【タイピング文庫】芥川龍之介「鼻2」

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プレイ回数1846難易度(4.2) 6106打 長文 かな
短編名作を数多くのこした、芥川龍之介の「鼻」の後編です。
「人の幸福をねたみ、不幸を笑う」と言う人間の心理を捉えた作品。

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問題文

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(そこで、うわめをつかって、でしのそうのあしにあかぎれのきれているのをながめながら、)

そこで、上眼を使って、弟子の僧の足に皹のきれているのを眺めながら、

(はらをたてたようなこえで、いとうはないて。とこたえた。じっさいはなはむずがゆいところを)

腹を立てたような声で、 ――痛うはないて。と答えた。実際鼻はむず痒い所を

(ふまれるので、いたいよりもかえってきもちのいいくらいだったのである。)

踏まれるので、痛いよりもかえって気もちのいいくらいだったのである。

(しばらくふんでいると、やがて、あわつぶのようなものが、はなへできはじめた。)

しばらく踏んでいると、やがて、粟粒のようなものが、鼻へ出来はじめた。

(いわばけをむしったことりをそっくりまるやきにしたようなかたちである。)

云わば毛をむしった小鳥をそっくり丸炙にしたような形である。

(でしのそうはこれをみると、あしをとめてひとりごとのようにこういった。)

弟子の僧はこれを見ると、足を止めて独り言のようにこう云った。

(これをけぬきでぬけともうすことでござった。ないぐはふそくらしくほおをふくらせて、)

――これを鑷子でぬけと申す事でござった。内供は不足らしく頬をふくらせて、

(だまってでしのそうのするなりにまかせておいた。もちろんでしのそうのしんせつが)

黙って弟子の僧のするなりに任せて置いた。勿論弟子の僧の親切が

(わからないわけではない。それはわかっても、じぶんのはなをまるでぶっぴんのように)

わからない訳ではない。それは分っても、自分の鼻をまるで物品のように

(とりあつかうのが、ふゆかいにおもわれたからである。ないぐは、しんようしないいしゃの)

取扱うのが、不愉快に思われたからである。内供は、信用しない医者の

(しゅじゅつをうけるかんじゃのようなかおをして、ふしょうぶしょうにでしのそうが、はなのけあなから)

手術をうける患者のような顔をして、不承不承に弟子の僧が、鼻の毛穴から

(けぬきであぶらをとるのをながめていた。あぶらは、とりのはねのくきのようなかたちをして、)

鑷子で脂をとるのを眺めていた。脂は、鳥の羽の茎のような形をして、

(しぶばかりのながさにぬけるのである。やがてこれがひととおりすむと、でしのそうは、)

四分ばかりの長さにぬけるのである。やがてこれが一通りすむと、弟子の僧は、

(ほっとひといきついたようなかおをして、もういちど、これをゆでればようござる。)

ほっと一息ついたような顔をして、――もう一度、これを茹でればようござる。

(といった。ないぐはやはり、はちのじをよせたままふふくらしいかおをして、)

と云った。内供はやはり、八の字をよせたまま不服らしい顔をして、

(でしのそうのいうなりになっていた。さてにどめにゆでたはなをだしてみると、)

弟子の僧の云うなりになっていた。さて二度目に茹でた鼻を出して見ると、

(なるほど、いつになくみじかくなっている。これではあたりまえのかぎはなと)

成程、いつになく短くなっている。これではあたりまえの鍵鼻と

(たいしたかわりはない。ないぐはそのみじかくなったはなをなでながら、)

大した変りはない。内供はその短くなった鼻を撫なでながら、

(でしのそうのだしてくれるかがみを、きまりがわるそうにおずおずのぞいてみた。)

弟子の僧の出してくれる鏡を、極が悪るそうにおずおず覗いて見た。

(はなはあのあごのしたまでくだっていたはなは、ほとんどうそのようにいしゅくして、)

