晩年 ①

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太宰 治

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問題文

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(しのうとおもっていた。ことしのしょうがつ、よそからきものをいったんもらった。)

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。

(おとしだまとしてである。きもののぬのじはあさであった。)

お年玉としてである。着物の布地は麻であった。

(ねずみいろのこまかいしまめがおりこまれていた。これはなつにきるきものであろう。)

鼠色のこまかい縞目が織りこまれていた。これは夏に着る着物であろう。

(なつまでいきていようとおもった。)

夏まで生きていようと思った。

(のらもまたかんがえた。ろうかへでてうしろのとびらをばたんとしめたときにかんがえた。)

ノラもまた考えた。廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。

(かえろうかしら。 わたしがわるいことをしないでかえったら、つまはえがおをもってむかえた)

帰ろうかしら。 私がわるいことをしないで帰ったら、妻は笑顔をもって迎えた

(そのひそのひをひきずられてくらしているだけであった。げしゅくやで、たった)

その日その日を引きずられて暮らしているだけであった。下宿屋で、たった

(ひとりしてさけをのみ、ひとりでよい、そうしてこそこそふとんをのべてねるよるは)

独りして酒を飲み、独りで酔い、そうしてこそこそ蒲団を延べて寝る夜は

(ことにつらかった。ゆめをさえみなかった。つかれきっていた。なにをするにも)

ことにつらかった。夢をさえ見なかった。疲れ切っていた。何をするにも

(ものうかった。「くみとりべんじょはいかにかいぜんするべきか?」というかきものを)

物憂かった。「汲み取り便所は如何に改善するべきか?」という書き物を

(かってきてほんきにけんきゅうしたこともあった。かれはそのとうじ、じゅうらいのじんぷんのしょちには)

買って来て本気に研究したこともあった。彼はその当時、従来の人糞の処置には

(かなりまいっていた。 しんじゅくのほどうのうえで、こぶしほどのいしころがのろのろはって)

可成まいっていた。 新宿の歩道の上で、こぶしほどの石塊がのろのろ這って

(あるいているのをみたのだ。いしがはってあるいているな、ただそうおもうていた。)

歩いているのを見たのだ。石が這って歩いているな、ただそう思うていた。

(しかし、そのいしころはかれのまえをあるいているうすぎたないこどもが、いとでむすんでひきずって)

しかし、その石塊は彼のまえを歩いている薄汚い子供が、糸で結んで引摺って

(いるのだということがすぐにわかった。 こどもにあざむかれたのがさびしいのではない。)

いるのだということが直ぐに判った。 子供に欺かれたのが淋しいのではない。

(そんなてんぺんちいをもへいきでうけいれえたかれじしんのじきがさびしかったのだ。)

そんな天変地異をも平気で受け入れ得た彼自身の自棄が淋しかったのだ。

(そんならじぶんは、いっしょうがいこんなゆううつとたたかい、そうしてしんでいくということに)

そんなら自分は、一生涯こんな憂鬱と戦い、そうして死んで行くということに

(なるんだな、とおもえばおのがみがいじらしくもあった。あおいいなだがいっときにぼっと)

成るんだな、と思えばおのが身がいじらしくもあった。青い稲田が一時にぼっと

(かすんだ。ないたのだ。かれはうろたえだした。こんなあんかなじゅんじょうてきなことがらになみだを)

霞んだ。泣いたのだ。彼は狼狽えだした。こんな安価な殉情的な事柄に涕を

(ながしたのがすこしはずかしかったのだ。 でんしゃからおりるときあにはわらうた。)

流したのが少し恥ずかしかったのだ。 電車から降りるとき兄は笑うた。

など

(「ばかにしょげてるな。おい、げんきをだせよ。」そうしてりゅうのちいさなかたを)

「莫迦にしょげてるな。おい、元気を出せよ。」そうして竜の小さな肩を

(せんすでぽんとたたいた。ゆうやみのなかでそのせんすがおそろしいほどしろっぽかった。)

扇子でポンと叩いた。夕闇のなかでその扇子が恐ろしいほど白っぽかった。

(りゅうはほおのあからむほどうれしくなった。あににかたをたたいてもらったことがありがたかった)

竜は頬のあからむほど嬉しくなった。兄に肩をたたいて貰ったことが有難かった

(のだ。いつもせめて、これぐらいにでもうちとけてくれるといいが、と)

のだ。いつもせめて、これぐらいにでも打ち解けて呉れるといいが、と

(はかなくもねがうのだった。 たずねるひとはふざいであった。)

果敢なくも願うのだった。 訪ねる人は不在であった。

(あにはこういった。「しょうせつを、くだらないとはおもわぬ。おれには、ただすこし)

