夜泣き鉄骨3 海野十三

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夜泣き鉄骨/海野十三 著
青空文庫より引用

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問題文

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(3)

3

(がっしゅくのもんをでると、どぶくさいろじに、ゆうがたの、きぜわしいひとのゆききがあった。)

合宿の門を出ると、溝くさい露路に、夕方の、気ぜわしい人の往来があった。

(しょかとはいっても、おくれたつゆの、しめりがとっぷり、ながいたべいにしみこんで、)

初夏とは云っても、遅れた梅雨の、湿りがトップリ、長板塀に浸みこんで、

(そこをまいにちとおっているこうばまちのひとびとのこころを、いよいよおもくしていった。)

そこを毎日通っている工場街の人々の心を、いよいよ重くして行った。

(みちでは、あうだれかれが、あいさつをしていった。むこうから、みおぼえのあるわかいおんなが、)

道では、逢う誰彼が、挨拶をして行った。向うから、見覚えのある若い女が、

(ちいさいふろしきづつみをかかえてやってきた。「おまえさん」とそのおんなは、)

小さい風呂敷包みを抱えてやってきた。「お前さん」と其の女は、

(わしのつれを、ちらりとにらみながら、いった。「これから、どこへ)

わしの連れを、チラリと睨みながら、云った。「これから、何処へ

(ゆくんだい」「おまえこそ、どこへいくんだい」「ふん、みればわかる)

ゆくんだい」「お前こそ、どこへ行くんだい」「ふン、見れば判る

(じゃないか。こんやは、よあかしさぎょうがあるんだよ」「やぎょうか。まぁしっかり、)

じゃないか。今夜は、徹夜作業があるんだよ」「夜業か。まァしっかり、

(やんねえ」「おまえさんのほうは、どこへいくのさぁ」そのおんなは、いっぽちかよって、)

やんねえ」「お前さんの方は、どこへ行くのさァ」その女は、一歩近よって、

(いった。「ちょいと、このじんと、ようたしに」「そうかい、あのね」おんなは、)

云った。「ちょいと、この仁と、用達しに」「そうかい、あのネ」女は、

(くちを、わしのみみにちかづけて、つれにきかせたくないことばをささやいた。「・・・・・・」)

口を、わしの耳に近づけて、連れに聞かせたくない言葉を囁いた。「……」

(わしは、だまって、うなずいた。おんなにわかれると、あとから、ついてくるよこせが)

わしは、黙って、肯いた。女に別れると、後から、附いてくる横瀬が

(わしにこえをかけた。「いまのわかいひとは、なかなか、いいおんなですね」)

わしに声をかけた。「今の若いひとは、なかなか、美い女ですネ」

(「そうかね」「なんてなまえです」「おせい」「たいしょうの、なににあたるんです」)

「そうかね」「何て名前です」「おせい」「大将の、なにに当るんです」

(「ばか!」ろじをにさんど、まがったすえに、わしたちは、もくてきのいえのまえへ)

「馬鹿!」露路を二三度、曲った末に、わし達は、目的の家の前へ

(きたのだった。わしは、あまどをひかれた、おもてのこうしまどにちかづいて、いえのないぶの)

来たのだった。わしは、雨戸を引かれた、表の格子窓に近づいて、家の内部の

(ようすをうかがった。さいわいこのところは、ろじうらの、そのまたうらになっている)

様子を窺った。幸いこのところは、露路裏の、そのまた裏になっている

(ふくろこうじのこととて、ひとどおりもなく、このあやしげなふるまいも、ひとにとがめられることが)

袋小路のこととて、人通りも無く、この怪しげな振舞も、人に咎められることが

(なかった。とにかく、いえはるすとみえて、なんのものおともしなかった。わしは、)

なかった。とにかく、家は留守と見えて、なんの物音もしなかった。わしは、

など

(つれをうながして、うらてにまわった。かってもとのひきどに、いえのわりには、たいへんがんじょうで)

連れを促して、裏手に廻った。勝手元の引戸に、家の割には、たいへん頑丈で

(おおきいじょうまえが、かかっていた。わしは、ふところをさぐって、ひとつのかぎをとりだすと、)

大きい錠前が、懸っていた。わしは、懐中を探って、一つの鍵をとり出すと、

(かぎあなにさしこんで、ぐっとねじった。じょうまえは、かちゃりと、ものたかいおとを)

鍵孔にさしこんで、ぐッとねじった。錠前は、カチャリと、もの高い音を

(たてて、はずれたのだった。わしは、うしろをみて、よこせに、いえのなかへはいるように、)

たてて、外れたのだった。わしは、後を見て、横瀬に、家の中へ入るように、

(めくばせをした。しょうじとふすまとを、ひとつひとつあけていったが、はたして、)

目くばせをした。障子と襖とを、一つ一つ開けて行ったが、果して、

(だれもいなかった。わかいおんなのたいしゅうが、ぷーんとただよっていた。かべにかけてある)

誰も居なかった。若い女の体臭が、プーンと漂っていた。壁にかけてある

(せるのひとえに、あわせてあるももいろのじゅばんのえりが、おもくるしくなまめいてみえた。)

セルの単衣に、合わせてある桃色の襦袢の襟が、重苦しく艶めいて見えた。

(「いいのかね。こうあがりこんでいても」よこせは、さすがに、きがひけている)

「いいのかね。こう上りこんでいても」横瀬は、さすがに、気が引けている

(らしかった。「しっーー」わしは、にらみつけた。わしは、しゅんじゅんするところなく、)

