晩年 ㊵

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太宰 治

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問題文

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(よるがあけた。それにいちまつのくももなかった。きのうのゆきはあらかたきえて、)

夜が明けた。それに一抹の雲もなかった。きのうの雪はあらかた消えて、

(まつのしたかげやいしのだんだんのすみにだけ、ねずみいろしてすこしずつのこっていた。)

松のしたかげや石の段々の隅にだけ、鼠いろして少しずつのこっていた。

(うみにはもやがいっぱいたちこめ、そのもやのおくのあちこちからぎょせんのはつどうきのおとが)

海には靄がいっぱい立ちこめ、その靄の奥のあちこちから漁船の発動機の音が

(きこえた。「たいていだいじょうぶでしょう。でも、おきをつけてね。)

聞えた。「たいていだいじょうぶでしょう。でも、お気をつけてね。

(けいさつのほうへはわたしからもよくもうしておきます。まだまだ、ほんとうのからだでは)

警察のほうへは私からもよく申して置きます。まだまだ、ほんとうのからだでは

(ないのですから。まのくん、かおのばんそうこうははいでいいだろう。」まのはすぐ、)

ないのですから。真野君、顔の絆創膏は剥いでいいだろう。」真野はすぐ、

(ようぞうのがあぜをはぎとった。きずはなおっていた。かさぶたさえとれて、)

葉蔵のガアゼを剥ぎとった。傷はなおっていた。かさぶたさえとれて、

(ただあかじろいはんてんてんになっていた。「こんなことをもうしあげるとしつれいでしょうけれど)

ただ赤白い斑点になっていた。「こんなことを申しあげると失礼でしょうけれど

(これからほんとうにおべんきょうなさるように。」いんちょうはそういって、)

これからほんとうに御勉強なさるように。」院長はそう言って、

(はにかんだようなめをうみへむけた。ようぞうもなにやらばつのわるいおもいをした。)

はにかんだような眼を海へむけた。葉蔵もなにやらばつの悪い思いをした。

(べっどのうえにすわったまま、ぬいだきものをまたきなおしながらだまっていた。)

ベッドのうえに坐ったまま、脱いだ着物をまた着なおしながら黙っていた。

(そのときたかいわらいごえとともにどあがあき、ひだとこすががびょうしつへころげこむように)

そのとき高い笑い声とともにドアがあき、飛騨と小菅が病室へころげこむように

(してはいってきた。みんなおはようをいいかわした。いんちょうもこのふたりに、)

してはいって来た。みんなおはようを言い交した。院長もこのふたりに、

(あさのあいさつをして、それからくちごもりつつことばをかけた。「きょういちにちです。)

朝の挨拶をして、それから口ごもりつつ言葉を掛けた。「きょういちにちです。

(おなごりおしいですな。」いんちょうがさってから、こすががいちばんさきにくちをきった)

お名残りおしいですな。」院長が去ってから、小菅がいちばんさきに口を切った

(「じょさいがないな。たこみたいなつらだ。」かれらはひとのかおにきょうみをもつ。)

「如才がないな。蛸みたいなつらだ。」彼等はひとの顔に興味を持つ。

(かおでもって、そのひとのぜんぶのかちをきめたがる。「しょくどうにあのひとのえが)

顔でもって、そのひとの全部の価値をきめたがる。「食堂にあのひとの画が

(あるよ。くんしょうをつけているんだ。」「まずいえだよ。」ひだは、そういいすてて)

あるよ。勲章をつけているんだ。」「まずい面だよ。」飛騨は、そう言い捨てて

(ヴぇらんだへでた。きょうはあにのきものをかりてきていた。ちゃいろのどっしりした)

ヴェランダへ出た。きょうは兄の着物を借りて着ていた。茶色のどっしりした

(ぬのじであった。えりもとをきにしいしいヴぇらんだのいすにこしかけた。)

布地であった。襟もとを気にしいしいヴェランダの椅子に腰かけた。

など

(「ひだもこうしてみると、おおやのふうぼうがあるな。」こすがもヴぇらんだへでた。)

「飛騨もこうして見ると、大家の風貌があるな。」小菅もヴェランダへ出た。

(「ようちゃん。とらんぷしないか。」ヴぇらんだへいすをもちだしてさんにんは、)

「葉ちゃん。トランプしないか。」ヴェランダへ椅子をもち出して三人は、

(わけのわからぬげえむをはじめたのである。しょうぶのなかば、こすがはまじめにつぶやいた)

わけのわからぬゲエムを始めたのである。勝負のなかば、小菅は真面目に呟いた

(「ひだはきどってるねえ。」「ばか。きみこそ。なんだそのてつきは。」)