鼻は――あの顋の下まで下っていた鼻は、ほとんど嘘のように萎縮して、

など

(いまはわずかにうわくちびるのうえでいくじなくざんぜんをたもっている。)

今は僅かに上唇の上で意気地なく残喘を保っている。

(ところどころまだらにあかくなっているのは、おそらくふまれたときのあとであろう。)

所々まだらに赤くなっているのは、恐らく踏まれた時の痕であろう。

(こうなれば、もうだれもわらうものはないにちがいない。かがみのなかにあるないぐのかおは、)

こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。鏡の中にある内供の顔は、

(かがみのそとにあるないぐのかおをみて、まんぞくそうにめをしばたたいた。)

鏡の外にある内供の顔を見て、満足そうに眼をしばたたいた。

(しかし、そのひはまだいちにち、はながまたながくなりはしないかというふあんがあった。)

しかし、その日はまだ一日、鼻がまた長くなりはしないかと云う不安があった。

(そこでないぐはずぎょうするときにも、しょくじをするときにも、ひまさえあればてをだして、)

そこで内供は誦経する時にも、食事をする時にも、暇さえあれば手を出して、

(そっとはなのさきにさわってみた。が、はなはぎょうぎよくくちびるのうえにおさまっているだけで、)

そっと鼻の先にさわって見た。が、鼻は行儀よく唇の上に納まっているだけで、

(かくべつそれよりしたへぶらさがってくるけしきもない。それからひとばんねて)

格別それより下へぶら下って来る景色もない。それから一晩寝て

(あくるひはやくめがさめるとないぐはまず、だいいちに、じぶんのはなをなでてみた。)

あくる日早く眼がさめると内供はまず、第一に、自分の鼻を撫でて見た。

(はなはいぜんとしてみじかい。ないぐはそこで、いくねんにもなく、)

鼻は依然として短い。内供はそこで、幾年にもなく、

(ほけきょうしょしゃのこうをつんだときのような、のびのびしたきぶんになった。)

法華経書写の功を積んだ時のような、のびのびした気分になった。

(ところがにさんにちたつなかに、ないぐはいがいなじじつをはっけんした。)

所が二三日たつ中に、内供は意外な事実を発見した。

(それはおりから、ようじがあって、いけのおのてらをおとずれたさむらいが、)

それは折から、用事があって、池の尾の寺を訪れた侍が、

(まえよりもいっそうおかしそうなかおをして、はなしもろくろくせずに、)

前よりも一層可笑しそうな顔をして、話も碌々せずに、

(じろじろないぐのはなばかりながめていたことである。)

じろじろ内供の鼻ばかり眺めていた事である。

(それのみならず、かつて、ないぐのはなをかゆのなかへおとしたことのあるちゅうどうじなぞは、)

それのみならず、かつて、内供の鼻を粥の中へ落した事のある中童子なぞは、

(こうどうのそとでないぐとゆきちがったときに、はじめは、したをむいておかしさをこらえて)

講堂の外で内供と行きちがった時に、始めは、下を向いて可笑しさをこらえて

(いたが、とうとうこらえかねたとみえて、いちどにふっとふきだしてしまった。)

いたが、とうとうこらえ兼ねたと見えて、一度にふっと吹き出してしまった。

(ようをいいつかったしもほうしたちが、めんとむかっているあいだだけは、)

用を云いつかった下法師たちが、面と向っている間だけは、

(つつしんできいていても、ないぐがうしろさえむけば、すぐにくすくすわらいだしたのは、)

慎んで聞いていても、内供が後さえ向けば、すぐにくすくす笑い出したのは、

(いちどやにどのことではない。ないぐははじめ、これを)

一度や二度の事ではない。内供ははじめ、これを

(じぶんのかおがわりがしたせいだとかいしゃくした。しかしどうもこのかいしゃくだけでは)

自分の顔がわりがしたせいだと解釈した。しかしどうもこの解釈だけでは

(じゅうぶんにせつめいがつかないようである。もちろん、ちゅうどうじやしもほうしがわらうげんいんは、)