兄はこう言った。「小説を、くだらないとは思わぬ。おれには、ただ少し

(まだるっこいだけである。たったいちぎょうのしんじつをいいたいばかりにひゃくぺーじのふんいきを)

まだるっこいだけである。たった一行の真実を言いたいばかりに百頁の雰囲気を

(こしらえている。」わたしはいいにくそうに、かんがえかんがえしながらこたえた。)

こしらえている。」私は言い憎そうに、考え考えしながら答えた。

(「ほんとうに、ことばはみじかいほどよい。それだけで、しんじさせることが)

「ほんとうに、言葉は短いほどよい。それだけで、信じさせることが

(できるのならば。」 またあには、じさつをいいきなものとしてきらった。)

できるのならば。」 また兄は、自殺をいい気なものとして嫌った。

(けれどもわたしは、じさつをしょせいじゅつみたいなださんてきなものとしてかんがえていたやさきで)

けれども私は、自殺を処世術みたいな打算的なものとして考えていた矢先で

(あったから、あにのこのことばをいがいにかんじた。)

あったから、兄のこの言葉を意外に感じた。

(はくじょうしたまえ。え?だれのまねなの? みずいたりてきよなる。)

白状し給え。え?誰の真似なの? 水到りて渠成る。

(かれはじゅうきゅうさいのふゆ、「あわれが」というたんぺんをかいた。それは、よいさくひんであった。)

彼は十九歳の冬、「哀蚊」という短篇を書いた。それは、よい作品であった。

(どうじに、それはかれのしょうがいのこんとんをとくだいじなかぎとなった。けいしきには、)

同時に、それは彼の生涯の混沌を解くだいじな鍵となった。形式には、

(「ひな」のえいきょうがみとめられた。けれどもこころは、かれのものであった。げんぶんのまま。)

「雛」の影響が認められた。けれども心は、彼のものであった。原文のまま。

(おかしなゆうれいをみたことがございます。あれは、わたしがしょうがっこうにあがってまもなく)

おかしな幽霊を見たことがございます。あれは、私が小学校にあがって間もなく

(のことでございますから、どうせげんとうのようにとろんとかすんでいるに)

のことでございますから、どうせ幻燈のようにとろんと霞んでいるに

(ちがいございませぬ。いいえ、でも、そのあおがやにうつしたげんとうのような、ぼやけた)

違いございませぬ。いいえ、でも、その青蚊帳に移した幻燈のような、ぼやけた

(おもいでがきみょうにもわたしはねんいちねんといよいよはっきりしてまいるようなきがするので)

思い出が奇妙にも私は年一年と愈々はっきりして参るような気がするので

(ございます。なんでもねえさまがおむこをとって、あ、ちょうどそのばんのことで)

ございます。なんでも姉様がお婿をとって、あ、ちょうどその晩のことで

(ございます。ごしゅうげんのばんのことでございました。げいしゃしゅうがたくさんわたしのいえにきて)

ございます。御祝言の晩のことでございました。芸者衆がたくさん私の家にきて

(おりまして、ひとりのおきれいなはんぎょくさんにもんつきのほころびをぬってもらったり)

居りまして、ひとりのお綺麗な半玉さんに紋附の綻びを縫って貰ったり

(しましたのをおぼえておりますし、とうさまがはなれのまっくらなろうかでせのおたかい)

しましたのを覚えて居りますし、父様が離座敷の真っ暗な廊下で脊のお高い

(げいしゃしゅうとおすもうをおとりになっていらっしゃったのもあのばんのことで)

芸者衆とお相撲をお取りになっていらっしゃったのもあの晩のことで

(ございました。とうさまはそのよくとしおなくなりになられ、いまではわたしのいえのきゃくまのかべの)

ございました。父様はその翌年お歿くなりになられ、今では私の家の客間の壁の

(おおきなおしゃしんのなかに、おはいりになっておられるのでございますが、わたしはこの)

大きなお写真のなかに、おはいりになって居られるのでございますが、私はこの

(おしゃしんをみるたびごとに、あのばんのおすもうのことをかならずおもいだすのでございます)

お写真を見るたびごとに、あの晩のお相撲のことを必ず思い出すのでございます

(わたしのとうさまは、よわいひとをいじめるようなことはけっしてなさらないおかたでござい)

私の父様は、弱い人をいじめるようなことは決してなさらないお方でござい

(ましたから、あのおすもうも、きっとげいしゃしゅうがなにかひどくいけないことを)

ましたから、あのお相撲も、きっと芸者衆が何かひどくいけないことを

(なしたのでとうさまはそれをおこらしめになっていらっしゃったのでございましょう)

