黒死館事件67

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小栗虫太郎の作品です。
句読点以外の記号は省いています。

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問題文

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(ところで、さいしょにあのもくしずをおもいだしてもらいたいのだ。しってのとおり)

「ところで、最初にあの黙示図を憶い出してもらいたいのだ。知ってのとおり

(くりヴぉふふじんは、きれでりょうめをおおわれている。そこで、あのずをぼくの)

クリヴォフ夫人は、布片で両眼を覆われている。そこで、あの図を僕の

(しゅちょうどおりに、とくいたいしつのずかいだとかいしゃくすれば、けっきょくあれにえがかれているしようが)

主張どおりに、特異体質の図解だと解釈すれば、結局あれに描かれている屍様が

(くりヴぉふふじんのもっともおちいりやすいものであるにそういないのだ。ところがはぜくらくん、)

クリヴォフ夫人の最も陥りやすいものであるに相違ないのだ。ところが支倉君、

(めをおおわれてたおされる それがせきずいろうなんだよ。しかも、だいいっきの)

眼を覆われて斃される――それが脊髄癆なんだよ。しかも、第一期の

(ひかくてきめだたないちょうこうが、じゅうすうねんにわたってけいぞくするばあいがある。けれども、)

比較的目立たない徴候が、十数年にわたって継続する場合がある。けれども、

(そういうなかでも、いちばんけんちょなものというのは、ほかでもない)

そういう中でも、一番顕著なものと云うのは、ほかでもない

(ろむべるぐちょうこうじゃないか。りょうめをおおわれるか、ふいにしへんあたりが)

ロムベルグ徴候じゃないか。両眼を覆われるか、不意に四辺あたりが

(やみになるかすると、ぜんしんにじゅうてんがうしなわれて、そうそうとよろめくのだ。それがあのよる)

闇になるかすると、全身に重点が失われて、蹌踉とよろめくのだ。それがあの夜

(やはんのろうかにおこったのだよ。つまりくりヴぉふふじんは、だんねべるぐふじんがいる)

夜半の廊下に起ったのだよ。つまりクリヴォフ夫人は、ダンネベルグ夫人がいる

(へやへおもむくために、くぎりどあをひらいて、あのまえのろうかのなかにはいったのだ。)

室へ赴くために、区劃扉を開いて、あの前の廊下の中に入ったのだ。

(しってのとおりりょうがわのかべには、ちょうほうけいをしたがんけいにえぐりこまれたへきとうが)

知ってのとおり両側の壁には、長方形をした龕形に刳り込まれた壁灯が

(ともされている。そこで、じぶんのすがたをみとめられないために、まずくぎりどあのかたわらにある)

点されている。そこで、自分の姿を認められないために、まず区劃扉の側にある

(すいっちをひねる。もちろん、そのやみになったしゅんかんに、それまでふりょにもちゅういを)

開閉器を捻る。勿論、その闇になった瞬間に、それまで不慮にも注意を

(かいていた、ろむべるぐちょうこうがおこることはいうまでもない。ところが、そうして)

欠いていた、ロムベルグ徴候が起ることは云うまでもない。ところが、そうして

(なんどかつまずくにつれて、ちょうほうけいをしたへきとうのざんぞうがいくつとなくもうまくのうえに)

何度か蹌くにつれて、長方形をした壁灯の残像が幾つとなく網膜の上に

(かさなってゆくのだ。ねえはぜくらくん、ここまでいえば、これいじょうを)

重なってゆくのだ。ねえ支倉君、ここまで云えば、これ以上を

(かさねるひつようはあるまい。くりヴぉふふじんがようやくからだのいちを)

重ねる必要はあるまい。クリヴォフ夫人がようやく身体の位置を

(たてなおしたときに、かのじょのがんぜんいったいにひろがっているやみのなかで、)

立て直したときに、彼女の眼前一帯に拡がっている闇の中で、

(なにがみえたのだろうか。そのむすうにりんりつしているへきとうのざんぞうというのが、)

何が見えたのだろうか。その無数に林立している壁灯の残像と云うのが、

など

(ほかでもない、ふぁるけのうたったあのうすきみわるいかばのもりなんだよ。しかも、)

ほかでもない、ファルケの歌ったあの薄気味悪い樺の森なんだよ。しかも、

(くりヴぉふふじんは、それをみずからこくはくしているのだ じょうだんじゃない。あのおんなの)

クリヴォフ夫人は、それを自ら告白しているのだ」「冗談じゃない。あの女の

(ふくわじゅつを、きみがかんはしたとはおもわなかったよ とくましろはちからなくたばこをすてて、)