十分に説明がつかないようである。――勿論、中童子や下法師が哂う原因は、

(そこにあるのにちがいない。けれどもおなじわらうにしても、はなのながかったむかしとは、)

そこにあるのにちがいない。けれども同じ哂うにしても、鼻の長かった昔とは、

(わらうのにどことなくようすがちがう。みなれたながいはなより、)

哂うのにどことなく容子がちがう。見慣れた長い鼻より、

(みなれないみじかいはなのほうがこっけいにみえるといえば、それまでである。が、)

見慣れない短い鼻の方が滑稽に見えると云えば、それまでである。が、

(そこにはまだなにかあるらしい。まえにはあのようにつけつけとはわらわなんだて。)

そこにはまだ何かあるらしい。―前にはあのようにつけつけとは哂わなんだて。

(ないぐは、ずしかけたきょうもんをやめて、はげあたまをかたむけながら、ときどきこうつぶやくことがあった。)

内供は、誦しかけた経文をやめて、禿頭を傾けながら時々こう呟く事があった。

(あいすべきないぐは、そういうときになると、かならずぼんやり、)

愛すべき内供は、そう云う時になると、必ずぼんやり、

(かたわらににかけたふげんのがぞうをながめながら、はなのながかったしごにちまえのことをおもいだして、)

傍にかけた普賢の画像を眺めながら、鼻の長かった四五日前の事を憶い出して、

(いまはむげにいやしくなりさがれるひとの、さかえたるむかしをしのぶがごとく)

「今はむげにいやしくなりさがれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」

(ふさぎこんでしまうのである。ないぐには、いかんながらこのといに)

ふさぎこんでしまうのである。――内供には、遺憾ながらこの問に

(こたえをあたえるめいがかけていた。にんげんのこころにはたがいにむじゅんしたふたつのかんじょうがある。)

答を与える明が欠けていた。――人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。

(もちろん、だれでもたにんのふこうにどうじょうしないものはない。ところがそのひとがそのふこうを、)

勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、

(どうにかしてきりぬけることができると、こんどはこっちでなんとなく)

どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく

(ものたりないようなこころもちがする。すこしこちょうしていえば、もういちどそのひとを、)

物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、

(おなじふこうにおとしいれてみたいようなきにさえなる。そうしていつのまにか、)

同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、

(しょうきょくてきではあるが、あるてきいをそのひとにたいしていだくようなことになる。)

消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。

(ないぐが、りゆうをしらないながらも、なんとなくふかいにおもったのは、いけのおの)

――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の

(そうぞくのたいどにこのぼうかんしゃのりこしゅぎをそれとなくかんづいたからにほかならない。)

僧俗の態度にこの傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。

(そこでないぐはひごとにきげんがわるくなった。ふたことめには、)

そこで内供は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、

(だれでもいじわるくしかりつける。しまいにははなのりょうじをしたあのでしのそうでさえ、)

誰でも意地悪く叱りつける。しまいには鼻の療治をしたあの弟子の僧でさえ、

(ないぐはほうけんどんのつみをうけられるぞとかげぐちをきくほどになった。)

「内供は法慳貪の罪を受けられるぞ」と陰口をきくほどになった。

(ことにないぐをいからせたのは、れいのいたずらなちゅうどうじである。あるひ、)

殊に内供を怒らせたのは、例の悪戯な中童子である。ある日、

(けたたましくいぬのほえるこえがするので、ないぐがなにげなくそとへでてみると、)

けたたましく犬の吠える声がするので、内供が何気なく外へ出て見ると、

(ちゅうどうじは、にしゃくばかりのきのきれをふりまわして、けのながい、)

中童子は、二尺ばかりの木の片をふりまわして、毛の長い、

(やせたむくいぬをおいまわしている。それもただ、おいまわしているのではない。)

痩た尨犬を逐いまわしている。それもただ、逐いまわしているのではない。

(はなをうたれまい。それ、はなをうたれまいとはやしながら、)

