黒死館事件76
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問題文
(でたぶん、こういうげんしょうのいちぶにあたるのでしょうか、じぶんではなにを)
「で多分、こういう現象の一部に当るのでしょうか、自分では何を
(ひいているのかむがむちゅうのくせに、かんぷうがわたしのかおを、まだらにふきすぎて)
弾いているのか無我夢中のくせに、寒風が私の顔を、斑に吹き過ぎて
(いくことだけは、みょうにはっきりとしることができましたものね。いわば、)
行くことだけは、妙に明瞭と知ることが出来ましたものね。云わば、
(れいつうとでもいうかんかくでしたでしょう。けれども、たえずそれが、めいめつを)
冷痛とでもいう感覚でしたでしょう。けれども、絶えずそれが、明滅を
(くりかえしてはしげきをやすめなかったので、ようやくもてっとのさんかいめをおえることが)
繰り返しては刺激を休めなかったので、ようやく経文歌の三回目を終えることが
(できました。それから、てをやすめているあいだもおなじことでございます。したの)
出来ました。それから、手を休めている間も同じことでございます。階下の
(れいはいどうからわきおこってくるれきえむのねが、せろ・ヴぃおらとひくいげんのほうから)
礼拝堂から湧き起ってくる鎮魂楽の音が、セロ・ヴィオラと低い絃の方から
(きえはじめていって、しだいにみみもとからとおざかっていくのでしたが・・・・・・、)
消えはじめていって、しだいに耳元から遠ざかって行くのでしたが……、
(かとおもうと、それがまたひきかえしてきて、こんどはしつないいっぱいに、ほうはくと)
かと思うと、それがまた引き返して来て、今度は室内一杯に、磅はくと
(おしひろがってしまうのでした。しかし、そのりつどうてきな、まるでせいかくな)
押し拡がってしまうのでした。しかし、その律動的な、まるで正確な
(めとろのーむでもきくようなくりかえしが、しだいにひろうのくつうをうすらげて)
メトロノームでも聴くような繰り返しが、しだいに疲労の苦痛を薄らげて
(まいりました。そして、ひじょうにかんまんではございましたけれども、だんだんとわたしを、)
まいりました。そして、非常に緩慢ではございましたけれども、徐々と私を、
(こころよいねむけのなかへおとしこんでいったのです。ですから、きょくがおわって、わたしのてあしが)
快い睡気の中へ陥し込んでいったのです。ですから、曲が終って、私の手足が
(ふたたびうごきはじめてからも、わたしのみみには、ちゃぺるのねはきえず、たえずあのおんを)
再び動きはじめてからも、私の耳には、鐘の音は聴えず、絶えずあの音を
(もたない、こころよいりずむだけがひびいてくるのでした。ところが、)
持たない、快い律動だけが響いてくるのでした。ところが、
(そのときでございます。とつぜんわたしのかおのみぎがわに、ぶちあたってきたものがありました。)
その時でございます。突然私の顔の右側に、打ち衝ってきたものがありました。
(すると、そのぶぶんにきんしょうがおこって、かっともえあがったようにねつっぽく)
すると、その部分にきん衝が起って、かっと燃え上ったように熱っぽく
(かんじました。けれども、そのせつな、からだがみぎのほうへねじれていって、それなり、)
感じました。けれども、その刹那、身体が右の方へ捻れていって、それなり、
(なにもかもわからなくなってしまったのです。そのしゅんかんでございましたわ わたしが、)
何もかも判らなくなってしまったのです。その瞬間でございましたわ――私が、
(くりこみのてんじょうにがをみたのは。しかし、けさがたいってみますと、そのがは)
刳り込みの天井に蛾を見たのは。しかし、今朝がた行って見ますと、その蛾は
(いつのまにかみえなくなっていて、ちょうどそのばしょには、こうもりがそしらぬげな)
いつのまにか見えなくなっていて、ちょうどその場所には、蝙蝠が素知らぬ気な
(かおでぶらさがっているだけでした のぶこのちんじゅつがおわるとどうじに、さんにんのしせんが)
顔でぶら下っているだけでした」伸子の陳述が終ると同時に、三人の視線が
(きせずして、ぶつかった。しかもそれには、めいじょうのできぬこんわくのいろが)
期せずして、打衝った。しかもそれには、名状の出来ぬ困惑の色が
(あらわれていた。というのは、のぶこにほっさのげんいんをつくらせたともくされる、かりりよんの)
現われていた。と云うのは、伸子に発作の原因を作らせたと目される、鐘鳴器の
(えんそうをめいじたじんぶつというのが、だれあろう、ついさきごろひにくなぎゃくてんをえんじたところの)
演奏を命じた人物と云うのが、誰あろう、つい先頃皮肉な逆転を演じたところの
(くりヴぉふふじんだったからだ。のみならず、のぶこのいうがごとくに、はたして)
