山本周五郎 赤ひげ診療譚 むじな長屋 13
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問題文
(「よけいなくちをきくな」とじへえはきめつけてから、のぼるにむかっていった、)
「よけいな口をきくな」と治兵衛はきめつけてから、登に向かって云った、
(「おききのとおりですから、わたしはちょっといってきますが」)
「お聞きのとおりですから、私はちょっといって来ますが」
(のぼるはうなずいた。)
登は頷いた。
(じへえがそのおとことでていくと、てつだいのろうばも、)
治兵衛がその男と出ていくと、手伝いの老婆も、
(うちをみてくるといって、うらぐちからたちさった。)
うちをみて来ると云って、裏口からたち去った。
(するとまもなく、じへえといっしょにでていったおとこが、)
するとまもなく、治兵衛といっしょに出ていった男が、
(ひとりでふらふらともどってき、あいそわらいをしながら、)
一人でふらふらと戻って来、あいそ笑いをしながら、
(あがりがまちへどしんとこしをおろした。)
上(あが)り框(がまち)へどしんと腰をおろした。
(「だめよへいさん」わかいにょうぼうがかってからでていった、)
「だめよ平さん」若い女房が勝手から出て云った、
(「さはいさんにおこられたばかりじゃないの、ごびょうにんにさわるからかえってちょうだい」)
「差配さんに怒られたばかりじゃないの、御病人に障るから帰ってちょうだい」
(「ようじょうしょのせんせいですね」おとこはのぼるにむかっていった、)
「養生所の先生ですね」男は登に向かって云った、
(「おらあへいきちってもんで、にいでせんせいとはふるいなじみです、)
「おらあ平吉ってもんで、新出先生とは古い馴染です、
(ええ、このむじなながやではさはちとおいらがいちばんふるいたなこでしてね、)
ええ、このむじな長屋では佐八とおいらがいちばん古い店子でしてね、
(そのさはちがじゅうびょうだってえのに、おいらにあわせてくれねえ、)
その佐八が重病だってえのに、おいらに会わせてくれねえ、
(ーーそこにいるおまつなんぞはよそからきたくせにしやがって、)
ーーそこにいるお松なんぞはよそから来たくせにしやがって、
(びょうにんにさわるからかえれなんてぬかしゃあがる」)
病人に障るから帰れなんてぬかしゃあがる」
(「よってなければいいやしないわ」とわかいにょうぼうがいった、)
「酔ってなければ云やしないわ」と若い女房が云った、
(「よってるへいさんはことのみさかいがつかないんだもの、)
「酔ってる平さんは事のみさかいがつかないんだもの、
(さはいさんだってそういったでしょ」)
差配さんだってそう云ったでしょ」
(「うるせえうるせえ」へいきちというおとこはくびをふってさえぎった、)
「うるせえうるせえ」平吉という男は首を振って遮った、
(「おらあここのつのとしからのみはじめて、)
「おらあ九つの年から飲み始めて、
(よんじゅうねんちかいあいださけのきのきれたことのねえにんげんだ、)
四十年ちかいあいだ酒の気の切れたことのねえ人間だ、
(しらふのときはしらねえが、)
素面(しらふ)のときは知らねえが、
(よってるときにことのみさかいのつかねえようなためしはありゃあしねえ、)
酔ってるときに事のみさかいのつかねえようなためしはありゃあしねえ、
(うそだとおもうならあかひげのせんせいにきいてみろ」)
嘘だと思うなら赤髯の先生に訊いてみろ」
(へいきちはそこでにやっとわらった、)
平吉はそこでにやっと笑った、
(「ーーいつかあかひげせんせいがおれにいったっけ、おれがやけざけをのみすぎて、)
「ーーいつか赤髯先生がおれに云ったっけ、おれがやけ酒を飲みすぎて、
