晩年 ③

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太宰 治

関連タイピング

問題文

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(うまれてはじめてさんじゅつのきょうかしょをてにした。こがたの、まっくろいひょうし。ああ、)

生まれてはじめて算術の教科書を手にした。小型の、まっくろい表紙。ああ、

(なかのすうじのられつがどんなにうつくしくめにしみたことか。しょうねんは、しばらくそれを)

なかの数字の羅列がどんなに美しく眼にしみたことか。少年は、しばらくそれを

(いじくっていたが、やがて、かんまつのぺえじにすべてのかいとうがしるされているのを)

いじくっていたが、やがて、巻末のペエジにすべての回答が記されているのを

(はっけんした。しょうねんはまゆをひそめてつぶやいたのである。「ぶれいだなあ。」)

発見した。少年は眉をひそめて呟いたのである。「無礼だなあ。」

(そとはみぞれ、なにをわらうやれにんぞう。)

外はみぞれ、何を笑うやレニン像。

(おばのいう。「おまえはきりょうがわるいから、あいきょうだけでもよくなさい。)

叔母の言う。「お前はきりょうがわるいから、愛嬌だけでもよくなさい。

(おまえはからだがよわいから、こころだけでもよくなさい。おまえはうそがうまいから、)

お前はからだが弱いから、心だけでもよくなさい。お前は嘘がうまいから、

(おこないだけでもよくなさい。」)

行いだけでもよくなさい。」

(しっていながらそのこくはくをしいる。なんといういんけんなけいばつであろう。)

知っていながらその告白を強いる。なんといういんけんな刑罰であろう。

(まんげつのよい。ひかってはくずれ、うねってはくずれ、さかまき、のたうつなみのなかでたがいに)

満月の宵。光っては崩れ、うねっては崩れ、坂巻、のた打つ波のなかで互いに

(はなれまいとてをくるしまぎれにおれがわざとふりきったときおんなはたちまちなみにのまれて、)

離れまいと手を苦しまぎれに俺が故意と振り切ったとき女は忽ち浪に呑まれて、

(たかくなをよんだ。おれのなではなかった。)

たかく名を呼んだ。俺の名ではなかった。

(われはさんぞく。うぬがほこりをかすめとらむ。)

われは山賊。うぬが誇りをかすめとらむ。

(「よもやそんなことはあるまい、あるまいけれど、な、わしのどうぞうをたてるとき)

「よもやそんなことはあるまい、あるまいけれど、な、わしの銅像をたてるとき

(みぎのあしをはんぽだけまえへだし、ゆったりとそりみにして、ひだりのてはちょっきのなかへ)

右の足を半歩だけ前へだし、ゆったりとそりみにして、左の手はチョッキの中へ

(みぎのてはかきそんじのげんこうをにぎりつぶし、そうしてくびをつけぬこと。いやいや、)

右の手は書き損じの原稿をにぎりつぶし、そうして首をつけぬこと。いやいや、

(なんのいみもない。すずめのふんをはなのあたまにあびるなど、わしはいやなのだ。)

何の意味もない。雀の糞を鼻のあたまに浴びるなど、わしはいやなのだ。

(そうしてだいいしには、こうきざんでおくれ。ここにおとこがいる。うまれて、しんだ。)

そうして台石には、こう刻んでおくれ。ここに男がいる。生まれて、死んだ。

(いっしょうを、かきそんじのげんこうをやぶることにつかった。」)

一生を、書き損じの原稿を破ることに使った。」

(めふぃすとふぇれすはゆきのようにふりしきるばらのかべんにむねをほおをてのひらをやき)

メフィストフェレスは雪のように降りしきる薔薇の花弁に胸を頬を掌を焼き

など

(こがされておうじょうしたとかかれてある。)

こがされて往生したと書かれてある。

(りゅうちじょうでごじゅうろくにちをすごして、あるひのまひる、おれはそのりゅうちじょうのまどからせのびして)

留置場で五十六日を過して、或る日の真昼、俺はその留置場の窓から脊のびして

(そとをのぞくと、なかにわはこはるのひざしをいっぱいにうけて、まどちかくのさんぼんのなしの)