「飛騨は気取ってるねえ。」「馬鹿。君こそ。なんだその手つきは。」

(さんにんはくつくつわらいだし、いっせいにそっととなりのヴぇらんだをぬすみみた。)

三人はくつくつ笑いだし、いっせいにそっと隣りのヴェランダを盗み見た。

(いごうしつのかんじゃも、ろごうしつのかんじゃも、にっこうよくようのしんだいによこたわっていて、さんにんの)

い号室の患者も、ろ号室の患者も、日光浴用の寝台に横わっていて、三人の

(ようすにかおをあかくしてわらっていた。「だいしっぱい。しっていたのか。」こすがはくちを)

様子に顔をあかくして笑っていた。「大失敗。知っていたのか。」小菅は口を

(おおきくあけて、ようぞうへめくばせした。さんにんは、おもいきりこえをたててわらいくずれた。)

大きくあけて、葉蔵へ目くばせした。三人は、思いきり声をたてて笑い崩れた。

(かれらは、しばしばこのようなどうけをえんずる。とらんぷしないか、とこすがが)

彼等は、しばしばこのような道化を演ずる。トランプしないか、と小菅が

(いいだすと、もはやようぞうもひだもそのかくされたもくろみをのみこむのだ。)

言い出すと、もはや葉蔵も飛騨もそのかくされたもくろみをのみこむのだ。

(まくぎれまでのあらすじをちゃんとこころえているのである。かれらはてんねんのうつくしい)

幕切れまでのあらすじをちゃんと心得ているのである。彼等は天然の美しい

(ぶたいそうちをみつけると、なぜかしばいをしたがるのだ。それは、きねんのいみかも)

舞台装置を見つけると、なぜか芝居をしたがるのだ。それは、紀念の意味かも

(しれない。このばあい、ぶたいのはいけいは、あさのうみである。けれども、このときの)

知れない。この場合、舞台の背景は、朝の海である。けれども、このときの

(わらいごえは、かれらにさえおもいおよばなかったほどのだいじけんをうんだ。)

笑い声は、彼等にさえ思い及ばなかったほどの大事件を生んだ。

(まのがそのりょうよういんのかんごふちょうにしかられたのである。わらいごえがおこってごふんも)

真野がその療養院の看護婦長に叱られたのである。笑い声が起こって五分も

(たたぬうちにまのがかんごふちょうのへやによばれ、おしずかになさいとずいぶんひどく)

経たぬうちに真野が看護婦長の部屋に呼ばれ、お静かになさいとずいぶんひどく

(しかられた。なきだしそうにしてそのへやからとびだし、とらんぷをしてびょうしつで)

叱られた。泣きだしそうにしてその部屋から飛び出し、トランプをして病室で

(ごろごろしているさんにんへ、このことをしらせた。さんにんは、いたいほどしたたかに)

ごろごろしている三人へ、このことを知らせた。三人は、痛いほどしたたかに

(しょげて、しばらくただかおをみあわせていた。かれらのうちょうてんなきょうげんを、)

しょげて、しばらくただ顔を見合わせていた。彼等の有頂天な狂言を、

(げんじつのよびごえが、よせやいとせせらわらってぶちこわしたのだ。)

現実の呼びごえが、よせやいとせせら笑ってぶちこわしたのだ。

(これは、ほとんどちめいてきでさえありうる。「いいえ、なんでもないんです。」)

これは、ほとんど致命的でさえあり得る。「いいえ、なんでもないんです。」

(まのは、かえってはげますようにしていった。「このびょうとうには、じゅうしょうかんじゃが)

真野は、かえってはげますようにして言った。「この病棟には、重症患者が

(ひとりもいないのですし、それにきのうも、ろごうしつのおかあさまがわたしとろうかで)

ひとりもいないのですし、それにきのうも、ろ号室のお母さまが私と廊下で

(あったとき、にぎやかでいいとおっしゃって、よろこんでおられましたのよ。)

逢ったとき、賑やかでいいとおっしゃって、喜んで居られましたのよ。

(まいにち、わたしたちはあなたがたのおはなしをきいてわらわされてばかりいるって、)

毎日、私たちはあなたがたのお話を聞いて笑わされてばかりいるって、

(そうおっしゃったわ。いいんですのよ。かまいません。」「いや。」こすがは)

そうおっしゃったわ。いいんですのよ。かまいません。」「いや。」小菅は

(そふぁからたちあがった。「よくないよ。ぼくたちのおかげできみがはじかいたんだ。)

