黒死館事件3
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問題文
(さてもこのたびかんぽのかえり、きいてもくんねえ ときめくじゅうすうれつのあとに、つぎの)
――扨もこの度転沛逆手行、聞いてもくんねえ(と定句十数列の後に、次の
(かんぶんがそうにゅうされている きんらいおおやまかいどうにけんぶつきゃくをひくは、かながわけんこうざぐん)
漢文が插入されている)近来大山街道に見物客を引くは、神奈川県高座郡
(よしがりのざいに、りゅうぐうのごときせいようじょうかくしゅつげんせるがためなり。そはながさきの)
葭苅の在に、竜宮の如き西洋城廓出現せるがためなり。そは長崎の
(だいぶげんふりやぎりきちのけんぞうにかかるものにして、いざそのゆらいをとかん。さきにりきちは)
大分限降矢木鯉吉の建造に係るものにして、いざその由来を説かん。先に鯉吉は
(こじまごうりょうようしょにおいておらんだぐんいめーるでるほーるとのしどうをうけ、)
小島郷療養所において和蘭軍医メールデルホールトの指導をうけ、
(めいじさんねんいっかとうきょうにうつるや、とどくして、まずぶらうんしゅわいくふつういがっこうに)
明治三年一家東京に移るや、渡独して、まずブラウンシュワイク普通医学校に
(まなべり、そのあとべるりんだいがくにてんじて、けんさんはちかねんのあとふたつのがくいをうけ、)
学べり、その後伯林大学に転じて、研鑽八ヶ年の後二つの学位をうけ、
(ほんねんしょとうきちょうのよていとなりしも、それにさきだち、にねんまええいじんぎし)
本年初頭帰朝の予定となりしも、それに先きだち、二年前英人技師
(くろーど・でぃぐすびいをはけんして、ききのちにほんぽうみぞうともいう)
クロード・ディグスビイを派遣して、既記の地に本邦未曾有とも云う
(たいせいようけんちくをきこうせり。というはひとつに、かのちにてめとりしふらんすぶざんそんのひと)
大西洋建築を起工せり。と云うは一つに、彼地にて娶りし仏蘭西ブザンソンの人
(てれーず・しによれにはなむけるひきてばこなりという。すなわち、ちいきは)
テレーズ・シニヨレに餞ける引手箱なりと云う。すなわち、地域は
(さヴるーずだにをもし、ほんかんはてれーずのせいかとれヴぃーゆそうのじょうかんをうつし、)
サヴルーズ谷を模し、本館はテレーズの生家トレヴィーユ荘の城館を写し、
(もってかいきょうのねんをたたんがためなりとぞ。さるにしても、このほどきこくの)
もって懐郷の念を絶たんがためなりとぞ。さるにしても、このほど帰国の
(せんちゅうらんぐーんにおいて、てれーずがさいきねつにてしきょしたるはあわれともいうべく、)
船中蘭貢において、テレーズが再帰熱にて死去したるは哀れとも云うべく、
(また、ひにくやおおとりぶんがくはかせがこのやかたをさし、ちゅうせいほろうのやねまでもはいで)
また、皮肉家大鳥文学博士がこの館を指し、中世堡楼の屋根までも剥いで
(ぺすとししゃをつめこみしとつたえらるる、ぷろヴぃんしあぎょうへきもほうをたねに、)
黒死病死者を詰め込みしと伝えらるる、プロヴィンシア繞壁模倣を種に、
(こくしかんとあざけりしこそおかしというべし 。)
黒死館と嘲りしこそ可笑しと云うべし――。
(けんじがよみおわったとき、のりみずはがいしゅつぎにきがえてふたたびあらわれた。が、またも)
検事が読み終った時、法水は外出着に着換えて再び現われた。が、またも
(いすふかくこしをうめて、おりからしつようになりつづける、でんわのべるにまゆをひそめた。)
椅子深く腰を埋めて、折から執拗に鳴り続ける、電話の鈴に眉を顰めた。
(あれはたぶんくましろのとくそくだろうがね。したいはにげっこないのだから、)
「あれはたぶん熊城の督促だろうがね。死体は逃げっこないのだから、
(まずゆっくりするとしてだ。そこで、そのあとにおこったみっつのへんしじけんと、)
まずゆっくりするとしてだ。そこで、その後に起った三つの変死事件と、
(いまだにげしがたいなぞとされているさんてつはかせのぎょうじょうを、きみにはなすとしよう。)
いまだに解し難い謎とされている算哲博士の行状を、君に話すとしよう。
(きこくごのさんてつはかせは、にほんのだいがくからもしんけいびょうがくとやくりがくとでふたつのがくいを)
帰国後の算哲博士は、日本の大学からも神経病学と薬理学とで二つの学位を
(うけたのだが、きょうじゅせいかつにははいらず、もくもくとしていんとんてきなどくしんせいかつを)
うけたのだが、教授生活には入らず、黙々として隠遁的な独身生活を
(はじめたものだ。ここで、ぼくらがなによりちゅうもくしなければならないのは、はかせが)