外を覗くと、中庭は小春の日ざしをいっぱいに受けて、窓ちかくの三本の梨の

(きはいずれもほつほつとはなをひらき、そのしたでじゅんさがにさんじゅうにんしてきょうれんを)

木はいずれもほつほつと花をひらき、そのしたで巡査がニ三十人して教練を

(やらされていた。わかいじゅんさぶちょうのごうれいにしたがって、みなはいっせいにこしからほじょうを)

やらされていた。わかい巡査部長の号令に従って、皆はいっせいに腰から捕縄を

(だしたり、よびぶえをふきならしたりするのであった。おれはそのふうけいをながめ、)

だしたり、呼笛を吹きならしたりするのであった。俺はその風景を眺め、

(じゅんさひとりひとりのいえについてかんがえた。)

巡査ひとりひとりの家について考えた。

(わたしたちはやまのおんせんばであてのないしゅうげんをした。はははしじゅうくつくつわらっていた)

私たちは山の温泉場であてのない祝言をした。母はしじゅうくつくつ笑っていた

(やどのじょちゅうのかみのかたちがきみょうであるからわらうのだとはははべんめいした。)

宿の女中の髪のかたちが奇妙であるから笑うのだと母は弁明した。

(うれしかったのであろう。むがくのははは、わたしたちをろばたによびよせ、きょうくんした。)

嬉しかったのであろう。無学の母は、私たちを炉端に呼びよせ、教訓した。

(おまえはじゅうろくたましだから、といいかけて、じしんをうしなったのであろう、もっとむがくの)

お前は十六魂だから、と言いかけて、自信を失ったのであろう、もっと無学の

(はなよめのかおをのぞき、のう、そうでせんか、とどういをもとめた。)

花嫁の顔を覗き、のう、そうでせんか、と同意を求めた。

(ははのことばは、あたっていたのに。)

母の言葉は、あたっていたのに。

(つまのきょういくに、まるさんねんをついやした。)

妻の教育に、まる三年を費やした。

(なったころより、かれはしのうとおもいはじめた。)

成ったころより、彼は死のうと思いはじめた。

(やむつまやとどこおるくもおにすすき。)

病む妻や とどこおる雲 鬼すすき。

(あけえあけえけむりこあ、もくらもくらとじゃたいみたいにてんさのぼっての、ふくれた、)

赤え赤え煙こあ、もくらもくらと蛇体みたいに天さのぼっての、ふくれた、

(ゆららとながれた、のっそらとおおなみうった、ぐるっぐるっとうずまえた、まもなくし)

ゆららと流れた、のっそらと大浪うった、ぐるっぐるっと渦まえた、間もなくし

(ひのてあ、ののののとあらけなくなり、じひびきたてたてやまばのぼりはじめたずおん)

火の手あ、ののののと荒けなくなり、地ひびきたてたて山ばのぼり始めたずおん

(やまあ、てっぺらまで、まんどろにあかるくなったずおん。どうどうもえあがる)

山あ、てっぺらまで、まんどろに明るくなったずおん。どうどう燃えあがる

(せんぼんまんぼんのふゆこだちばぬい、ひとをのせたまっくろいうまこあ、)

千本万本の冬木立ば縫い、人を乗せたまっくろい馬こあ、

(かぜみたいにはせていたずおん。(ふるさとのことばで。))

風みたいに馳せていたずおん。(ふるさとの言葉で。)

(たったひとことしらせてくれ!”nevermore”)

たった一言知らせて呉れ! ”Nevermore”

(そらのあおくはれたひならば、ねこはどこからやってきて、にわのさざんかのしたで)

空の碧く晴れた日ならば、ねこはどこからやって来て、庭の山茶花のしたで

(いねむりしている。ようがをかいているゆうじんは、ぺるしゃでないか、とわたしにきいた。)

居眠りしている。洋画をかいている友人は、ペルシャでないか、と私に聞いた。

(わたしは、すてねこだろう、とこたえておいた。ねこはだれにもなつかなかった。)

私は、すてねこだろう、と答えて置いた。ねこは誰にもなつかなかった。

(あるひ、わたしがちょうしょくのいわしをやいていたら、にわのねこがものうげにないた。)