クリヴォフ夫人だったからだ。のみならず、伸子の云うがごとくに、はたして
(みぎのほうへたおれたとすれば、とうぜんかいてんいすにあらわれたぎもんが、さらに)
右の方へ倒れたとすれば、当然廻転椅子に現われた疑問が、さらに
(ふかめられるものといわねばならない。くましろは、ずるそうにめをほそめながら)
深められるものと云わねばならない。熊城は、狡猾そうに眼を細めながら
(たずねた。そうなって、あなたのみぎがわからおそったものがあるということになると、)
訊ねた。「そうなって、貴女の右側から襲ったものがあるということになると、
(ちょうどそこには、かいだんをのぼってつきあたりのどあがありましたっけね。とにかく、)
ちょうどそこには、階段を上って突き当りの扉がありましたっけね。とにかく、
(くだらんじこぎせいはやめにしたほうが・・・・・・いいえわたしこそ、そんなきけんなげーむに)
くだらん自己犠牲はやめにした方が……」「いいえ私こそ、そんな危険な遊戯に
(ふけることだけはおことわりいたしますわ とのぶこは、あくまでいじつよいたいどで)
耽ることだけはお断りいたしますわ」と伸子は、あくまで意地強い態度で
(いいきった。まっぴらですわ あんなおそろしいどらごんにちかづくなんて。だって、)
云い切った。「真平ですわ――あんな恐ろしい化竜に近づくなんて。だって、
(おかんがえあそばせな。たとえばわたしが、そのじんぶつのなをしてきしたといたしましょう。)
お考え遊ばせな。たとえば私が、その人物の名を指摘したといたしましょう。
(けれども、そんなあさはかなぜんていだけでもって、どうして、あのしんぴてきなちからにかせつを)
けれども、そんな浅墓な前提だけでもって、どうして、あの神秘的な力に仮説を
(くみあげることがおできになりまして。かえってわたしは、よろいどおし というじゅうだいな)
組み上げることがお出来になりまして。かえって私は、鎧通し――という重大な
(ようてんに、あなたがたのほうりつてきしんもんをようきゅうしたいのです。いいえ、わたしじしんでさえ、)
要点に、貴方がたの法律的審問を要求したいのです。いいえ、私自身でさえ、
(じしんがるいじてきにははんにんだとしんじているくらいですわ。それに、きょうのじけんだって)
自身が類似的には犯人だと信じているくらいですわ。それに、今日の事件だって
(そうですわ。あのあかげのえてこうがいられたしゅりょうふうけいにだっても、わたしだけには、)
そうですわ。あの赤毛の猿猴公が射られた狩猟風景にだっても、私だけには、
(ありばいというものがございませんものね それは、どういういみなんです?)
不在証明というものがございませんものね」「それは、どういう意味なんです?
(いまあなたは、あかげのえてこうといわれましたね とけんじはちゅういぶかそうなめをして)
いま貴女は、赤毛の猿猴公と云われましたね」と検事は注意深そうな眼をして
(ききとがめたが、ひそかにしんじゅうでは、あんがいこのむすめはねんれいのわりあいにてごわいぞ)
聴き咎めたが、秘かに心中では、案外この娘は年齢の割合に手強いぞ――
(とおもった。それが、またげんしゅくなもんだいなんですわ のぶこはこうへんをゆがめて、)
と思った。「それが、また厳粛な問題なんですわ」伸子は口辺を歪めて、
(みょうにおもわせぶりなみぶるいをしたが、ひたいにはあぶらあせをうかせていて、そこから、)
妙に思わせぶりな身振をしたが、額には膏汗を浮かせていて、そこから、
(ないしんのかっとうがすいてみえるようにおもわれる。いかに、ぜつぼうからきりぬけようと)
内心の葛藤が透いて見えるように思われる。いかに、絶望から切り抜けようと
(もがいているか すでにのぶこは、こんしんのせいりょくをつかいつくしていて、)
もがいているか――すでに伸子は、渾身の精力を使い尽していて、
(そのひろうのいろは、おもたげなまぶたのうごきにうかがわれるのだった。しかし、かのじょは)
その疲労の色は、重たげな瞼の動きに窺われるのだった。しかし、彼女は
(ずけずけといいはなった。だいたいくりヴぉふさまがころされようたっても、)
ズケズケと云い放った。「だいたいクリヴォフ様が殺されようたっても、
(かなしむようなにんげんはひとりもいないでしょうからね。ほんとうに、)
悲しむような人間は一人もいないでしょうからね。ほんとうに、
(いきていられるよりもころされてくれたほうが・・・・・・。そのほうがどんなにましだと)
生きていられるよりも殺されてくれた方が……。その方がどんなに増しだと
(おもっているひとは、それはたくさんあるだろうとおもいますわ では、だれだかそのなを)
思っている人は、それは沢山あるだろうと思いますわ」「では、誰だかその名を
(いってください くましろはこのむすめのほんろうするようなたいどに、じゅうぶんなけいかいを)
