗って

(いらっしゃるのよ しずこはげんちょうをしんじて、きちがいめいたことをくちばしり、なおも)

いらっしゃるのよ」倭文子は幻聴を信じて、気違いめいたことを口走り、なおも

(みみをすました。きこえる、きこえる。だが、えんじんのおとではない。もっと)

耳をすました。聞こえる、聞こえる。だが、エンジンの音ではない。もっと

(ちかくの、しずこたちのましたからきこえてくる、いっしゅいようのものおとだ。ざらざらと)

近くの、倭文子達の真下から聞こえて来る、一種異様の物音だ。ザラザラと

(なにかのおちるおと。からんときんぞくのふれあうひびき。そして、かすかにひとのうたうこえ。)

何かの落る音。カランと金属の触れ合う響。そして、かすかに人の歌う声。

(ひぞくなりゅうこうかをうたう、おとこのどらごえだ。ああ、わかった。おんぼうがはなうたをうたいながら、)

卑俗な流行歌を歌う、男のドラ声だ。アア、分った。隠亡が鼻唄を歌いながら、

(したのたきぐちへ、しょべるでせきたんをなげいれているのだ。)

下の焚き口へ、ショベルで石炭を投げ入れているのだ。

(いよいよさいごのときがきた。)

いよいよ最後の時が来た。

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