始めたものだ。ここで、僕等が何より注目しなければならないのは、博士が
(ただのいちにちもこくしかんにすまなかったというばかりか、めいじにじゅうさんねんには、)
ただの一日も黒死館に住まなかったと云うばかりか、明治二十三年には、
(わずかごねんしかたたないやかたのないぶにだいかいしゅうをほどこしたということで、つまり、)
わずか五年しか経たない館の内部に大改修を施したと云う事で、つまり、
(でぃぐすびいのせっけいをこんぽんからしゅうせいしてしまったのだ。そうして、じぶんは)
ディグスビイの設計を根本から修正してしまったのだ。そうして、自分は
(かんえいじうらにていたくをかまえて、こくしかんにはおとうとのでんじろうふさいをすまわせたのだが、)
寛永寺裏に邸宅を構えて、黒死館には弟の伝次郎夫妻を住わせたのだが、
(そのごのはかせは、じさつするまでのしじゅうよねんをほとんどむふうのうちにすごしたと)
その後の博士は、自殺するまでの四十余年をほとんど無風のうちに過したと
(いってよかった。ちょじゅつですらが、てゅーどるけばいどくならびにはんざいにかんするこうさつ)
云ってよかった。著述ですらが、「テュードル家黴毒並びに犯罪に関する考察」
(いっぺんのみで、がっかいにおけるそんざいといったら、まずそのぜんぶが、あのゆうめいな)
一篇のみで、学界における存在と云ったら、まずその全部が、あの有名な
(やぎさわいがくはかせとのろんそうにつきるといってもかごんではないだろう。それは)
八木沢医学博士との論争に尽きると云っても過言ではないだろう。それは
(こうなのだ。めいじ21ねんにずがいりんようぶおよびせつじゅかきけいしゃのはんざいそしついでんせつを)
こうなのだ。明治二十一年に頭蓋鱗様部及び顳じゅ窩畸形者の犯罪素質遺伝説を
(やぎさわはかせがとなえると、それにさんてつはかせがかせつをあげて、そのごいちねんにわたる)
八木沢博士が唱えると、それに算哲博士が駁説を挙げて、その後一年にわたる
(だいろんそうをひきおこしたのだが、けっきょくにんげんをさいばいするじっけんいでんがくというきょくたんな)
大論争を惹き起したのだが、結局人間を栽培する実験遺伝学という極端な
(けつろんにいきついてしまって、そのなりゆきにかたづをのませたやさきだった。)
結論に行きついてしまって、その成行に片唾を嚥ませた矢先だった。
(ふしぎなことには、ふたりのあいだにまるでもっけいでもなりたったかのように、)
不思議なことには、二人の間にまるで黙契でも成り立ったかのように、
(そのたいりつがとつじょふしぜんきわまるしょうしつをとげてしまったのだよ。ところが、)
その対立が突如不自然きわまる消失を遂げてしまったのだよ。ところが、
(このろんそうとはれんかんのないことだが、さんてつはかせのいないこくしかんには、あいついで)
この論争とは聯関のないことだが、算哲博士のいない黒死館には、相次いで
(きかいなへんしじけんがおこったのだ。さいしょはめいじにじゅうきゅうねんのことで、せいさいのにゅういんちゅう)
奇怪な変死事件が起ったのだ。最初は明治二十九年のことで、正妻の入院中
(あいしょうのかんどりみさほをひきいれたさいしょのよるに、でんじろうはみさほのためにかみきりがたなで)
愛妾の神鳥みさほを引き入れた最初の夜に、伝次郎はみさほのために紙切刀で
(けいどうみゃくをせつだんされ、みさほもそのげんばでじさつをとげてしまったのだ。それから、)
頸動脈を切断され、みさほもその現場で自殺を遂げてしまったのだ。それから、
(つぎはろくねんごのめいじさんじゅうごねんで、みぼうじんになったはかせとはいとこにあたるふでこふじんが、)
次は六年後の明治三十五年で、未亡人になった博士とは従妹に当る筆子夫人が、
(ちょうあいのあらしたいじゅうろうというかみがたやくしゃのためにやはりこうさつされて、たいじゅうろうも)
寵愛の嵐鯛十郎という上方役者のためにやはり絞殺されて、鯛十郎も
(そのばさらずにいしをとげてしまった。そして、このふたつのたさつじけんには)
その場去らずに縊死を遂げてしまった。そして、この二つの他殺事件には
(いっこうにどうきともくされるものがなく、いやかえってはんたいのけんかいのみが)
いっこうに動機と目されるものがなく、いやかえって反対の見解のみが
(あつまるというしまつなので、やむなく、しょうどうせいのはんざいとしてうやむやのうちに)
集まるという始末なので、やむなく、衝動性の犯罪として有耶無耶のうちに
(ほうむられてしまったのだよ。ところで、しゅじんをうしなったこくしかんでは、いちじさんてつとは)