(みょうなものをはいてぶったおれたときだ、せんせいはこんなおっかねえかおをして、)
妙な物を吐いてぶっ倒れたときだ、先生はこんなおっかねえ顔をして、
(びょうきになるほどのむかねがあるんなら、)
病気になるほど飲む金があるんなら、
(ちっとはにょうぼうこのこともかんがえろってな、じょうだんじゃねえ、)
ちっとは女房子のことも考えろってな、冗談じゃねえ、
(ええ、せんせいはそとがわからおれのことをみるからそんなことがいえるんだ、)
ええ、先生は外側からおれのことを見るからそんなことが云えるんだ、
(おらあそういってやった、)
おらあそう云ってやった、
(いっぺんおいらのようなにんげんのこころのなかへへえってみてくれって、)
いっぺんおいらのような人間の心の中へへえってみてくれって、
(・・・・・・かねもちやがくのあるひとなら、これはしちゃあいけねえとか、)
……金持や学のある人なら、これはしちゃあいけねえとか、
(こうしちゃあそんだからこうしようとか、)
こうしちゃあ損だからこうしようとか、
(ためになることとならねえことのくべつができるだろう、)
為になることとならねえことの区別ができるだろう、
(が、そいつはかねやひまがあるか、がくのあるにんげんのこって、)
が、そいつは金や暇があるか、学のある人間のこって、
(おれっちにゃあそんなきようなげいとうはできやあしねえ、そうじゃあねえか、)
おれっちにゃあそんな器用な芸当はできやあしねえ、そうじゃあねえか、
(おれっちのようなにんげんはよるひるなしにかせいでも、まんぞくにおまんまもくえねえ、)
おれっちのような人間は夜昼なしに稼いでも、満足におまんまも食えねえ、
(まいにちまいにち、きょうはどうやってくおうか、)
毎日々々、今日はどうやって食おうか、
(きょうはしのぎがついたがあしたはどうする、かかあがとやについた、)
今日は凌(しの)ぎがついたが明日はどうする、嬶(かかあ)がとやについた、
(がきがうまれそうだ、たなちんがたまっておいたてをくってる、)
がきが生れそうだ、店賃(たなちん)が溜って追い立てをくってる、
(どこでどうくめんしたらいいか、)
どこでどうくめんしたらいいか、
(ーーまいにちまいばん、なんじゅうねんとなくそんなくらしをしているんだ、)
ーー毎日毎晩、何十年となくそんなくらしをしているんだ、
(ええ、そとがわからみればただのんだくれてるようにみえるだろうけれども、)
ええ、外側から見ればただ飲んだくれてるようにみえるだろうけれども、
(こころのなかはそういったようなもんだ、じょうだんじゃあねえ、)
心の中はそういったようなもんだ、冗談じゃあねえ、
(かかあやがきのことなんぞかんがえてみろ、)
嬶やがきのことなんぞ考えてみろ、
(とたんにのまずにゃあいられなくなるんだから」)
とたんに飲まずにゃあいられなくなるんだから」
(さはちがうめきごえをあげ、なにかいった。)
佐八が呻き声をあげ、なにか云った。
(のぼるがすりよってのぞくと、あなたにはなしがある、としゃがれごえで、ささやいた。)
登がすり寄って覗くと、あなたに話がある、としゃがれ声で、囁いた。
(「おまつさんも、へいさんにもかえってもらってください」)
「お松さんも、平さんにも帰ってもらって下さい」
(のぼるはうなずいて、ふたりにそのことをつげた。)
登は頷いて、二人にそのことを告げた。
(へいきちはたたなかった。おまつはうちにようもあるからといって、)
平吉は立たなかった。お松はうちに用もあるからと云って、
(すぐにかえっていったが、へいきちはぐずぐずもんくをならべ、)
すぐに帰っていったが、平吉はぐずぐず文句を並べ、
(しまいにはそこへごろっとねころんでしまった。)
しまいにはそこへごろっと寝ころんでしまった。