らしかった。「叱ッーー」わしは、睨みつけた。わしは、逡巡するところなく、

(おしいれをあけた。うえのだんにはいっているふとんを、しずかにおろすと、そのだんの)

押入をあけた。上の段に入っている蒲団を、静かに下ろすと、その段の

(うえにのぼった。そして、いちばんはしのてんじょうのいたを、そっとよこにすべらせた。そこには、)

上に登った。そして、一番端の天井の板を、ソッと横に滑らせた。そこには、

(はばいっしゃくほどの、ちょうほうけいの、まっくらなあなぐらがぽっかりあいた。そこでわしは、)

幅一尺ほどの、長方形の、真暗な窖がポッカリ明いた。そこでわしは、

(りょうてをさしいれて、てんじょううらをさぐったが、おもうものは、すぐてさきにふれた。)

両手を差入れて、天井裏を探ぐったが、思うものは、直ぐ手先に触れた。

(てぶんこらしいふるぼけたはこをひとつかかえおろしてきたときには、よこせは)

手文庫らしい古ぼけた函を一つ抱え下ろしてきたときには、横瀬は

(あっけにとられたようなかおをしていた。わしは、きゅうせいのうすっぺらなかぎを、)

呆気にとられたような顔をしていた。わしは、急製の薄っぺらな鍵を、

(かみいれのなかからとりだすと、そのてぶんこを、なんなくひらくことに、せいこうしたのだった。)

紙入の中から取出すと、その手文庫を、何なく開くことに、成功したのだった。

(そのなかには、ちょきんちょうや、こせきとうほんらしいものや、かびのはえたしゃしんや、)

その中には、貯金帳や、戸籍謄本らしいものや、黴の生えた写真や、

(そのたにさんさつのえほんなどがはいっていたが、わしがよこせのまえへとりだしたものは、)

其他二三冊の絵本などが入っていたが、わしが横瀬の前へ取出したものは、

(てぶんこのいちぐうにたててあったにじゅうccいりのがらすびんだった。それには、)

手文庫の一隅に立ててあった二〇cc入の硝子壜だった。それには、

(そこのほうに、さんぶんのいちばかりのくろいえきたいがのこっていた。「さぁ、こいつだ」)

底の方に、三分の一ばかりの黒い液体が残っていた。「さァ、こいつだ」

(わしはそっとびんをよこせにわたした。「さいごに、おまえさんから、)

わしはソッと壜を横瀬に渡した。「最後に、お前さんから、

(おしえてもらいたいのは」「そうだね、これはーー」よこせは、じっしょくのでんとうの)

教えて貰いたいのは」「そうだね、これはーー」横瀬は、十燭の電灯の

(ひかりのもとに、ちいさいくすりびんを、ふってみながら、いつまでも、あとをいわなかった。)

光の下に、小さい薬壜を、ふってみながら、いつまでも、後を云わなかった。

(「わからねえのかい」「うんにゃ、わからねえことも、ねえけども」)

「判らねえのかい」「うんにゃ、判らねえことも、ねえけども」

(「じゃ、なんてくすりだい」「そいつは、いうのをはばかるーー」「おしえねえと)

「じゃ、何て薬だい」「そいつは、云うのを憚るーー」「教えねえと

(いうのだな」「しかたがない。これぁくすりやなかまで、ごはっとのやくひんなんだ」)

いうのだな」「仕方が無い。これァ薬屋仲間で、御法度の薬品なんだ」

(「ごはっとであろうとなかろうと、わしは、きかにゃ、ただではおかねえ」)

「御法度であろうと無かろうと、わしは、訊かにゃ、唯では置かねえ」

(「おどかしっこなしにしましょうぜ、くみちょうさん。そんならいうが、このくすりの)

「脅かしっこなしにしましょうぜ、組長さん。そんなら云うが、この薬の

(はたらきはねえ、にんげんのやわいひふをしんしょくするちからがある」「そうか、やわいひふを、)

働きはねえ、人間の柔い皮膚を浸蝕する力がある」「そうか、柔い皮膚を、

(えぐりとるのだな」「それいじょうは、いえねえ」「んじゃ、せんこくみせたちゅうしゃきの)

抉りとるのだな」「それ以上は、言えねえ」「ンじゃ、先刻みせた注射器の

(そこにのこっていたちゃいろのふちゃくぶつは、このくすりじゃなかったかい」「さぁ、どうかね。)

底に残っていた茶色の附着物は、この薬じゃなかったかい」「さァ、どうかね。

(これはもともとちゃかっしょくのえきたいなんだ。ほら、ふってみると、がらすのところに、)

これは元々茶褐色の液体なんだ。ほら、振ってみると、硝子のところに、

(ちゃっぽいいろがみえるだろう」「それとも、やっぱりあれは、ちのあとか。)

茶っぽい色が見えるだろう」「それとも、やっぱりあれは、血のあとか。

(いやおおきに、ごくろうだった。こいつは、すくないが、とうざのおれいだ」)

いや大きに、御苦労だった。こいつは、少ないが、当座のお礼だ」

(そういって、わしは、じゅうえんさつを、よこせのてににぎらせ、きょうのことは、)

そう云って、わしは、十円紙幣を、横瀬の手に握らせ、今日のことは、

(かたくくちどめだということを、いいきかせたのだった。)

堅く口止めだということを、云いきかせたのだった。

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