黒死館事件31
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問題文
(こうして、ばいおんのしんぴがいよいよかくていされてしまうと、のりみずにはいたいたしい)
こうして、倍音の神秘がいよいよ確定されてしまうと、法水には痛々しい
(ひろうのいろがあらわれ、もはやくちをきくきりょくさえつきはてたようにおもわれた。)
疲労の色が現われ、もはや口を聴く気力さえ尽き果てたように思われた。
(しかし、かんがえようによっては、よりいじょうのけたいとおもわれるのぶこのしっしんに、)
しかし、考えようによっては、より以上の怪態と思われる伸子の失神に、
(もういちどしんけいをこくしせねばならぬぎむがのこっていた。そのころはもうにちぼつが)
もう一度神経を酷使せねばならぬ義務が残っていた。その頃はもう日没が
(せまっていて、そうだいなけっこうはうすやみのなかにぼっしさり、わずかにえんげまどからはいってくる)
迫っていて、壮大な結構は幽暗の中に没し去り、わずかに円華窓から入って来る
(かすかなひかりのみが、つめたいくうきのなかでいんいんとゆらめいていた。そのなかで、ときおり)
微かな光のみが、冷たい空気の中で陰々と揺めいていた。その中で、時折
(つばさのようなかげがよぎっていくけれども、たぶんおおがらすのむれが、えんげまどからかすめて、)
翼のような影が過って行くけれども、たぶん大鴉の群が、円華窓から掠めて、
(せんとうのぴーるのうえにもどっていくからであろう。ところでのぶこのじょうたいについても、)
尖塔の振鐘の上に戻って行くからであろう。ところで伸子の状態についても、
(さいじょのひつようがあるとおもう。のぶこはまるがたのかいてんいすにこしだけをのこして、)
細叙の必要があると思う。伸子は丸形の廻転椅子に腰だけを残して、
(そこからしたはややひだりむきになり、じょうはんしんはそれとはんたいに、いくぶんみぎかたに)
そこから下はやや左向きになり、上半身はそれと反対に、幾分右方に
(かたむいていて、がくりとはいごにのけぞっている。そのとうへんさんかくけいににたかたちをみても)
傾いていて、ガクリと背後にのけ反っている。その倒辺三角形に似た形を見ても
(かのじょはえんそうちゅうに、そのすがたのままでこうほうへたおれたものであることはあきらかだった。)
彼女は演奏中に、その姿のままで後方へ倒れたものであることは明らかだった。
(しかし、ふしぎなことには、ぜんしんにわたってうのけほどのきずもなく、ただゆかへ)
しかし、不思議な事には、全身にわたって鵜の毛ほどの傷もなく、ただ床へ
(うちあてたさいに、できたらしいひかしゅっけつのあとが、わずかこうとうぶに)
打ち当てた際に、出来たらしい皮下出血の跡が、わずか後頭部に
(のこされているのみだった。またちゅうどくとおぼしいちょうこうもあらわれていない。りょうめも)
残されているのみだった。また中毒と思しい徴候も現われていない。両眼も
(ひらいているが、かっきなくものうそうににごっていて、ひょうじょうにもきんちょうがなく、それに、)
ひらいているが、活気なく懶そうに濁っていて、表情にも緊張がなく、それに、
(したあごだけがひらいているところといい、どことなくおしんとでもいったら)
下顎だけが開いているところと云い、どことなく悪心とでも云ったら
(あたるかもしれない、ふかいきなひょうじょうがのこっているようにおもわれた。ぜんしんにも、)
当るかもしれない、不快気な表情が残っているように思われた。全身にも、
(たんじゅんしっしんとくゆうのちょうこうがあらわれていて、けいれんのあともなく、わたのように)
単純失神特有の徴候が現われていて、痙攣の跡もなく、綿のように
(しかんしているけれども、ふしんなことには、ほんのりあぶらがういているよろいどおしだけは、)
弛緩しているけれども、不審な事には、仄のり脂が浮いている鎧通しだけは、
(かなりかたくにぎりしめていて、うでをあげてふってみても、いっこうにてのひらから)
かなり固く握り締めていて、腕を上げて振ってみても、いっこうに掌から
(はずれようとはしない。そうたいとしてしっしんのげんいんは、のぶこのたいないに)
外れようとはしない。総体として失神の原因は、伸子の体内に
(ふくざいしているものと、おもうよりほかにないのであった。のりみずは)
伏在しているものと、思うよりほかにないのであった。法水は
(しんじゅうけっするところがあったとみえて、のぶこをだきあげたしふくにいった。)
心中決するところがあったとみえて、伸子を抱き上げた私服に云った。
(ほんちょうのかんしきいにそういってくれたまえ。 だいいち、いせんできをやるように。)