なしたので父様はそれをお懲らしめになっていらっしゃったのでございましょう

(それやこれやとおもいあわせてみますと、たしかにあれはごしゅうげんのばんに)

それやこれやと思い合わせてみますと、確かにあれは御祝言の晩に

(ちがいございませぬ。ほんとうにもうしわけがございませぬけれど、なにもかも、)

違いございませぬ。ほんとうに申し訳がございませぬけれど、なにもかも、

(まるで、あおがやのげんとうのような、そのようなありさまでございますから、)

まるで、青蚊帳の幻燈のような、そのような有様でございますから、

(どうでごまんぞくのいかれますようなおはなしができかねるのでございます。)

どうで御満足の行かれますようなお話ができかねるのでございます。

(てもなくゆめものがたり、いいえ、でも、あのばんにあわれがのはなしをきかせてくださったときの)

てもなく夢物語、いいえ、でも、あの晩に哀蚊の話を聞かせてくださったときの

(ばあさまのおめめと、それから、ゆうれい、とだけは、あれだけは、どなたがなんと)

婆様の御めめと、それから、幽霊、とだけは、あれだけは、どなたがなんと

(おっしゃったとてけっしてけっしてゆめではございませぬ。ゆめだなぞとおろかなこと、)

仰言ったとて決して決して夢ではございませぬ。夢だなぞとおろかなこと、

(もうこれ、こんなにまざまざめさきにうかんでまいったではございませんか。)

もうこれ、こんなにまざまざ眼先に浮かんで参ったではございませんか。

(あのばあさまのおめめと、それから。)

あの婆様の御めめと、それから。

(さようでございます。わたしのばあさまほどおうつくしいばあさまもそんなにあるものでは)

さようでございます。私の婆様ほどお美しい婆様もそんなにあるものでは

(ございませぬ。さくねんのなつおなくなりになられましたけれど、そのおしにがおと)

ございませぬ。昨年の夏お歿くなりになられましたけれど、その御死顔と

(いったら、すごいほどうつくしいとはあれでございましょう。はくろうのごりょうほおには、)

言ったら、すごいほど美しいとはあれでございましょう。白蝋の御両頬には、

(あのなつこだちのかげもうつらむばかりでございました。そんなにおうつくしくて)

あの夏木立の影も映らむばかりでございました。そんなにお美しくて

(いらっしゃるのに、えんどおくて、いっしょうおはぐろをおつけせずにおくらしなさったので)

いらっしゃるのに、縁遠くて、一生鉄漿をお附けせずにお暮しなさったので

(「わしというまんねんしろはをえさにして、このしらまのしんだいができたのじゃぞえ。」)

「わしという万年白歯を餌にして、この白万の身代ができたのじゃぞえ。」

(とみもとでこなれたしぶいこえでごせいぜんよくこういいいいしておられましたから、)

富本でこなれた渋い声で御生前よくこう言い言いして居られましたから、

(いずれこれにはおもしろいいんねんでもあるのでございましょう。どんないんねんなのだろう)

いずれこれには面白い因縁でもあるのでございましょう。どんな因縁なのだろう

(などとやぼなおさぐりはおよしなさいませ。ばあさまがおなきなさるでございましょう)

などと野暮なお探りはお止しなさいませ。婆様がお泣きなさるでございましょう

(ともうしますのは、わたしのばあさまは、それはそれはいきなおかたで、ついにいちどもちりめんの)

と申しますのは、私の婆様は、それはそれは粋なお方で、ついに一度も縮緬の

(ぬいもんのおはおりをおはなしになったことがございませんでした。おししょうをおへやへ)

縫紋の御羽織をお離しになったことがございませんでした。お師匠をお部屋へ

(およびなされてとみもとのおけいこをおはじめになられたのも、よほどむかしからのことで)

お呼びなされて富本のお稽古をお始めになられたのも、よほど昔からのことで

(ございましたでしょう。わたしなぞもものごころがついてからは、ひがないちにち、ばあさまの)

ございましたでしょう。私なぞも物心地が附いてからは、日がな一日、婆様の

(おいまつやらあさまやらのむせびなくようなあいちょうのなかにうっとりしているときがまま)

老松やら浅間やらの咽び泣くような哀調のなかにうっとりしているときがまま

(ございましたほどで、せけんさまからいんきょげいしゃとはやされ、ばあさまごじしんもそれをおみみに)

ございました程で、世間様から隠居芸者とはやされ、婆様御自身もそれをお耳に

(してはうつくしくおわらいになっておられたようでございました。)

しては美しくお笑いになって居られたようでございました。

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