晩年 ㉚

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プレイ回数691難易度(4.5) 4817打 長文
太宰 治

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問題文

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(ひだは、てもちぶさたげにゆかをすりっぱでぱたぱたとたたいたりして、しばらく)

飛騨は、手持ちぶさたげに床をスリッパでぱたぱたと叩いたりして、しばらく

(ようぞうのまくらもとにたっていた。どあがおともなくあき、せいふくをきたこがらなだいがくせいが、)

葉蔵の枕元に立っていた。ドアが音もなくあき、制服を着た小柄な大学生が、

(ひょっくりそのうつくしいかおをだした。ひだはそれをみつけて、うなるほどほっとした)

ひょっくりその美しい顔を出した。飛騨はそれを見つけて、唸るほどほっとした

(ほおにのぼるびしょうのかげを、くちもとゆがめておいはらいながら、わざとゆったりした)

頬にのぼる微笑の影を、口もとゆがめて追いはらいながら、わざとゆったりした

(ほちょうでどあのほうへいった。「いまついたの?」「そう。」こすがは、)

歩調でドアのほうへ行った。「いま着いたの?」「そう。」小菅は、

(ようぞうのほうをきにしつつ、せきこんでこたえた。こすがというのである。)

葉蔵のほうを気にしつつ、せきこんで答えた。小菅というのである。

(このおとこは、ようぞうとしんせきであって、だいがくのほうかにせきをおき、ようぞうとはみっつもとしが)

この男は、葉蔵と親戚であって、大学の法科に席を置き、葉蔵とは三つもとしが

(ちがうのだけれど、それでも、へだてないともだちであった。あたらしいせいねんは、)

違うのだけれど、それでも、へだてない友だちであった。あたらしい青年は、

(ねんれいにあまりこうでいせぬようである。ふゆやすみでこきょうへかえっていたのだが、)

年齢にあまり拘泥せぬようである。冬休みで故郷へ帰っていたのだが、

(ようぞうのことをきき、すぐきゅうこうれっしゃでとんできたのであった。ふたりはろうかへでて)

葉蔵のことを聞き、すぐ急行列車で飛んで来たのであった。ふたりは廊下へ出て

(たちばなしをした。「すすがついているよ。」ひだは、おおっぴらにげらげらわらって、)

立ち話をした。「煤がついているよ。」飛騨は、おおっぴらにげらげら笑って、

(こすがのはなのしたをゆびさした。れっしゃのばいえんが、そこにうっすりこびりついていた。)

小菅の鼻のしたを指さした。列車の煤煙が、そこにうっすりこびりついていた。

(「そうか。」こすがは、あわててむねのぽけっとからはんけちをとりだし、)

「そうか。」小菅は、あわてて胸のポケットからハンケチを取りだし、

(さっそくはなのしたをこすった。「どうだい。どんなぐあいだい。」)

さっそく鼻のしたをこすった。「どうだい。どんな工合いだい。」

(「おおばか?だいじょうぶらしいよ。」「そうか。おちたかい。」はなのしたを)

「大庭か?だいじょうぶらしいよ。」「そうか。落ちたかい。」鼻のしたを

(ぐっとのばしてひだにみせた。「おちたよ。おちたよ。うちではたいへんな)

ぐっとのばして飛騨に見せた。「落ちたよ。落ちたよ。うちでは大変な

(さわぎだろう。」はんけちをむねのぽけっとにつっこみながらへんじした。)

騒ぎだろう。」ハンケチを胸のポケットにつっこみながら返事した。

(「うん。おおさわぎさ。おとむらいみたいだったよ。」「うちからだれかくるの?」)

「うん。大騒ぎさ。お葬いみたいだったよ。」「うちから誰か来るの?」

(「にいさんがくる。おやじさんは、ほっとけ、といってる。」「だいじけんだなあ。」)

「兄さんが来る。親爺さんは、ほっとけ、と言ってる。」「大事件だなあ。」

(ひだはひくいひたいにかたてをあててつぶやいた。「ようちゃんは、ほんとに、よいのか。」)

飛騨はひくい額に片手をあてて呟いた。「葉ちゃんは、ほんとに、よいのか。」

など

(「あんがい、へいきだ。あいつは、いつもそうなんだ。」こすがはうかれてでも)

「案外、平気だ。あいつは、いつもそうなんだ。」小菅は浮かれてでも

(いるようにこうかくにびしょうをふくめてくびかしげた。「どんなきもちだろうな。」)

いるように口角に微笑を含めて首かしげた。「どんな気持ちだろうな。」

(「わからん。おおばにあってみないか。」「いいよ。あったって、はなしすることも)

「わからん。大庭に逢ってみないか。」「いいよ。逢ったって、話することも

(ないし、それに、こわいよ。」ふたりは、ひくくわらいだした。)

