山本周五郎 赤ひげ診療譚 駈込み訴え 16 終

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プレイ回数919難易度(4.5) 3604打 長文
映画でも有名な、山本周五郎の傑作短編です。
赤ひげ診療譚の第二話です。

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問題文

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(ろうやからそとへでると、きょじょうはだまってきたのほうへあるきだした。)

牢屋から外へ出ると、去定は黙って北のほうへ歩きだした。

(かしわやでは「ばんめしのしたくをどうするか」などというのをきいたし、)

柏屋では「晩飯の支度をどうするか」などというのを聞いたし、

(あさからいろいろなことをけいけんしたので、もうひがくれるころかとおもったが、)

朝からいろいろな事を経験したので、もう日が昏(く)れるころかと思ったが、

(こがいはまだかたむいたひがあかるくさしていたし、)

戸外はまだ傾いた陽が明るくさしていたし、

(まちすじもおうらいするひとやかごでにぎわっていた。)

町筋も往来する人や駕籠で賑にぎわっていた。

(ーーきょじょうはつかれはてたようにせなかをかがめ、)

ーー去定は疲れはてたように背中を跼(かが)め、

(ひきずるようなあしどりであるきながら、あたまをふったり、)

ひきずるような足どりで歩きながら、頭を振ったり、

(ぶつぶつひとりごとをいったりした。にんげんとはばかなものだ。にんげんはおろかなものだ。)

ぶつぶつ独り言を云ったりした。人間とはばかなものだ。人間は愚かなものだ。

(にんげんはいいものだがおろかでばかだ、などというのがきこえた。)

人間はいいものだが愚かでばかだ、などというのが聞えた。

(そして、いしまちにちょうめまでくると、あしをゆるめてのぼるにといかけた。)

そして、石町二丁目まで来ると、足をゆるめて登に問いかけた。

(「あのおんなのいったことをどうおもう」)

「あの女の云ったことをどう思う」

(のぼるはへんとうにこまった、「ーーおっとをころすといったことですか」)

登は返答に困った、「ーー良人(おっと)を殺すと云ったことですか」

(「いや、いったことのぜんぶだ」きょじょうはまたあたまをふった、)

「いや、云ったことの全部だ」去定はまた頭を振った、

(「まちがいだ」ときょじょうはいった、「とみさぶろうだけをせめるのはまちがいだ、)

「間違いだ」と去定は云った、「富三郎だけを責めるのは間違いだ、

(おかのにきいたら、かれはもうおなわになったそうだが、おそらくきのよわい、)

岡野に訊いたら、彼はもうお縄になったそうだが、おそらく気の弱い、

(ぐうたらなにんげん、というだけだろう、)

ぐうたらな人間、というだけだろう、

(しかも、そうなったげんいんのひとつはろくすけのつまにある、じゅうしちというとしでゆうわくされ、)

しかも、そうなった原因の一つは六助の妻にある、十七という年で誘惑され、

(しゅっぽんしてからはおんなにくわせてもらうしゅうかんがついた、)

出奔してからは女に食わせてもらう習慣がついた、

(いちどのらくらしてくうしゅうかんがついてしまうと、)

いちどのらくらして食う習慣がついてしまうと、

(そこからぬけだすことはひじょうにこんなんだし、)

そこからぬけだすことはひじょうに困難だし、

など

(やがてはみちをふみはずすことになるだろう、そういうれいはいくらもあるし、)

やがては道を踏み外すことになるだろう、そういう例は幾らもあるし、

(かれはそのあわれないちれいにすぎない」)

彼はその哀れな一例にすぎない」

(のぼるはなにかいいかけて、きゅうにくちをつぐみ、かおをあからめた。)

登はなにか云いかけて、急に口をつぐみ、顔を赤らめた。

(ははおやとつうじながら、へいきでそのむすめをつまにしたという、)

母親と通じながら、平気でその娘を妻にしたという、

(そのおとこのけがらわしさをしてきしたかったのだが、)

その男のけがらわしさを指摘したかったのだが、

(くちをきるまえにじぶんのあやまちをおもいだしたのだ。)

口を切るまえに自分のあやまちを思いだしたのだ。

(きょうじょおゆみとの、くつじょくにまみれたあやまちを。)

狂女おゆみとの、屈辱にまみれたあやまちを。

(ーーきょじょうはそれにはきづかなかったろう、またすこしずつあしをはやめながら、)

ーー去定はそれには気づかなかったろう、また少しずつ足を早めながら、

(おなじちょうしでつづけていた。)

同じ調子で続けていた。

(「じんせいはきょうくんにみちている、しかしばんにんにあてはまるきょうくんはひとつもない、)

「人生は教訓に満ちている、しかし万人にあてはまる教訓は一つもない、

(ころすな、ぬすむなというげんそくでさえぜったいではないのだ」)

殺すな、盗むなという原則でさえ絶対ではないのだ」

(それからこえをひくくしていった、「おれはこのことをしまだえちごにいってやる、)

それから声を低くして云った、「おれはこのことを島田越後に云ってやる、

(そうしたくはない、それはひれつなこういにじょうけんはないが、)

そうしたくはない、それは卑劣な行為に条件はないが、

(そうしなければならないときにはやむをえない、)

