山本周五郎 赤ひげ診療譚 狂女の話 7
順位 | 名前 | スコア | 称号 | 打鍵/秒 | 正誤率 | 時間(秒) | 打鍵数 | ミス | 問題 | 日付 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | zero | 6145 | A++ | 6.3 | 97.1% | 393.0 | 2487 | 72 | 46 | 2024/11/09 |
2 | pechi | 6049 | A++ | 6.8 | 89.8% | 371.1 | 2532 | 287 | 46 | 2024/10/15 |
3 | baru | 3728 | D+ | 4.0 | 92.2% | 612.5 | 2492 | 208 | 46 | 2024/11/21 |
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問題文
(そのことがあってから、のぼるはさらにおすぎとしたしくするようになった。)
そのことがあってから、登はさらにお杉と親しくするようになった。
(かれはけっしてみならいいにはならないつもりだった。みているだけでも、)
彼は決して見習医にはならないつもりだった。見ているだけでも、
(ここのせいかつはうすぎたなく、かっきがなく、そしてたいくつだった。)
ここの生活はうす汚なく、活気がなく、そして退屈だった。
(ぞくにせやくいんといわれるこのようじょうしょのしはいは「きもいり」といい、)
俗に施薬院といわれるこの養生所の支配は「肝煎(きもいり)」といい、
(おがわしのせしゅうであって、ばくふからよりきがつけられていた。)
小川氏の世襲であって、幕府から与力が付けられていた。
(おがわしはべつにやしきがあるが、おもてのたてものにそのつめしょがあり、)
小川氏はべつに屋敷があるが、表の建物にその詰所があり、
(そこでよりきとともにかいけいそのほかのじむをとっていた。)
そこで与力と共に会計その他の事務をとっていた。
(そのころ、ばんいのていいんはごにんで、これらのつめしょはびょうとうのほうにぞくし、)
そのころ、番医の定員は五人で、これらの詰所は病棟のほうに属し、
(おもてのたてものとはわたりろうかでつながっていた。)
表の建物とは渡り廊下でつながっていた。
(ばんいのうち、にいできょじょうがいちょう、そのしたによしおかいてつ、)
番医のうち、新出去定が医長、その下に吉岡意哲(いてつ)、
(いだごあん、いだげんたん、はしもとげんろくらがおり、)
井田五庵(ごあん)、井田玄丹(げんたん)、橋本玄録(げんろく)らがおり、
(ほんどう、げか、ふじんかをぶんたんしていた。)
本道、外科、婦人科を分担していた。
(いだはちちとこで、したやおかちまちでまちいをやっているし、)
井田は父と子で、下谷御徒町(したやおかちまち)で町医をやっているし、
(ほかにしょくたくでつうきんするまちいがさんにんからごにんくらいあった。)
ほかに嘱託で通勤する町医が三人から五人くらいあった。
(ーーみならいいはふたり、これとにいでいちょうだけがじょうづめで、)
ーー見習医は二人、これと新出医長だけが定詰(じょうづめ)で、
(にゅうしょしているかんじゃのちりょうは、ほとんどこのさんにんにまかされたようなかたち)
入所している患者の治療は、殆んどこの三人に任されたようなかたち
(だったし、かよってくるかんじゃにたいしても、ほかのいいんたちはねついがなく、)
だったし、かよって来る患者に対しても、他の医員たちは熱意がなく、
(ちりょうのやりかたもけいしきてきな、なげやりなものがおおいようであった。)
治療のやりかたも形式的な、投げやりなものが多いようであった。
(びょうとうはきたとみなみのふたとうあり、びょうしつはかくとうにじゅうじょうがさん、はちじょうがに、)
病棟は北と南の二た棟あり、病室は各棟に十畳が三、八畳が二、
(じゅうしょうようのろくじょうがふたへやずつついていた。)
重症用の六畳が二た部屋ずつ付いていた。
(そのときにゅうしょしていたかんじゃはさんじゅうよにん、ろうじんやおんながおおく、)
そのとき入所していた患者は三十余人、老人や女が多く、
(がいしょうでかつぎこまれたり、ゆきだおれでしゅうようされたものなどもいた。)
外傷で担ぎこまれたり、行倒れで収容された者などもいた。
(ーーつがわげんぞうがいったとおり、びょうしつもすべていたばりにうすべりで、)
ーー津川玄三が云ったとおり、病室もすべて板張りに薄縁で、
(そのうえにやぐをしくのであるが、うすべりはいつかめ、)
その上に夜具を敷くのであるが、薄縁は五日め、
(やぐはなのかめごとにとりかえて、にっこうとかぜにあてるきまりだった。)
夜具は七日めごとに取替えて、日光と風に当てるきまりだった。
(また、かんじゃたちはろうにゃくなんにょのべつなく、)
また、患者たちは老若男女のべつなく、
(しろいつつそでのもめんのきものをあたえられるが、)
白い筒袖の木綿の着物を与えられるが、
(それはつけひもでむすぶようになっていて、おんなでもおびをしめるとか、)
それは付紐で結ぶようになっていて、女でも帯をしめるとか、
(いろのあるものをみにつけることはゆるされなかった。)
色のある物を身につけることは許されなかった。
(ーーいくらせやくいんだからって、たたみのうえにねかせるぐらいのことは)
ーーいくら施薬院だからって、畳の上に寝かせるぐらいのことは
(してくれてもよかりそうなもんだ。かんじゃたちはそういいあっていた。)
してくれてもよかりそうなもんだ。患者たちはそう云いあっていた。
(ーーじぶんがもっているんだから、おんなにだけでもいろのあるものを)
ーー自分が持っているんだから、女にだけでも色のある物を
(きさせてくれればいい、これではまるでおしおきにんみたようじゃないの。)
着させてくれればいい、これではまるでお仕置人みたようじゃないの。
(そんなふへいもたえなかった。)
そんな不平も絶えなかった。
(こういうふへいやふまんは、すべてにいできょじょうにむけられていた。)
こういう不平や不満は、すべて新出去定に向けられていた。
(これらはきょじょうのどくだんできめられたものであるし、またちりょうにあたっても、)
これらは去定の独断できめられたものであるし、また治療に当っても、
(きょじょうのやりかたはてあらく、ことばもらんぼうなため、)
去定のやりかたは手荒く、言葉も乱暴なため、
(かんじゃたちはびりびりしていたし、)
患者たちはびりびりしていたし、
(はんかんをもつものもすくなくないようにみえた。)
反感をもつ者も少なくないようにみえた。
(そのうえきょじょうはよくがいしゅつをする。)
そのうえ去定はよく外出をする。
(だいみょうしょこうやふごうのいえからまねかれるほかに、じぶんのかんかをもっていて、)
大名諸侯や富豪の家から招かれるほかに、自分の患家を持っていて、
(そのちりょうにもまわるらしい。)
その治療にもまわるらしい。
(そういうときにはふたりのみならいいいんがるすをまかされるのだが、)
そういうときには二人の見習医員が留守を任されるのだが、
(ばんいやしょくたくいのいるうちはいいけれども、かれらはつうきんだから、)
番医や嘱託医のいるうちはいいけれども、かれらは通勤だから、
(よるなどにきゅうをようするびょうにんがあったりすると、)
夜などに急を要する病人があったりすると、
(みならいいではてにおえないようなこともまれではなかった。)
見習医では手に負えないようなことも稀ではなかった。