ないし、それに、こわいよ。」ふたりは、ひくく笑いだした。

(まのがびょうしつからでてきた。「きこえています。ここでたちばなしをしないように)

真野が病室から出て来た。「聞えています。ここで立ち話をしないように

(しましょうよ。」「あ、そいつあ。」ひだはきょうしゅくして、おおきいからだをけんめいに)

しましょうよ。」「あ、そいつあ。」飛騨は恐縮して、おおきいからだを懸命に

(ちいさくした。こすがはふしぎそうなおももちでまののかおをのぞいていた。)

小さくした。小菅は不思議そうなおももちで真野の顔を覗いていた。

(「おふたりとも、あの、おひるのごはんは?」「まだです。」ふたりいっしょにこたえた)

「おふたりとも、あの、おひるの御飯は?」「まだです。」ふたり一緒に答えた

(まのはかおをあかくしてふきだした。さんにんがそろってしょくどうへでかけてから、ようぞうは)

真野は顔を赤くして噴きだした。三人がそろって食堂へ出掛けてから、葉蔵は

(おきあがった。あめにけむるおきをながめたわけである。「ここをすぎてくうもうのふち。」)

起きあがった。雨にけむる沖を眺めたわけである。「ここを過ぎて空濛の淵。」

(それからさいしょのかきだしへかえるのだ。さて、われながらふてぎわである。)

それから最初の書きだしへ返るのだ。さて、われながら不手際である。

(だいいちぼくは、このようなじかんのからくりをすかない。すかないけれどこころみた。)

だいいち僕は、このような時間のからくりを好かない。好かないけれど試みた。

(ここをすぎてかなしみのまち。ぼくは、このふだんくちなれたじごくのもんのえいたんを、)

ここを過ぎて悲しみの市。僕は、このふだん口馴れた地獄の門の詠嘆を、

(はえあるかきだしのいちぎょうにまつりあげたかったからである。ほかにりゆうはない。)

栄えある書きだしの一行にまつりあげたかったからである。ほかに理由はない。

(もしこのいちぎょうのために、ぼくのしょうせつがしっぱいしてしまったとて、ぼくはこころよわくそれを)

もしこの一行のために、僕の小説が失敗してしまったとて、僕は心弱くそれを

(まっさつするきはない。みえのきりついでにもうひとこと。あのいちぎょうをけすことは、)

抹殺する気はない。見栄の切りついでにもう一言。あの一行を消すことは、

(ぼくのきょうまでのせいかつをけすことだ。)

僕のきょうまでの生活を消すことだ。

(「しそうだよ、きみ、まるきしずむだよ。」このことばはまがぬけて、よい。)

「思想だよ、君、マルキシズムだよ。」この言葉は間が抜けて、よい。

(こすががそれをいったのである。したりがおにそういって、みるくのちゃわんを)

小菅がそれを言ったのである。したり顔にそう言って、ミルクの茶碗を

(もちなおした。しほうのいたばりのかべには、しろいぺんきがぬられ、ひがしがわのかべには、)

持ち直した。四方の板張りの壁には、白いペンキが塗られ、東側の壁には、

(いんちょうのどうかだいのくんしょうをむねにみっつつけたしょうぞうががたかくかけられて、じゅっきゃくほどの)

院長の銅貨大の勲章を胸に三つ附けた肖像画が高く掛けられて、十脚ほどの

(ほそながいてえぶるがそのしたにひっそりならんでいた。しょくどうは、がらんとしていた。)

細長いテエブルがそのしたにひっそり並んでいた。食堂は、がらんとしていた。

(ひだとこすがは、とうなんのすみのてえぶるにすわり、しょくじをとっていた。)

飛騨と小菅は、東南の隅のテエブルに坐り、食事をとっていた。

(「ずいぶん、はげしくやっていたよ。」こすがはこえをひくめてかたりつづけた。)

「ずいぶん、はげしくやっていたよ。」小菅は声をひくめて語りつづけた。

(「よわいからだで、あんなにはしりまわっていたのでは、しにたくもなるよ。」)

「弱いからだで、あんなに走りまわっていたのでは、死にたくもなるよ。」

(「こうどうたいのきゃっぷだろう。しっている。」ひだはぱんをもぐもぐかみかえし)

「行動隊のキャップだろう。知っている。」飛騨はパンをもぐもぐ嚙みかえし

(つつくちをはさんだ。ひだははくしきぶったのではない。さよくのようごぐらい、)

つつ口をはさんだ。飛騨は博識ぶったのではない。左翼の用語ぐらい、

(そのころのせいねんならだれでもしっていた。「しかし、それだけでないさ。)