そうしなければならないときにはやむを得ない、

(いまはきょうくんにそっぽをむいてもらうときだ」いしまちのほりばたへでたとき、)

いまは教訓にそっぽを向いてもらうときだ」石町の堀端へ出たとき、

(きょじょうはのぼるにむかってさきにようじょうしょへかえれといった。)

去定は登に向かって先に養生所へ帰れと云った。

(「おれはこれからまちぶぎょうにあってくる、ゆうげをちそうになるはずだから、)

「おれはこれから町奉行に会って来る、夕餉(ゆうげ)を馳走になる筈だから、

(かえりはすこしおくれるといってくれ」)

帰りは少しおくれると云ってくれ」

(のぼるはしょうちしてきょじょうとわかれた。)

登は承知して去定と別れた。

(そのよくじつ、おくにはろうからだされた。ほうしょうのぎんはもらわなかった。)

その翌日、おくには牢から出された。褒賞の銀は貰わなかった。

(むろんきょじょうがそうさせたのだろうが、もとのちょうないにもかまいなしということで、)

むろん去定がそうさせたのだろうが、元の町内にも構いなしということで、

(そのままかしわやにいるこどもたちといっしょになった。)

そのまま柏屋にいる子供たちといっしょになった。

(つぎのひ、のぼるはきょじょうにめいじられて、かしわやへともをみにいったのであるが、)

次の日、登は去定に命じられて、柏屋へともを診にいったのであるが、

(そのとききょじょうはぎんをごりょうつつんでのぼるにわたした。)

そのとき去定は銀を五両包んで登に渡した。

(「これをおくににやれ、まだあとにじゅうりょうあるが、)

「これをおくにに遣(や)れ、まだあとに十両あるが、

(ひつようなときまであずかっておく、ちかいうちそうだんにゆくといってくれ」)

必要なときまで預かって置く、近いうち相談にゆくと云ってくれ」

(「しかしそんなに」とのぼるがきいた、)

「しかしそんなに」と登が訊いた、

(「そんなにろくすけはきんをのこしていったんですか」)

「そんなに六助は金を遺していったんですか」

(「ごりょうとすこしはのこしたものだ、あとのじゅうりょうはちがう」)

「五両と少しは遺したものだ、あとの十両は違う」

(ときょじょうはきげんのいいめつきでのぼるをみた、)

と去定はきげんのいい眼つきで登を見た、

(「これはしまだえちごからめしあげたものだ」)

「これは島田越後からめしあげたものだ」

(のぼるはけげんそうなめをした。)

登はけげんそうな眼をした。

(「えちごのかみはむこで、いえつきのりんきぶかいおくがたがいる」ときょじょうはつづけた、)

「越後守は婿で、家付きの悋気(りんき)ぶかい奥方がいる」と去定は続けた、

(「もうなんねんもまえからきうつのやまいで、つきにいちどはおれがしんさつによばれるし、)

「もう何年もまえから気鬱のやまいで、月に一度はおれが診察に呼ばれるし、

(おれのちょうごうしたじやくをたやしたことがない、それでおれは、)

おれの調合した持薬を絶やしたことがない、それでおれは、

(かかりがしまだでよかったといったのだ」)

係りが島田でよかったと云ったのだ」

(のぼるはまだけげんそうなかおで、だまってきょじょうをみていた。)

登はまだけげんそうな顔で、黙って去定を見ていた。

(「だまっているとひれつがにじゅうになるようだからいうが、)

「黙っていると卑劣が二重になるようだから云うが、

(えちごのかみはしもやしきにそくしつをかくしている」ときょじょうはまぶしそうなめをしていった、)

越後守は下屋敷に側室を隠している」と去定は眩しそうな眼をして云った、

(「めかけをもつくらいのことにふしぎはないが、)

「妾(めかけ)を持つくらいのことにふしぎはないが、

(おくがたのりんきはじんじょうなものではない、おれは、つまりそこだ、)

奥方の悋気は尋常なものではない、おれは、つまりそこだ、

(おれは、ほのめかしたのだ、)

おれは、仄(ほの)めかしたのだ、

(ーーいいからいえ、やすもと、)

ーーいいから云え、保本、

(おれのやりかたがひれつだということはじぶんでよくしっているのだ」)

おれのやりかたが卑劣だということは自分でよく知っているのだ」

(だがきょじょうのかおはやはりいいきげんそうで、じせきのいろなどはすこしもなかった。)

だが去定の顔はやはりいいきげんそうで、自責の色などは少しもなかった。

(「おくにがほうめんされたのはとうぜんであるし、じゅうりょうはおくがたのちりょうだいだ、)

「おくにが放免されたのは当然であるし、十両は奥方の治療代だ、

(しかも、おれがひれつだったことにかわりはない」ときょじょうはいった、)

しかも、おれが卑劣だったことに変りはない」と去定は云った、

(「これからもしおれがえらそうなかおをしたら、)

「これからもしおれがえらそうな顔をしたら、

(えんりょなしにこのことをいってくれ、ーーこれだけだ、かしわやへいってやるがいい」)

遠慮なしにこのことを云ってくれ、ーーこれだけだ、柏屋へいってやるがいい」

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