「悪魔の紋章」40 江戸川乱歩
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問題文
(やまのちみもうりょうのあやかしであろうか。それともこりのたぐいのいたずらであろうか。)
山の魑魅魍魎のあやかしであろうか。それとも狐狸の類のいたずらであろうか。
(だが、げんだいにそんなくさぞうしめいたげんしょうがありえようともおもわれなかった。)
だが、現代にそんな草双紙めいた現象があり得ようとも思われなかった。
(ほおかぶりをしたごうとうらしいおとこは、いきなりてにしたたんとうのはで、)
頬被りをした強盗らしい男は、いきなり手にした短刀の刃で、
(うつくしいさいじょのほおを、ぴたぴたとたたきはじめた。 「ごうじょうをいわずと、きんこのかぎを)
美しい妻女の頬を、ピタピタと叩き始めた。 「強情を云わずと、金庫の鍵を
(わたさねえか。ぐずぐずしていると、ほら、おないぎのこのうつくしいほっぺたから)
渡さねえか。愚図愚図していると、ホラ、お内儀のこの美しい頬っぺたから
(あかいちがながれるんだぜ。ふためとみられぬ、おそろしいかおに)
赤い血が流れるんだぜ。ふた目と見られぬ、恐ろしい顔に
(はやがわりしてしまうんだぜ。さあ、かぎをわたさねえか」 すると、)
早変りしてしまうんだぜ。サア、鍵を渡さねえか」 すると、
(しばられているおとこが、くやしそうにめをいからせて、とうぞくのふくめんをにらみつけた。)
縛られている男が、くやしそうに目をいからせて、盗賊の覆面を睨みつけた。
(「きんこのなかにはしょるいばかりで、げんきんはないって、あれほどいっているじゃないか。)
「金庫の中には書類ばかりで、現金はないって、あれ程云っているじゃないか。
(さっきわたしたごじゅうえんでかんべんしてくれ、いまうちにはあれっきりしかげんきんが)
さっき渡した五十円で勘弁してくれ、今うちにはあれっきりしか現金が
(ないんだから」 それをきいたぞくは、はなのさきで、ふふんとせせらわらった。)
ないんだから」 それを聞いた賊は、鼻の先で、フフンとせせら笑った。
(「やい、てまえはおれがなんにもしらねえとおもっているんだな。きんこのなかには)
「ヤイ、手前は俺がなんにも知らねえと思っているんだな。金庫の中には
(いちまんえんというさつたばがはいっているのを、ちゃんとみこんでやってきたんだ。)
一万円という札束が入っているのを、ちゃんと見込んでやって来たんだ。
(うふふふふ、どうだずぼしだろう」 しばられているしゅじんのかおに、)
ウフフフフ、どうだ図星だろう」 縛られている主人の顔に、
(さっととうわくのいろがうかんだ。 「いいえ、あれはわたしのかねじゃない。)
サッと当惑の色が浮かんだ。 「イイエ、あれは私の金じゃない。
(たいせつなあずかりものだ。あれだけは、どうあってもわたすことはできない」)
大切な預りものだ。あれだけは、どうあっても渡すことは出来ない」
(「そうらみろ。とうとうはくじょうしてしまったじゃねえか。あずかりものであろうと、)
「そうら見ろ。とうとう白状してしまったじゃねえか。預りものであろうと、
(なかろうと、こっちのしったことか。さあ、かぎをだしねえ。おれはあれをすっかり)
なかろうと、こっちの知ったことか。サア、鍵を出しねえ。俺はあれをすっかり
(もらっていくのだ。え、ださねえか。ださねえというなら、どうだ、これでもか。)
貰って行くのだ。エ、出さねえか。出さねえというなら、どうだ、これでもか。
(え、これでもか」 とどうじに、うーんとおしころしたようなうめきごえが、)
エ、これでもか」 と同時に、ウーンと押し殺したようなうめき声が、
(かわでしのみみをうった。いままでうなだれていたおんなが、かおをあげて、さるぐつわのなかから)
川手氏の耳をうった。今までうなだれていた女が、顔を上げて、猿轡の中から
(みのけもよだつきょうふのうめきごえをたてたのだ。みればそのあおざめた)
身の気もよだつ恐怖のうめき声を立てたのだ。見ればその青ざめた
(はくろうのようなほおに、ひとすじさっとまっかないとがのびて、そこからぬれがみにいんきが)
白蝋のような頬に、一筋サッと真赤な糸が伸びて、そこから濡紙にインキが
(しみわたりでもするように、みるみるちのりがほおをぬらしていく。)
浸み渡りでもするように、見る見る血のりが頬を濡らして行く。
(「あっ、なにをするんだ。いけない。いけない。そ、それじゃ、わしのいま)
「アッ、何をするんだ。いけない。いけない。そ、それじゃ、わしの今
(もっているだけのおかねをみなやる。ここにある。このちがいだなのしたのじぶくろを)
持っているだけのお金を皆やる。ここにある。この違い棚の下の地袋を
(あけてくれ。そこにてぶんこがはいっている。そのてぶんこのなかのさついれに、たしか)
開けてくれ。そこに手文庫が入っている。その手文庫の中の札入れに、確か
(さんびゃくえんあまりのげんきんがあったはずだ。それをみなやるから、どうかてあらなことは)
三百円余りの現金があった筈だ。それを皆やるから、どうか手荒な事は
(よしてくれ。おねがいだ。おねがいだ」 しゅじんはおがまんばかりのひょうじょうでこんがんする。)
よしてくれ。お願いだ。お願いだ」 主人は拝まんばかりの表情で懇願する。