そのころの青年なら誰でも知っていた。「しかし、それだけでないさ。

(げいじゅつかはそんなにあっさりしたものでないよ。」しょくどうはくらくなった。)

芸術家はそんなにあっさりしたものでないよ。」食堂は暗くなった。

(あめがつよくなったのである。こすがはみるくをひとくちのんでからいった。)

雨がつよくなったのである。小菅はミルクをひとくち飲んでから言った。

(「きみは、ものをしゅかんてきにしかかんがえれないからだめだな。そもそも、そもそもだよ)

「君は、ものを主観的にしか考えれないから駄目だな。そもそも、そもそもだよ

(にんげんひとりのじさつには、ほんにんのいしきしてないなにかきゃっかんてきなおおきいげんいんが)

人間ひとりの自殺には、本人の意識してない何か客観的な大きい原因が

(ひそんでいるものだ、という。うちでは、みんな、おんながげんいんだときめてしまって)

ひそんでいるものだ、という。うちでは、みんな、女が原因だときめてしまって

(いたが、ぼくは、そうでないといっておいた。おんなはただ、みちづれさ。)

いたが、僕は、そうでないと言って置いた。女はただ、みちづれさ。

(べつなおおきいげんいんがあるのだ。うちのやつらはそれをしらない。きみまで、へんな)

別なおおきい原因があるのだ。うちの奴等はそれを知らない。君まで、変な

(ことをいう。いかんぞ。」ひだは、あしもとのもえているすとおぶのひを)

ことを言う。いかんぞ。」飛騨は、あしもとの燃えているストオブの火を

(みつめながらつぶやいた。「おんなには、しかし、ていしゅがべつにあったのだよ。」)

見つめながら呟いた。「女には、しかし、亭主が別にあったのだよ。」

(みるくのちゃわんをしたにおいてこすがはおうじた。「しってるよ。そんなことは、)

ミルクの茶碗をしたに置いて小菅は応じた。「知ってるよ。そんなことは、

(なんでもないよ。ようちゃんにとっては、へでもないことさ。)

なんでもないよ。葉ちゃんにとっては、屁でもないことさ。

(おんなにていしゅがあったから、しんじゅうするなんて、あまいじゃないか。」)

女に亭主があったから、心中するなんて、甘いじゃないか。」

(いいおわってから、あたまのうえのしょうぞうがをかためつぶってねらってながめた。)

言いおわってから、頭の上の肖像画を片眼つぶって狙って眺めた。

(「これが、ここのいんちょうかい。」「そうだろう。しかし、ほんとうのことは、)

「これが、ここの院長かい。」「そうだろう。しかし、ほんとうのことは、

(おおばでなくちゃわからんよ。」「それぁそうだ。」こすがはきがるくどういして、)

大庭でなくちゃわからんよ。」「それぁそうだ。」小菅は気軽く同意して、

(きょろきょろあたりをみまわした。「さむいなあ。きみ、きょうここへとまるかい。」)

きょろきょろあたりを見廻した。「寒いなあ。君、きょうここへ泊るかい。」

(ひだはぱんをあわててのみくだして、うなずいた。「とまる。」)

飛騨はパンをあわてて呑みくだして、首肯いた。「泊る。」

(せいねんたちはいつでもほんきにぎろんをしない。おたがいにあいてのしんけいへふれまい)

青年たちはいつでも本気に議論をしない。お互いに相手の神経へふれまい

(ふれまいとさいだいげんのちゅういをしつつ、おのれのしんけいをもたいせつにかばっている。)

ふれまいと最大限の注意をしつつ、おのれの神経をも大切にかばっている。

(むだなあなどりをうけたくないのである。しかも、ひとたびきずつけば、あいてをころすか)

むだな侮りを受けたくないのである。しかも、ひとたび傷つけば、相手を殺すか

(おのれがしぬるか、きっとそこまでおもいつめる。だから、あらそいを)

おのれが死ぬるか、きっとそこまで思いつめる。だから、あらそいを

(いやがるのだ。かれらは、よいかげんなごまかしのことばをかずおおくしっている。)

いやがるのだ。彼等は、よい加減なごまかしの言葉を数多く知っている。

(いなというひとことさえ、じゅっしょくくらいにはなんなくつかいわけてみせるだろう。)

否という一言さえ、十色くらいにはなんなく使いわけて見せるだろう。

(ぎろんをはじめるさきから、もうだきょうのひとみをかわしているのだ。そしておしまいに)

議論をはじめる先から、もう妥協の瞳を交わしているのだ。そしておしまいに

(わらってあくしゅしながら、はらのなかでおたがいがともにともにこうつぶやく。ていのうめ!)

笑って握手しながら、腹のなかでお互いがともにともにこう呟く。低脳め!

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