ソファから立ちあがった。「よくないよ。僕たちのおかげで君が恥かいたんだ。

(ふちょうのやつ。なぜぼくたちにちょくせついわないのだ。ここへつれてこいよ。ぼくたちを)

婦長のやつ。なぜ僕たちに直接言わないのだ。ここへ連れて来いよ。僕たちを

(そんなにきらいなら、いますぐにでもたいいんさせればいい。いつでもたいいん)

そんなにきらいなら、いますぐにでも退院させればいい。いつでも退院

(してやる。」さんにんとも、このとっさのあいだに、ほんきでたいいんのはらをきめた。)

してやる。」三人とも、このとっさの間に、本気で退院の腹をきめた。

(ことにもようぞうは、じどうしゃにのってかいひんづたいにとんそうしていくはればれしきよにんの)

殊にも葉蔵は、自動車に乗って海浜づたいに遁走して行くはればれしき四人の

(すがたをはるかにおもった。ひだもそふぁからたちあがって、わらいながらいった。)

すがたをはるかに思った。飛騨もソファから立ちあがって、笑いながら言った。

(「やろうか、みんなでふちょうのところへおしかけていこうか。ぼくたちをしかるなんて)

「やろうか、みんなで婦長のところへ押しかけて行こうか。僕たちを叱るなんて

(ばかだ。」「たいいんしようよ。」こすがはどあをそっとけった。「こんなけちな)

馬鹿だ。」「退院しようよ。」小菅はドアをそっと蹴った。「こんなけちな

(びょういんは、おもしろくないや。しかるのはかまわないよ。しかししかるいぜんのこころもちが)

病院は、面白くないや。叱るのは構わないよ。しかし叱る以前の心持が

(いやなんだ。ぼくたちをなにかふりょうしょうねんみたいにかんがえていたにちがいないのさ。)

いやなんだ。僕たちをなにか不良少年みたいに考えていたにちがいないのさ。

(あたまがわるくてぶるじょあくさいべらべらしたふつうのもだんぼーいだと)

頭がわるくてブルジョア臭いべらべらしたふつうのモダンボーイだと

(おもっているんだ。」いいおえて、またどあをまえよりすこしつよくけってやった。)

思っているんだ。」言い終えて、またドアをまえよりすこし強く蹴ってやった。

(それから、たえかねたようにしてふきだした。ようぞうはべっどへどしんとおとを)

それから、堪えかねたようにして噴きだした。葉蔵はベッドへどしんと音を

(たててねころがった。「それじゃ、ぼくなんかは、さしずめいろじろなれんあいしじょうしゅぎしゃ)

たてて寝ころがった。「それじゃ、僕なんかは、さしずめ色白な恋愛至上主義者

(というようなところだ。もう、いかん。」かれらは、このやばんじんのぶじょくに、)

というようなところだ。もう、いかん。」彼等は、この野蛮人の侮辱に、

(なおもはらわたのにえくりかえるおもいをしているのだが、さびしくおもいなおして、)

尚もはらわたの煮えくりかえる思いをしているのだが、さびしく思い直して、

(それをよいかげんにちゃかそうとこころみる。かれらはいつもそうなのだ。けれどもまのは)

それをよい加減に茶化そうと試みる。彼等はいつもそうなのだ。けれども真野は

(そっちょくだった。どあのわきのかべに、りょううでをうしろへまわしてよりかかり、)

率直だった。ドアのわきの壁に、両腕をうしろへまわしてよりかかり、

(めくれあがったうわくちびるをことさらにきゅっととがらせていうのであった。)

めくれあがった上唇をことさらにきゅっと尖らせて言うのであった。

(「そうなんでございますのよ。ずいぶんですわ。ゆうべだって、ふちょうしつへ)

「そうなんでございますのよ。ずいぶんですわ。ゆうべだって、婦長室へ

(かんごふをおおぜいあつめて、かるたなんかしておおさわぎだったくせに。」)

看護婦をおおぜいあつめて、歌留多なんかして大さわぎだったくせに。」

(「そうだ。じゅうにじすぎまできゃっきゃっいっていたよ。ちょっとばかだな。」)

「そうだ。十二時すぎまできゃっきゃっ言っていたよ。ちょっと馬鹿だな。」

(ようぞうはそうつぶやきつつ、まくらもとにちらばってあるもくたんしをいちまいひろいあげ、)

葉蔵はそう呟きつつ、枕元に散らばってある木炭紙をいちまい拾いあげ、

(あおむけにねたままでそれへらくがきをはじめた。)

仰向けに寝たままでそれへ落書きをはじめた。

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