ある日、私が朝食の鰯を焼いていたら、庭のねこがものうげに泣いた。

(わたしもえんがわへでて、にゃあ、といった。ねこはおきあがり、しずかにわたしのほうへあるいて)

私も縁側へでて、にゃあ、と言った。ねこは起きあがり、静かに私の方へ歩いて

(きた。わたしはいわしをいちびなげてやった。ねこはにげごしをつかいながらもたべたのだ。)

来た。私は鰯を一尾なげてやった。ねこは逃げ腰をつかいながらもたべたのだ。

(わたしのむねはなみうった。わがこいはいれられたり。ねこのしろいけをなでたくおもい、にわへ)

私の胸は浪うった。わが恋は容れられたり。猫の白い毛を撫でたく思い、庭へ

(おりた。せなかのけにふれるや、ねこは、わたしのこゆびのはらをほねまで)

おりた。脊中の毛にふれるや、ねこは、私の小指の腹を骨まで

(かりりとかみさいた。)

かりりと噛み裂いた。

(やくしゃになりたい。)

役者になりたい。

(むかしのにほんばしは、ながさがさんじゅうななけんよんしゃくごすんあったのであるが、いまはにじゅうななけん)

むかしの日本橋は、長さが三十七間四尺五寸あったのであるが、いまは廿七間

(しかない。それだけかわはばがせまくなったものとおもわねばいけない。このように)

しかない。それだけ川幅がせまくなったものと思わねばいけない。このように

(むかしは、かわといわずにんげんといわず、いまよりはるかにおおきかったのである。)

昔は、川と言わず人間と言わず、いまよりはるかにおおきかったのである。

(このはしは、おおむかしのけいちょうしちねんにはじめてかけられて、そののちじゅったびばかり)

この橋は、おおむかしの慶長七年に始めて架けられて、そののち十たびばかり

(つくりかえられ、いまのはめいじよんじゅうよねんにらくせいしたものである。たいしょうじゅうにねんのしんさいの)

作り変えられ、今のは明治四十四年に落成したものである。大正十二年の震災の

(ときは、はしのらんかんにかざられてあるせいどうのりゅうのつばさが、ほのおにつつまれてまっかに)

ときは、橋のらんかんに飾られてある青銅の竜の翼が、焔に包まれてまっかに

(やけた。わたしのようじにあいしたもくはんのとうかいどうごじゅうさんつぎどうちゅうすごろくでは、ここがふりだし)

焼けた。私の幼時に愛した木版の東海道五十三次道中双六では、ここが振り出し

(になっていて、いくにんものやっこのそれぞれながいやりをもってこのはしのうえをあるいて)

になっていて、幾人ものやっこのそれぞれ長い槍を持ってこの橋のうえを歩いて

(いるえが、のどかにかかれてあった。もとはこんなぐあいにはんかであったので)

いる画が、のどかにかかれてあった。もとはこんなぐあいに繁華であったので

(あろうが、いまは、たいへんさびれてしまった。うおがしがつきじへうつってからは)

あろうが、いまは、たいへんさびれてしまった。魚河岸が築地へうつってからは

(いっそうなまえもすたれて、げんざいは、たいていのとうきょうめいしょえはがきから)

いっそう名前もすたれて、げんざいは、たいていの東京名所絵葉書から

(とりのぞかれている。ことし、じゅうにがつげじゅんのあるきりのふかいよるに、このはしのたもと)

取り除かれている。ことし、十二月下旬の或る霧のふかい夜に、この橋のたもと

(でいじんのおんなのこがたくさんのこじきのむれからひとりはなれてたたずんでいた。はなを)

で偉人の女の子がたくさんの乞食の群れからひとり離れて佇んでいた。花を

(うっていたのはこのおんなのこである。みっかほどまえから、たそがれどきになると)

売っていたのは此の女の子である。三日ほどまえから、黄昏どきになると

(ひとたばのはなをもってここへでんしゃでやってきて、とうきょうしのまるいもんしょうにじゃれついて)

一束の花を持ってここへ電車でやって来て、東京市の丸い紋章にじゃれついて

(いるせいどうのからししのしたで、さんよじかんぐらいだまってたっているのである。)

いる青銅の唐獅子の下で、三四時間ぐらい黙って立っているのである。

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