葬られてしまったのだよ。ところで、主人を失った黒死館では、一時算哲とは
(いぼてつにあたるつたこ きみもしってのとおり、げんざいではとうきょうじんえびょういんちょう)
異母姪に当る津多子――君も知ってのとおり、現在では東京神恵病院長
(おしかねはかせのふじんになってはいるが、かつてはたいしょうまっきのしんげきだいじょゆうさ)
押鐘博士の夫人になってはいるが、かつては大正末期の新劇大女優さ――
(とうじさんさいにすぎなかったそのひとをあるじとしているうちに、たいしょうよねんになると、)
当時三歳にすぎなかったその人を主としているうちに、大正四年になると、
(おもいがけなかったおとこのこが、さんてつのあいしょういわまとみえにみごもったのだ。それがすなわち)
思いがけなかった男の子が、算哲の愛妾岩間富枝に胎ったのだ。それがすなわち
(げんざいのとうしゅはたたろうなんだよ。そうして、むふうのうちにさんじゅうなんねんかすぎたきょねんの)
現在の当主旗太郎なんだよ。そうして、無風のうちに三十何年か過ぎた去年の
(さんがつに、さんどどうきふめいのへんしじけんがおこった。こんどはさんてつはかせがじさつをとげて)
三月に、三度動機不明の変死事件が起った。今度は算哲博士が自殺を遂げて
(しまったのだ といって、かたわらのふぁいるぶっくをたぐりよせ、ちょめいなじけんごとに)
しまったのだ」と云って、側の書類綴りを手繰り寄せ、著名な事件ごとに
(とうきょくからおくってくる、けんしちょうしょるいのなかから、はかせのじさつにかんするきろくを)
当局から送ってくる、検屍調書類の中から、博士の自殺に関する記録を
(さがしだした。いいかね きずはひだりだいごだいろくろっこつかんをつらぬきさしんしつに)
探し出した。「いいかね――」――創は左第五第六肋骨間を貫き左心室に
(とつにゅうせる、せいきのそうけいをゆうするたんけんししょうにして、さんてつはへやのちゅうおうにてそのつかを)
突入せる、正規の創形を有する短剣刺傷にして、算哲は室の中央にてその束を
(かたくにぎりしめ、とびらをあしにあたまをおくのたれまくにむけて、ぎょうがのしせいにてよこたわれり。)
固く握り締め、扉を足に頭を奥の帷幕に向けて、仰臥の姿勢にて横たわれり。
(そうぼうには、ややひつうみをおよぶとおもわれるちほうじょうのしかんをていし、げんばはよろいどを)
相貌には、やや悲痛味を帯ぶと思われる痴呆状の弛緩を呈し、現場は鎧扉を
(とざせるはくめいのへやにして、かじんはものおとをきかずといい、じぶつにもとりみだされたる)
閉ざせる薄明の室にして、家人は物音を聴かずと云い、事物にも取り乱されたる
(けいせきなし、なお、じょうじゅつのものいがいにはがいしょうはなく、しかも、どうじんがせいようふじん)
形跡なし、尚、上述のもの以外には外傷はなく、しかも、同人が西洋婦人
(にんぎょうをいだきてそのへやにはいりてより、きんきんじゅうぶんたらずのうちにおこれるじじつなり)
人形を抱きてその室に入りてより、僅々十分足らずのうちに起れる事実なり
(という。そのにんぎょうというは、るいちょうまっきのとれりふくをつけたるとうしんにんぎょうにして、)
と云う。その人形と云うは、路易朝末期の格檣襞服をつけたる等身人形にして、
(たれまくのかげにあるしんだいじょうにあり、もちいたるじさつようたんけんは、そのごふとうならんと)
帷幕の蔭にある寝台上にあり、用いたる自殺用短剣は、その護符刀ならんと
(すいていさる。のみならず、さんてつのしんぺんじじょうちゅうには、ぜんぜんどうきのしょざいふめいにして、)
推定さる。のみならず、算哲の身辺事情中には、全然動機の所在不明にして、
(てんじゅのおわりにちかきとくがくしゃが、いかにしてかかるぐきょをえんじたるものや、そのてん)
天寿の終りに近き篤学者が、いかにしてかかる愚挙を演じたるものや、その点
(すこぶるはんだんにくるしむところというべし 。どうだねはぜくらくん、だいにかいの)
すこぶる判断に苦しむところと云うべし――。「どうだね支倉君、第二回の
(へんしじけんからさんじゅうあまりねんをへだてていても、しいんのすいていがめいりょうであってもどういんが)
変死事件から三十余年を隔てていても、死因の推定が明瞭であっても動因が
(ない というてんは、めいはくにきょうつうしているのだ。だから、そこにひそんでいる)
ない――という点は、明白に共通しているのだ。だから、そこに潜んでいる
(めにみえないものが、こんどだんねべるぐふじんにあらわれたとはおもえないかね)
眼に見えないものが、今度ダンネベルグ夫人に現われたとは思えないかね」