「鼻を打たれまい。それ、鼻を打たれまい」と囃しながら、

(おいまわしているのである。ないぐは、ちゅうどうじのてからそのきのきれをひったくって)

逐いまわしているのである。内供は、中童子の手からその木の片をひったくって

(したたかそのかおをうった。きのきれはいぜんのはなもたげのきだったのである。)

したたかその顔を打った。木の片は以前の鼻持上の木だったのである。

(ないぐはなまじいに、はなのみじかくなったのが、かえってうらめしくなった。)

内供はなまじいに、鼻の短くなったのが、かえって恨しくなった。

(するとあるよるのことである。ひがくれてからきゅうにかぜがでたとみえて、)

するとある夜の事である。日が暮れてから急に風が出たと見えて、

(とうのふうたくのなるおとが、うるさいほどまくらにかよってきた。そのうえ、)

塔の風鐸の鳴る音が、うるさいほど枕に通って来た。その上、

(さむさもめっきりくわわったので、ろうねんのないぐはねつこうとしてもねつかれない。)

寒さもめっきり加わったので、老年の内供は寝つこうとしても寝つかれない。

(そこでとこのなかでまじまじしていると、ふとはながいつになく、むずがゆいのに)

そこで床の中でまじまじしていると、ふと鼻がいつになく、むず痒いのに

(きがついた。てをあててみるとすこしみずけがきたようにむくんでいる。)

気がついた。手をあてて見ると少し水気が来たようにむくんでいる。

(どうやらそこだけ、ねつさえもあるらしい。むりにみじこうしたで、)

どうやらそこだけ、熱さえもあるらしい。――無理に短うしたで、

(やまいがおこったのかもしれぬ。ないぐは、ぶつぜんにこうげをそなえるようなうやうやしいてつきで、)

病が起ったのかも知れぬ。内供は、仏前に香花を供るような恭しい手つきで、

(はなをおさえながらこうつぶやいた。よくあさ、ないぐがいつものように)

鼻を抑えながらこう呟いた。翌朝、内供がいつものように

(はやくめをさましてみると、てらうちのいちょうやとちがひとばんのなかにはをおとしたので、)

早く眼をさまして見ると、寺内の銀杏や橡が一晩の中に葉を落したので、

(にわはきんをしいたようにあかるい。とうのやねにはしもがおりているせいであろう。)

庭は黄金を敷いたように明るい。塔の屋根には霜が下りているせいであろう。

(まだうすいあさひに、くりんがまばゆくひかっている。ぜんちないぐは、)

まだうすい朝日に、九輪がまばゆく光っている。禅智内供は、

(しとみをあげたえんにたって、ふかくいきをすいこんだ。ほとんど、)

蔀を上げた縁に立って、深く息をすいこんだ。ほとんど、

(わすれようとしていたあるかんかくが、ふたたびないぐにかえってきたのはこのときである。)

忘れようとしていたある感覚が、再び内供に帰って来たのはこの時である。

(ないぐはあわててはなへてをやった。てにさわるものは、さくやのみじかいはなではない。)

内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜の短い鼻ではない。

(うわくちびるのうえからあごのしたまで、ごろくすんあまりもぶらさがっている、むかしのながいはなである。)

上唇の上から顋の下まで、五六寸あまりもぶら下っている、昔の長い鼻である。

(ないぐははながいちやのなかに、またもとのとおりながくなったのをしった。そうして)

内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうして

(それとどうじに、はながみじかくなったときとおなじような、はればれしたこころもちが、)

それと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、

(どこからともなくかえってくるのをかんじた。こうなれば、もうだれもわらうものは)

どこからともなく帰って来るのを感じた。――こうなれば、もう誰も哂うものは

(ないにちがいない。ないぐはこころのなかでこうじぶんにささやいた。)

ないにちがいない。内供は心の中でこう自分に囁いた。

(ながいはなをあけがたのあきかぜにぶらつかせながら。)

長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。

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