云って下さい」熊城はこの娘の翻弄するような態度に、充分な警戒を
(かんじながらも、おもわずこのひょうだいにはひきつけられてしまった。もしとくに、)
感じながらも、思わずこの標題には惹きつけられてしまった。「もし特に、
(くりヴぉふふじんのしをこいねがっているようなじんぶつがあるのなら たとえばわたしが)
クリヴォフ夫人の死を希っているような人物があるのなら」「たとえば私が
(そうですわ のぶこがおくするいろもなくげんかにこたえた。なぜなら、わたしがぐうぜんに)
そうですわ」伸子が臆する色もなく言下に答えた。「何故なら、私が偶然に
(そのりゆうをつくってしまったからでございます。いぜんうちわにだけでしたけれども、)
その理由を作ってしまったからでございます。以前内輪にだけでしたけれども、
(さんてつさまのごいこうを、ひしょであるわたしのてからはっぴょうしたことがございました。)
算哲様の御遺稿を、秘書である私の手から発表したことがございました。
(ところがそのなかに、くみえるにつきーだいはくがいにかんするしょうさいなきろくがあったので)
ところがその中に、クミエルニツキー大迫害に関する詳細な記録があったので
(ございます。それが・・・・・・といいかけたままで、のぶこはふいにしょうどうを)
ございます。それが……」と云いかけたままで、伸子は不意に衝動を
(おぼえたようなひょうじょうになり、きっとくちをつぐんだ。そしてややしばらく、いうまい)
覚えたような表情になり、キッと口を噤んだ。そしてややしばらく、云うまい
(いわせようとのくもんとはげしくたたかっていたらしかったが、やがて、そのないようは、)
云わせようとの苦悶と激しく闘っていたらしかったが、やがて、「その内容は、
(どうあってもわたしのくちからはもうしあげられません。しかし、そのときから、わたしが)
どうあっても私の口からは申し上げられません。しかし、その時から、私が
(どんなにみじめになったことでしょうか。むろんそのきろくは、そのばで)
どんなに惨めになったことでしょうか。無論その記録は、その場で
(くりヴぉふさまがおやぶりすてになりましたけど、それいごのわたしは、あのかたの)
クリヴォフ様がお破り棄てになりましたけど、それ以後の私は、あの方の
(じまえかってなてきしをうけるようになったのでございます。きょうだってそうですわ。)
自前勝手な敵視をうけるようになったのでございます。今日だってそうですわ。
(たかが、まどをあけるだけによびつけておいて、あのいちにするまでに、それは)
たかが、窓を開けるだけに呼びつけておいて、あの位置にするまでに、それは
(なんどあげさげしたことだったでしょう くめるにつきーのだいはくがい 。)
何度上げ下げしたことだったでしょう」クメルニツキーの大迫害――。
(そのないようはさんにんのなかで、ただひとりのりみずだけがしっていた。すなわち、じゅうななせいきを)
その内容は三人の中で、ただ一人法水だけが知っていた。すなわち、十七世紀を
(つうじてひんぱんにおこなわれたとつたえられる、かうかさすじゅうはくがいちゅうでのさいたるもので)
通じて頻繁に行われたと伝えられる、カウカサス猶太人迫害中での最たるもので
(それをきえんに、こざっくとじゅうのあいだにざっこんがおこなわれるようになったのである。)
それを機縁に、コザックと猶太人の間に雑婚が行われるようになったのである。
(しかし、くりヴぉふふじんがゆだやじんであることは、すでにかれがかんはしたところで)
しかし、クリヴォフ夫人が猶太人であることは、すでに彼が観破したところで
(あるとはいえ、そのやぶられたきろくのないようというのに、なんとなくこころをひくものが)
あるとは云え、その破られた記録の内容というのに、なんとなく心を惹くものが
(あったのは、とうぜんであろう。そのときひとりのしふくがはいってきて、つたこのおっと)
あったのは、当然であろう。その時一人の私服が入って来て、津多子の夫――
(おしがねいがくはかせが、らいていしたというむねをつげた。おしがねはかせには、かねてふくおかに)
押鐘医学博士が、来邸したという旨を告げた。押鐘博士には、かねて福岡に
(りょこうちゅうのところを、ゆいごんしょをかいふうさせるため、とうとつなしょうかんをめいじたと)
旅行中のところを、遺言書を開封させるため、唐突な召喚を命じたと
(いうほどだったので、ここでひとまず、のぶこのじんもんをちゅうだんしなければ)
いうほどだったので、ここでひとまず、伸子の訊問を中断しなければ
(ならなかった。そこでのりみずは、だんねべるぐじけんをあとまわしにして、さっそく)
ならなかった。そこで法水は、ダンネベルグ事件を後廻しにして、さっそく
(きょうのどうせいについてしろうとした。)
今日の動静について知ろうとした。