腹話術を、君が観破したとは思わなかったよ」と熊城は力なく莨を捨てて、

(しんちゅうのげんめつをあらわにみせた。それに、のりみずはしずかにほほえんでいった。ところが)

心中の幻滅を露わに見せた。それに、法水は静かに微笑んで云った。「ところが

(くましろくん、あるいはあのとき、ぼくにはなにもきえなかったかもしれない。ただいっしんに、)

熊城君、あるいはあの時、僕には何も聴えなかったかもしれない。ただ一心に、

(くりヴぉふふじんのりょうてをきめていただけだったからね なに、あのおんなのてを)

クリヴォフ夫人の両手を瞶めていただけだったからね」「なに、あの女の手を」

(こんどはけんじがおどろいてしまった。だが、ぶつぞうにかんするさんじゅうにそうやみっきょうの)

今度は検事が驚いてしまった。「だが、仏像に関する三十二相や密教の

(ぎきについてのはなしなら、いつかじゃっこうあん さくしゃのぜんさく、ゆめどのさつじんじけん で)

儀軌についての話なら、いつか寂光庵(作者の前作、「夢殿殺人事件」)で

(きかせられたとおもったがね いや、おなじちょうこくのてでも、ぼくはろだんの)

聴かせられたと思ったがね」「いや、同じ彫刻の手でも、僕はロダンの

(かてどらる のことをいっているのだよ とあいかわらずのりみずはさもしばいっけたっぷりな)

『寺院』のことを云っているのだよ」と相変らず法水はさも芝居気たっぷりな

(たいどで、ききょうにたやしたことばをきょくまりのようにほうりあげる。あのとき、ぼくがかばのもりを)

態度で、奇矯に絶した言を曲毬のように抛り上げる。「あの時、僕が樺の森を

(いいだすと、くりヴぉふふじんは、りょうてをやんわりがっしょうしたようにあわせて、それを)

云いだすと、クリヴォフ夫人は、両手を柔わり合掌したように合せて、それを

(たくじょうにおいたのだ。もちろんみっきょうでいんじゅのじゅさんよういんほどでなくとも、すくなくも)

卓上に置いたのだ。勿論密教で云う印呪の浄三葉印ほどでなくとも、少なくも

(ろだんのかてどらるにはちかいのだ。ことに、みぎてのむめいしをおりまげていた、ひじょうに)

ロダンの寺院には近いのだ。ことに、右掌の無名指を折り曲げていた、非常に

(ふあんていなかたちだったので、たえずくりヴぉふふじんのしんりからなんらかのひょうしゅつを)

不安定な形だったので、絶えずクリヴォフ夫人の心理からなんらかの表出を

(みいだそうとしていたぼくは、それをみておもわずがいかをあげたものだ。なぜなら、)

見出そうとしていた僕は、それを見て思わず凱歌を挙げたものだ。何故なら、

(せれなふじんが かばのもり といってもびどうさえしなかったそのてが、つづいてぼくが)

セレナ夫人が『樺の森』と云っても微動さえしなかったその手が、続いて僕が

(そのつぎくで、されどかれゆめみぬ といって、そのおとこといういみをもらすと、)

その次句で、されど彼夢みぬ――と云って、その男という意味を洩らすと、

(ふしぎなことには、そのふあんていなむめいしにいようなせんどうがおこって、くりヴぉふふじんは)

不思議な事には、その不安定な無名指に異様な顫動が起って、クリヴォフ夫人は

(がぜんはしゃぎだしたようなたいどにかわったからだ。おそらく、そこにあらわれている)

俄然燥ぎだしたような態度に変ったからだ。恐らく、そこに現われている

(いくらかのむじゅんどうちゃくは、とうていほうそくではりっすることのできぬほど、)

幾らかの矛盾撞着は、とうてい法則では律することの出来ぬほど、

(てんとうしたものだったにそういない。だいたい、きんちょうからかいほうされたあとでなくては、)

転倒したものだったに相違ない。だいたい、緊張から解放された後でなくては、

(どうして、とうじのこうふんがこころのそとへあらわれなかったのだろうか とそこでちょっと)

どうして、当時の昂奮が心の外へ現われなかったのだろうか」とそこでちょっと

(ことばをきってまどのかけがねをはずし、いっぱいにこもったけむりが、ゆらぎながれでてゆくと)

言葉を切って窓の掛金をはずし、一杯に罩もった烟が、揺ぎ流れ出てゆくと

(あとをつづけた。ところが、じょうじんといじょうしんけいのしょゆうしゃとでは、まっしょうしんけいにあらわれる)

後を続けた。「ところが、常人と異常神経の所有者とでは、末梢神経に現われる

(しんりひょうしゅつが、ぜんぜんてんとうしているばあいがある。たとえば、ひすてりーのほっさちゅう)