「本庁の鑑識医にそう云ってくれ給え。――第一、胃洗滌をやるように。
(それからいちゅうのざんりゅうぶつとにょうのけんさすることと、ふじんかてきなかんさつだ。またもうひとつは)
それから胃中の残留物と尿の検査する事と、婦人科的な観察だ。またもう一つは
(ぜんしんのあっつうぶときんはんしゃをしらべることなんだ そうして、のぶこがかいかに)
全身の圧痛部と筋反射を調べる事なんだ」そうして、伸子が階下に
(はこばれてしまうと、のりみずはひといきたばこのけむりをぐいとすいこんでから、ああ、)
運ばれてしまうと、法水は一息莨の烟をグイと喫い込んでから、「ああ、
(このきょくめんは、ぼくにとうていしゅうそくできそうもないよ とよわよわしいこえで)
この局面は、僕にとうてい集束出来そうもないよ」と弱々しい声で
(つぶやくのだった。だが、のぶこのからだにあらわれているものだけはかんたんじゃないか。)
呟くのだった。「だが、伸子の身体に現われているものだけは簡単じゃないか。
(なあに、しょうきにもどればなにもかもわかるよ けんじはむぞうさにいったが、のりみずはまんめんに)
なあに、正気に戻れば何もかも判るよ」検事は無雑作に云ったが、法水は満面に
(かいぎをみなぎらせてなおもたんそくをつづけた。いやどうして、さくざつてんとうしている)
懐疑を漲らせてなおも嘆息を続けた。「いやどうして、錯雑顛倒している
(ところはあいかわらずのものさ。かえってだんねべるぐふじんや、えきすけよりも)
ところは相変わらずのものさ。かえってダンネベルグ夫人や、易介よりも
(なんかいかもしれない。それが、いじわるくちょうこうてきなものじゃないからだよ。)
難解かもしれない。それが、意地悪く徴候的なものじゃないからだよ。
(いっこうなにもないようでいて、そのくせむじゅんだらけなんだ。とにかく、せんもんかの)
いっこう何もないようでいて、そのくせ矛盾だらけなんだ。とにかく、専門家の
(かんしきをもとめることにしたよ。ぼくのようなあさいちしきだけで、どうしてこんな)
鑑識を求めることにしたよ。僕のような浅い知識だけで、どうしてこんな
(ばけものみたいなしょうのうのはんだんができるもんか。なにしろ、きんかくでんどうのほうそくが)
化物みたいな小脳の判断が出来るもんか。なにしろ、筋覚伝導の法則が
(めちゃめちゃにくるっているんだから しかし、こんなたんじゅんなものを......)
滅茶滅茶に狂っているんだから」「しかし、こんな単純なものを......」
(とくましろが、いぎをのべたてようとすると、のりみずはいきなりさえぎって、だって)
と熊城が、異議を述べ立てようとすると、法水はいきなり遮って、「だって
(ないぞうにもげんいんがなく、ちゅうどくするようなやくぶつもみつからないとなったひには、)
内蔵にも原因がなく、中毒するような薬物も見つからないとなった日には、
(それこそじるふぇすすこるぴお うんどうしんけいをかんしょうす へきえうせたり になって)
それこそ風精天蝎宮(運動神経を管掌す)へ消え失せたり――になって
(しまうぜ じょうだんじゃない、どこにがいりょくてきなげんいんがあるもんか。それにけいれんは)
しまうぜ」「冗談じゃない、どこに外力的な原因があるもんか。それに痙攣は
(ないし、めいはくなしっしんじゃないか こんどはけんじがいがみかかった。どうもきみは、)
ないし、明白な失神じゃないか」今度は検事がいがみ掛った。「どうも君は、
(たんじゅんなものにもうよきょくせつてきなかんさつをするのでこまるよ もちろんめいはくなものさ。)
単純なものにも紆余曲折的な観察をするので困るよ」「勿論明白なものさ。
(しかし、とらんす だからこそなんだ。それがせいしんびょうりがくのりょういきにあるものなら、)
しかし、失神――だからこそなんだ。それが精神病理学の領域にあるものなら、
(ふるいぺっぱーの るいしょうかんべつ いっさつだけで、ゆうにかたづいてしまうぜ。)
古いペッパーの『類症鑑別』一冊だけで、ゆうに片付いてしまうぜ。
(むろんてんかんでもひすてりーほっさでもないよ。また、えくすたしーはひょうじょうでけんとうがつくし)
無論癲癇でもヒステリー発作でもないよ。また、心神顛倒は表情で見当がつくし
(かたれぷしーやもーびっと・そむのれんすやえれくとりっしゅ・しゅらふずふとでもけっしてないのだ といって、)
類死や病的半睡や電気睡眠でもけっしてないのだ」と云って、
(のりみずはしばらくてんじょうをあおむいていたが、やがてへんかのないうらごえでいった。)
法水はしばらく天井を仰向いていたが、やがて変化のない裏声で云った。
