山本周五郎 赤ひげ診療譚 三度目の正直 9

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映画でも有名な、山本周五郎の傑作連作短編です。
赤ひげ診療譚の第四話です。

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問題文

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(おうみやはあさくさごもんがいのふくいちょうにあり、おくざしきのもようがえをするため、)

近江屋は浅草御門外の福井町にあり、奥座敷の模様替えをするため、

(きょねんのふゆのはじめにひとつきばかり「だいまさ」からしょくにんをいれた。)

去年の冬のはじめに一と月ばかり「大政」から職人をいれた。

(そのときいのは、おまつにいろいろしんせつにされ、すっかりすきになったのだが、)

そのとき猪之は、お松にいろいろ親切にされ、すっかり好きになったのだが、

(よめにもらうということはかんがえなかった。)

嫁に貰うということは考えなかった。

(それが、「うめもと」のおよのとえんだんがまとまったとき、とたんにおまつをおもいだし、)

それが、「梅本」のおよのと縁談がまとまったとき、とたんにお松を思いだし、

(かみさんにするならおまつだとはらをきめた、ということであった。)

かみさんにするならお松だと肚(はら)をきめた、ということであった。

(「さいわいおまつのほうでもいのにおぼしめしがあったようで、)

「幸いお松のほうでも猪之におぼしめしがあったようで、

(はなしはまとまるようすでしたが、こんどはあっしもようじんした」ととうきちはいった、)

話はまとまるようすでしたが、こんどはあっしも用心した」と藤吉は云った、

(「それで、みとのしごとがおわって、かえってからはなしをきめる、)

「それで、水戸の仕事が終って、帰ってから話をきめる、

(それまではないだんということにしておこう、)

それまでは内談ということにしておこう、

(ということで、いのにもなっとくさせました」)

ということで、猪之にも納得させました」

(とうきちはみとへゆき、さがみやのふしんにかかった。)

藤吉は水戸へゆき、相模屋の普請にかかった。

(しごとのことはかんけいがないからりゃくすが、いんきょというひとがれいのすくないこりしょうで、)

仕事のことは関係がないから略すが、隠居という人が例の少ない凝り性で、

(はじめにけいやくしたずめんにいくたびもてをいれるし、)

初めに契約した図面に幾たびも手を入れるし、

(ふしんばにつきっきりでもんくをいったり、)

普請場に付きっきりで文句を云ったり、

(おわったしごとをやりなおさせるというしまつで、とうきちはいきりたつしょくにんをなだめたり、)

終った仕事をやり直させるという始末で、藤吉はいきりたつ職人をなだめたり、

(いんきょをときふせたりするのにせいをきらした。)

隠居を説き伏せたりするのに精をきらした。

(そんなふうだからしごともはかどらず、あめのおおいとしでもあったが、)

そんなふうだから仕事もはかどらず、雨の多い年でもあったが、

(むねあげまでにしじゅうにちちかくもかかった。)

棟上げまでに四十日近くもかかった。

(こうしてさんがつになり、えどからたてぐやがしょくにんをつれてきたが、)

こうして三月になり、江戸から建具屋が職人を伴れて来たが、

など

(そのすぐあとでいのがひょっこりあらわれた。)

そのすぐあとで猪之がひょっこりあらわれた。

(ーーとうりょうがいけといったからきた。)

ーー頭梁がいけと云ったから来た。

(かれはそういった。だいくのしごとはもうてがあまっている、)

彼はそう云った。大工の仕事はもう手が余っている、

(はんぶんはえどへかえそうとしていたときなので、とうきちはおかしいなとおもい、)

半分は江戸へ帰そうとしていたときなので、藤吉はおかしいなと思い、

(なにかわけがあるんだろうとといつめた。)

なにかわけがあるんだろうと問い詰めた。

(ーーじつはおれからたのんだんだ、といのはばつがわるそうにいった。)

ーーじつはおれから頼んだんだ、と猪之はばつが悪そうに云った。

(おれはあにきがそばにいねえと、)

おれはあにきが側(そば)にいねえと、

(としよりのおとこやもめみたようなこころもちになっちまうんだ。)

年寄りの男やもめみたようなこころもちになっちまうんだ。

(ーーおい、しょうじきにいえいの、なにがあってえどにいられなくなったんだ。)

ーーおい、正直に云え猪之、なにがあって江戸にいられなくなったんだ。

(ーーあにきもうたぐりぶけえにんげんだな。)

ーーあにきも疑ぐりぶけえ人間だな。

(ーーいっちまえ、なんだ、うめもとのはなしか。)

ーー云っちまえ、なんだ、梅本の話か。

(ーーじょうだんじゃあねえ、あれからすぐに、)

ーー冗談じゃあねえ、あれからすぐに、

(あいつのほうははっきりことわっちゃったさ。)

あいつのほうははっきり断わっちゃったさ。

(ーーじゃあなんだ。)

ーーじゃあなんだ。

(とうきちはてをゆるめずにたたみかけた。やがていのはかくしきれなくなり、)

藤吉は手を緩めずにたたみかけた。やがて猪之は隠しきれなくなり、

(それならほんとうのことをいうが、あにきおこらねえか、としんみょうなめつきをした。)

それなら本当のことを云うが、あにき怒らねえか、と神妙な眼つきをした。

(わからねえ、ととうきちはこたえた。)

わからねえ、と藤吉は答えた。

(おこるかおこらねえかはきいたうえのことだ、いってみろ。)

怒るか怒らねえかは聞いたうえのことだ、云ってみろ。

(よわったな、といのはいった。)

弱ったな、と猪之は云った。

(ーーこいつはよわった、いのはくちのなかで、)

ーーこいつは弱った、猪之は口の中で、

(しかしとうきちにきこえるようにつぶやいた。)

しかし藤吉に聞えるように呟やいた。

(こいつはまるでくびのざになおったようなもんだ。)

こいつはまるで首の座に直ったようなもんだ。

(とうきちはだまっていた。それでいのは、いかにもへいこうしたように、)

藤吉は黙っていた。それで猪之は、いかにも閉口したように、

(どもりどもりはくじょうした。)

吃り吃り白状した。

(ひとくちにいうと、おうみやのおまつがいやになった、)

ひと口に云うと、近江屋のお松がいやになった、

(あのはなしはことわってもらいたい、というのである。)

あの話は断わってもらいたい、というのである。

(とうきちはかなりながいことめをつむって、いかりのしずまるのをまった。)

藤吉はかなり長いこと眼をつむって、怒りのしずまるのを待った。

(ーーおめえはさんどめのしょうじきといった、ととうきちはにんたいづよくいった。)

ーーおめえは三度目の正直と云った、と藤吉は忍耐づよく云った。

(こんどこそまちげえのねえあいてだといったろう。)

こんどこそまちげえのねえ相手だと云ったろう。

(ーーそうおこらねえできいてくれ。)

ーーそう怒らねえで聞いてくれ。

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