「こころ」1-24 夏目漱石

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(上)先生と私
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問題文

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(そのごわたくしはおくさんのかおをみるたびにきになった。)

その後私は奥さんの顔を見るたびに気になった。

(せんせいはおくさんにたいしてもしじゅうこういうたいどにでるのだろうか。)

先生は奥さんに対しても始終こういう態度に出るのだろうか。

(もしそうだとすれば、おくさんはそれでまんぞくなのだろうか。)

もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。

(おくさんのようすはまんぞくともふまんぞくともきめようがなかった。)

奥さんの様子は満足とも不満足とも極めようがなかった。

(わたくしはそれほどちかくおくさんにせっしょくするきかいがなかったから。)

私はそれほど近く奥さんに接触する機会がなかったから。

(それからおくさんはわたくしにあうたびにじんじょうであったから。)

それから奥さんは私に会うたびに尋常であったから。

(さいごにせんせいのいるせきでなければわたくしとおくさんとはめったにかおをあわせなかったから。)

最後に先生のいる席でなければ私と奥さんとは滅多に顔を合せなかったから。

(わたくしのぎわくはまだそのうえにもあった。せんせいのにんげんにたいするかくごは)

私の疑惑はまだその上にもあった。先生の人間に対する覚悟は

(どこからくるのだろうか。)

どこから来るのだろうか。

(ただつめたいめでじぶんをないせいしたりげんだいをかんさつしたりしたけっかなのだろうか。)

ただ冷たい眼で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだろうか。

(せんせいはすわってかんがえるたちのひとであった。)

先生は坐って考える質の人であった。

(せんせいのあたまさえあれば、こういうたいどはすわってよのなかをかんがえていても)

先生の頭さえあれば、こういう態度は坐って世の中を考えていても

(しぜんとでてくるものだろうか。)

自然と出て来るものだろうか。

(わたくしにはそうばかりとはおもえなかった。)

私にはそうばかりとは思えなかった。

(せんせいのかくごはいきたかくごらしかった。ひにやけてれいきゃくしきった)

先生の覚悟は生きた覚悟らしかった。火に焼けて冷却し切った

(せきぞうかおくのりんかくとはちがっていた。)

石造家屋の輪郭とは違っていた。

(わたくしのめにえいずるせんせいはたしかにしそうかであった。)

私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。

(けれどもそのしそうかのまとめあげたしゅぎのうらには、)

けれどもその思想家の纏め上げた主義の裏には、

(つよいじじつがおりこまれているらしかった。)

強い事実が織り込まれているらしかった。

(じぶんときりはなされたたにんのじじつでなくって、じぶんじしんがつうせつにあじわったじじつ、)

時分と切り離された他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、

など

(ちがあつくなったりみゃくがとまったりするほどのじじつが、たたみこまれている)

血が熱くなったり脈が止まったりするほどの事実が、畳み込まれている

(らしかった。)

らしかった。

(これはわたくしのむねですいそくするがものはない。)

これは私の胸で推測するがものはない。

(せんせいじしんすでにそうだとこくはくしていた。)

先生自身すでにそうだと告白していた。

(ただそのこくはくがくものみねのようであった。)

ただその告白が雲の峯のようであった。

(わたくしのあたまのうえにしょうたいのしれないおそろしいものをおおいかぶせた。)

私の頭の上に正体の知れない恐ろしいものを蔽い被せた。

(そうしてなぜそれがおそろしいかわたくしにもわからなかった。)

そうしてなぜそれが恐ろしいか私にも解らなかった。

(こくはくはぼうとしていた。それでいてあきらかにわたくしのしんけいをふるわせた。)

告白はぼうとしていた。それでいて明らかに私の神経を震わせた。

(わたくしはせんせいのこのじんせいかんのきてんに、あるきょうれつなれんあいじけんをかていしてみた。)

私は先生のこの人生観の基点に、或る強烈な恋愛事件を仮定してみた。

((むろんせんせいとおくさんとのあいだにおこった)。)

(無論先生と奥さんとの間に起った)。

(せんせいがかつてこいはざいあくだといったことからてらしあわせてみると、)

先生がかつて恋は罪悪だといった事から照らし合わせて見ると、

(たしょうそれがてがかりにもなった。)

多少それが手掛りにもなった。

(しかしせんせいはげんにおくさんをあいしているとわたくしにつげた。)

しかし先生は現に奥さんを愛していると私に告げた。

(するとふたりのこいからこんなえんせいにちかいかくごがでようはずがなかった。)

すると二人の恋からこんな厭世に近い覚悟が出ようはずがなかった。

(「かつてはそのひとのまえにひざまずいたというきおくが、こんどはそのひとのあたまのうえに)

「かつてはその人の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に

(あしをのせさせようとする」といったせんせいのことばは、)

足を載せさせようとする」といった先生の言葉は、

(げんだいいっぱんのだれかれについてもちいられるべきで、)

現代一般の誰彼について用いられるべきで、

(せんせいとおくさんのあいだにはあてはまらないもののようでもあった。)

先生と奥さんの間には当てはまらないもののようでもあった。

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