(「ほう、そんなかねがあったのか。それじゃ、ついでにそれももらっておこう」)
「ホウ、そんな金があったのか。それじゃ、序にそれも貰って置こう」
(ぞくはにくにくしくいいながら、すぐさまじぶくろをひらいて、てぶんこをかきさがし、)
賊は憎々しく云いながら、直ぐさま地袋を開いて、手文庫をかき探し、
(さついれのなかのしへいをふところにいれた。 そのあいだ、しゅじんはぞくのいっきょいちどうを)
札入れの中の紙幣を懐中に入れた。 その間、主人は賊の一挙一動を
(さもむねんそうににらみつけていたが、しへいをとりだしてたちあがろうとするとき、)
さも無念そうに睨みつけていたが、紙幣を取り出して立上ろうとする時、
(ぞくのかおがいっしゃくほどのちかさにせまって、ふくめんのなかのすがおがはっきりみえたらしく、)
賊の顔が一尺程の近さに迫って、覆面の中の素顔がはっきり見えたらしく、
(がくぜんとして、 「おお、きさまはかわでしょうべえじゃないか」)
愕然として、 「オオ、貴様は川手庄兵衛じゃないか」
(とさけんだ。 それをきくと、ぞくもぎょっとしたようすであったが、)
と叫んだ。 それを聞くと、賊もギョッとした様子であったが、
(ぞくよりもふしあなからのぞいているかわでしのほうがいっそうのおどろきにうたれた。)
賊よりも節穴から覗いている川手氏の方が一層の驚きにうたれた。
(ああ、なんということだ。かわでしょうべえといえば、かわでしのぼうふと)
アア、何という事だ。川手庄兵衛といえば、川手氏の亡父と
(おなじなまえではないか。めいじじだいらしいこのこうけいとしょうべえとよばれた)
同じ名前ではないか。明治時代らしいこの光景と庄兵衛と呼ばれた
(おとこのねんれいとも、ぴったりいっちしている。このとうじには、ぼうふはちょうどあのくらいの)
男の年齢とも、ぴったり一致している。この当時には、亡父は丁度あのくらいの
(ねんぱいであったにちがいない。きのせいか、ぞくのすがたやこえまでが、じゅっさいのころに)
年輩であったに違いない。気のせいか、賊の姿や声までが、十歳の頃に
(しにわかれたちちおやとそっくりのようなきさえするのだ。 きでもちがったのか、)
死に別れた父親とそっくりのような気さえするのだ。 気でも違ったのか、
(ゆめをみているのか、こんなふかしぎなじかんのぎゃくてんがおこるなんて、)
夢を見ているのか、こんな不可思議な時間の逆転が起るなんて、
(ごじゅうちかいむすこが、じぶんよりもわかいころのちちおやのすがたを、かくまでまざまざと)
五十近い息子が、自分よりも若い頃の父親の姿を、かくまでまざまざと
(みせつけられようとは。しかも、そのちちおやはどろぼうなのだ。ただのどろぼうではない、)
見せつけられようとは。しかも、その父親は泥棒なのだ。ただの泥棒ではない、
(きょうあくむざんなじきょうきごうとうなのだ。 かわでしはもうべつせかいのけしきをながめているような)
兇悪無残な持兇器強盗なのだ。 川手氏はもう別世界の景色を眺めているような
(のんきなきもちではいられなかった。はなのあたまがいたくなるほど、いたかべにめをくっつけて、)
呑気な気持ではいられなかった。鼻の頭が痛くなる程、板壁に目をクッつけて、
(まるで、わがこころのなかのきかいなひみつでもすきみするような、こわいものみたさの、)
まるで、我が心の中の奇怪な秘密でも隙見するような、怖いもの見たさの、
(よにもいようなこうふんにひきいれられていった。 かわでしょうべえとよびかけられたぞくは、)
世にも異様な興奮に引入れられて行った。 川手庄兵衛と呼びかけられた賊は、
(いちおうはぎょっとしたらしいようすであったが、たちまちふてぶてしくわらいだした。)
一応はギョッとしたらしい様子であったが、忽ちふてぶてしく笑い出した。
(「ははは・・・・・・、そうきづかれちゃしようがない。いかにもおれは)
「ハハハ・・・・・・、そう気附かれちゃ仕様がない。如何にも俺は
(そのかわでさ。きさまのぎりのおとうつあんにつかわれたかわでさ。だがなにもそんなに)
その川手さ。貴様の義理のお父つあんに使われた川手さ。だが何もそんなに
(いばるこたあなかろうぜ。もとはきさまもおれとおなじやまもとしょうかいのしようにんじゃないか。)
威張るこたあなかろうぜ。元は貴様も俺と同じ山本商会の使用人じゃないか。
(それを、きさまはそののっぺりとしたつらで、ごしゅじんのひとりむすめ、このみつよさんを)
それを、貴様はそののっぺりとした面で、御主人の一人娘、この満代さんを
(うまくたらしこみ、まんまとあととりようしにはいりこんだまでじゃないか。)
うまくたらし込み、まんまと跡取り養子に入りこんだまでじゃないか。
(ざいさんといったところで、もともとしんだやまもとのおやじさんのもの、きさまがわがものがおに)
財産といったところで、元々死んだ山本の親爺さんのもの、貴様が我が物顔に
(ふるまっているのが、むていしゃくにさわってかなわねえのだ」 「ははあ、すると)
振舞っているのが、無体癪に触ってかなわねえのだ」 「ハハア、すると
(なんだな、かわで、きさまはこのみつよがおれのものになったのを、いまだに)
何だな、川手、貴様はこの満代が俺のものになったのを、いまだに
(うらんでいるんだな、そのいしゅがえしにこんなむちゃなまねをするんだな」)
恨んでいるんだな、その意趣返しにこんな無茶な真似をするんだな」