心理表出が、全然転倒している場合がある。例えば、ヒステリーの発作中

(そのままほうにんしておくばあいには、かんじゃのてあしは、かってきままなほうこうに)

そのまま放任しておく場合には、患者の手足は、勝手気儘な方向に

(うごいているけれども、いったんそのどこかにちゅういをむけさせると、そのぶぶんの)

動いているけれども、いったんそのどこかに注意を向けさせると、その部分の

(うんどうがぴたりとていししてしまうのだ。つまり、くりヴぉふふじんにあらわれたものは)

運動がピタリと停止してしまうのだ。つまり、クリヴォフ夫人に現われたものは

(そのはんたいのばあいであって、たぶんあのおんなは、こころのおののきをきょどうにあらわすまいと)

その反対の場合であって、たぶんあの女は、心の戦きを挙動に現わすまいと

(つとめていたことだろう。ところが、ぼくがかれゆめみぬ といったひとことから、ぐうぜん)

努めていたことだろう。ところが、僕が彼夢みぬ――と云った一言から、偶然

(そのきんちょうがとけたので、そこでよくあつされていたものがいっときにほうしゅつされ、ちゅういを)

その緊張が解けたので、そこで抑圧されていたものが一時に放出され、注意を

(じぶんのてのひらにむけるだけのよゆうができたのだ。そうなってはじめて、みぎてのむしめいが)

自分の掌に向けるだけの余裕が出来たのだ。そうなって始めて、右掌の無指名が

(ふあんていをうったえだしたことはいうまでもない。そうして、あのかいしきれないせんどうが)

不安定を訴えだしたことは云うまでもない。そうして、あの解しきれない顫動が

(おこされたというわけなんだよ。ねえはぜくらくん、やみでなくてはみえぬかばのもりを、)

起されたという訳なんだよ。ねえ支倉君、闇でなくては見えぬ樺の森を、

(あのおんなはゆびいっぽんで、とわずかたらずのうちにこくはくしてしまったのだ。)

あの女は指一本で、問わず語らずのうちに告白してしまったのだ。

(その、かばのもり かれゆめみぬ とかけてかこうしていくきょくせんのなかに、)

その、(樺の森――彼夢みぬ)とかけて下降していく曲線の中に、

(なんといかんなく、くりヴぉふふじんのしんぞうがえがきつくされていることだろう。)

なんと遺憾なく、クリヴォフ夫人の心像が描き尽されていることだろう。

(はぜくらくん、いつぞやきみは、しぶんのもんどうをつるヴぇーるしゅみのうたがっせんといったことが)

支倉君、いつぞや君は、詩文の問答をツルヴェール趣味の唱合戦と云ったことが

(あったっけね。ところが、どうしてそれどころか、あれはしんりがくしゃ)

あったっけね。ところが、どうしてそれどころか、あれは心理学者

(みゅんすたーべるひに、いやはーばーどのじっけんしんりがくきょうしつにたいする)

ミュンスターベルヒに、いやハーバードの実験心理学教室に対する

(ばくろんなんだよ。ああいうおおげさなでんきけいきやきろくけいなどをもちだしたところで、)

駁論なんだよ。ああいう大袈裟な電気計器や記録計などを持ち出したところで、

(おそらくれいけつせいのはんざいしゃには、ささいのこうかもあるまい。まして、せいりがくしゃ)

恐らく冷血性の犯罪者には、些細の効果もあるまい。まして、生理学者

(うえばーのようにじきてきにしんどうをとめ、ふぉんたなのようにこうさいをじゆうじざいに)

ウエバーのように自企的に心動を止め、フォンタナのように虹彩を自由自在に

(しゅうしゅくできるようなじんぶつにぶつかったひには、あのきかいてきしんりしけんが、)

収縮できるような人物に打衝った日には、あの器械的心理試験が、

(いったいどうなってしまうんだろう。しかしぼくは、ゆびいっぽんうごかさせただけで、)

いったいどうなってしまうんだろう。しかし僕は、指一本動かさせただけで、

(またしぶんのじくひとつではっくつをおこない、それから、しくでうそをつくらせまでして、)

また詩文の字句一つで発掘を行い、それから、詩句で虚妄を作らせまでして、

(はんにんのしんぞうをあばきだしたのだ なに、しぶんでうそ!?とくましろがぐいとつばを)

犯人の心像を曝き出したのだ」「なに、詩文で虚妄!?」と熊城がグイと唾を

(のんでききとがめると、のりみずはかすかにかたをそびやかせて、たばこのはいをおとした。)

嚥んで聴き咎めると、法水は微かに肩を聳やかせて、莨の灰を落した。

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