山本周五郎 赤ひげ診療譚 駈込み訴え 15
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問題文
(こえがたかかったので、のぼるはおどろいてわれにかえった。)
声が高かったので、登は驚いてわれに返った。
(「そにんしたことがわるいとか、あのひとがあわれだなんて、)
「訴人したことが悪いとか、あの人が哀れだなんて、
(あたしこれっぽっちもおもってやしません」とおくにはつよいちょうしでつづけた、)
あたしこれっぽっちも思ってやしません」とおくには強い調子で続けた、
(「あのひとはひとでなしです、じぶんはかせぎらしいかせぎもせず、)
「あの人は人でなしです、自分は稼ぎらしい稼ぎもせず、
(あたしやこどもたちがくうにこまっていても、)
あたしや子供たちが食うに困っていても、
(へいきであそびまわったりわるいことをしたり、)
平気で遊びまわったり悪い事をしたり、
(そうして、おとっさんのところへかねをもらいにゆけなんて、)
そうして、お父っさんのところへ金を貰いにゆけなんて、
(ちくしょうだってくちにはだせないようなことをいいつづけました、)
畜生だって口には出せないようなことを云いつづけました、
(ーーそれだけはいってはいけないんです、)
ーーそれだけは云ってはいけないんです、
(おとっさんをあんなひどいめにあわせたとうにんなんですから、)
お父っさんをあんなひどいめにあわせた当人なんですから、
(それだけはくちにしてはならないことだったんです」)
それだけは口にしてはならないことだったんです」
(「しかしおまえはいったはずだ、いや、つかまってろうやのくるしみをあじわえば、)
「しかしおまえは云った筈だ、いや、捉まって牢屋の苦しみを味わえば、
(かいしんするかもしれないからと、さはいにいったそうではないか」)
改心するかもしれないからと、差配に云ったそうではないか」
(「いいません」おくにはくびをふった、)
「云いません」おくには首を振った、
(「さはいさんにそういえとおしえられたんです、)
「差配さんにそう云えと教えられたんです、
(けれどあたしはそんなことおもいもしないし、おしらすでもいいはしませんでした、)
けれどあたしはそんなこと思いもしないし、お白洲でも云いはしませんでした、
(ーーしょうじきなことをいっていいでしょうか」)
ーー正直なことを云っていいでしょうか」
(「いってごらん」ときょじょうはうなずいた。)
「云ってごらん」と去定は頷いた。
(「もしできるなら」とおくにはくちびるをきつくかんでからいった、)
「もしできるなら」とおくには唇をきつく噛んでから云った、
(「もしもあたしにできるなら、じぶんのてであのひとをころしてやりたいくらいです、)
「もしもあたしにできるなら、自分の手であの人を殺してやりたいくらいです、
(こどものことさえなければとっくにころしていたでしょう、)
子供のことさえなければとっくに殺していたでしょう、
(きょうやろう、こんややろうと、なんじゅったびおもったかしれやしません、)
今日やろう、今夜やろうと、何十たび思ったかしれやしません、
(これがあたしの、ーーほんとうの、しょうじきなきもちです」)
これがあたしの、ーー本当の、正直な気持です」
(そしておくにははじめてめをぬぐった。)
そしておくには初めて眼をぬぐった。
(さっきのなみだはもうかわいていたが、てでぬぐうと、そのなみだのあとがひろがって、)
さっきの涙はもう乾いていたが、手でぬぐうと、その涙の跡がひろがって、
(くまどりのようになった。)
隈取(くまどり)のようになった。
(「よくわかった」とやがてきょじょうがいった、)
「よくわかった」とやがて去定が云った、
(「よくわかったが、それはむねにしまっておけ、)
「よくわかったが、それは胸にしまっておけ、
(いいか、あしたはまちがいなくここからだしてやれるとおもうが、)
いいか、明日は間違いなくここから出してやれると思うが、
(いまのようなことをやくにんにいうとぶちこわしになる、)
いまのようなことを役人に云うとぶち毀(こわ)しになる、
(だまってあたまをさげていろ、)
黙って頭をさげていろ、
(なにかいわれたら、ただおそれいりましたとだけいうんだ、)
なにか云われたら、ただ恐れいりましたとだけ云うんだ、
(こどもたちのことをかんがえればできるはずだ。わかったか」)
子供たちのことを考えればできる筈だ。わかったか」
(おくにはくちのなかではいとこたえ、あたまがひざへとどくほどひくく、)
おくには口の中ではいと答え、頭が膝へ届くほど低く、
(ゆっくりとおじぎをした。)
ゆっくりとおじぎをした。