(ところがはぜくらくん、しっしんがかとうしんけいにつたわっても、そういうれんちゅうがめいめい)
「ところが支倉君、失神が下等神経に伝わっても、そういう連中が各々
(かってきままなほうこうにうごいている それはいったい、どうしたってことなんだい。)
勝手気儘な方向に動いている――それはいったい、どうしたってことなんだい。
(だから、ぼくはこうしてしんねんももたされてしまったのだ。たとえば、よろいどおしを)
だから、僕はこうして信念も持たされてしまったのだ。例えば、鎧通しを
(にぎっていたことに、ゆうりなせつめいがついたとしてもだよ。そうなってもばいおんの)
握っていたことに、有利な説明が付いたとしてもだよ。そうなっても倍音の
(しんぴがあばかれないかぎりは、とうぜんしっしんのげんいんに、じきてきなうたがいを)
神秘が露かれない限りは、当然失神の原因に、自企的な疑いを
(はさまねばならない とね。どうだい?そりゃしんわだ。まあしばらく)
挟まねばならない――とね。どうだい?」「そりゃ神話だ。マアしばらく
(やすんだほうがいいよ。きみはたいへんつかれているんだ とくましろはてんでうけつけようとは)
休んだ方がいいよ。君は大変疲れているんだ」と熊城はてんで受付けようとは
(しなかったが、のりみずはなおもゆめみるようなちょうしでつづけた。そうだくましろくん、)
しなかったが、法水はなおも夢見るような調子で続けた。「そうだ熊城君、
(じじつそれはでんせつにちがいないのだ。ねげらいんの ほくおうでんせつがく のなかに、そのむかし)
事実それは伝説に違いないのだ。ネゲラインの『北欧伝説学』の中に、その昔
(すかるどがうたいあるいたとかいう、ぜっきんげんこうりゅですはいむのはなしが)
漂浪楽人が唱い歩いたとか云う、ゼッキンゲン候リュデスハイムの話が
(のっているんだ。じだいはふれでりっく だいご じゅうじぐんのあとだが)
載っているんだ。時代はフレデリック(第五)十字軍の後だが
(まあきいてくれたまえ。 ばるどおすわるどは、ヴぇんとしん ひよすの)
マア聴いてくれ給え。――歌唱詩人オスワルドは、ヴェントシン(ヒヨスの
(もうじょうならんといわる をいれたるさけをのむとみるまに、くろっちをいだけるしんたい)
毛茸ならんと云わる)を入れたる酒を飲むと見る間に、抱琴を抱ける身体
(なみのごとくにゆらぎはじめ、やがて、きさきげるとるーでのひざにたおる。)
波のごとくに揺ぎはじめ、やがて、妃ゲルトルーデの膝に倒る。
(りゅですはいむは、かねてかるおぱとすとう くりーととうのほっぽう の)
リュデスハイムは、かねてカルオパトス島(クリート島の北方)の
(ようじゅつしれべどすよりして、ヴぇにとしんこうきのことをききいたれば、ただちにこうべを)
妖術師レベドスよりして、ヴェニトシン向気の事を聴きいたれば、ただちに頭を
(うちおとし、かばねとともにたきすてたり と。これはすかるどちゅうのしおう)
打ち落し、骸とともに焚き捨てたり――と。これは漂浪楽人中の詩王
(いうふぇしすすのさくといわれているが、これをしかべるふぉーれは、)
イウフェシススの作と云われているが、これを史家ベルフォーレは、
(じゅうじぐんによってほくおうにいにゅうされたじゅんあらびあ・かるであじゅじゅつのさいしょの)
十字軍によって北欧に移入された純亜剌比亜・加勒泥亜呪術の最初の
(ぶんけんだといい、それがつちかってはなとむすんだのがふぁうすとはかせであって、かれこそは)
文献だと云い、それが培って華と結んだのがファウスト博士であって、彼こそは
(ちゅうせいまほうせいしんのごんげであるとけつろんしているのだ なるほど とけんじはひにくに)
中世魔法精神の権化であると結論しているのだ」「なるほど」と検事は皮肉に
(わらって、ごがつになれば、りんごのはながさき、じょうないのぎゅうらくごやからはせいよくてきな)
笑って、「五月になれば、林檎の花が咲き、城内の牛酪小屋からは性慾的な
(においがおとずれてくる。そうなれば、なにしろていしゅがじゅうじぐんに)
臭いが訪れて来る。そうなれば、なにしろ亭主が十字軍に
(いっているのだからね。そのるすちゅうに、ていそうたいのあいかぎをこしらえて、おくがたが)
行っているのだからね。その留守中に、貞操帯の合鍵を作えて、奥方が
(みんねじんげるといちゃつくのもやむをえんだろうよ。たがただしだ。そのほうこうを)
抒情詩人と春戯くのもやむを得んだろうよ。たがただしだ。その方向を
(さつじんじけんのほうにてんかんしてもらおう のりみずはなかばほほえみながら、)
殺人事件の方に転換してもらおう」法水は半ば微笑みながら、
(ちんつうなちょうしでいいかえした。)
沈痛な調子で云い返した。