山本周五郎 赤ひげ診療譚 三度目の正直 17 終

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映画でも有名な、山本周五郎の傑作連作短編です。
赤ひげ診療譚の第四話です。

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問題文

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(「くわしいことはしらないが、けんとうはつくよ」)

「詳しいことは知らないが、見当はつくよ」

(「へえーおどろいたな、そうですか、そんならもうかしこまるにはおよばねえ、)

「へえー驚いたな、そうですか、そんならもうかしこまるには及ばねえ、

(いっちまいましょう」いのはゆのみにさけをそそぎ、)

云っちまいましょう」猪之は湯呑に酒を注ぎ、

(それをりょうてでもってまともにのぼるをみた、)

それを両手で持ってまともに登を見た、

(「まず、あっしをとうぶんここにおいてもらいたいんだが、どうでしょうか」)

「まず、あっしを当分ここに置いてもらいたいんだが、どうでしょうか」

(「それはおれのいちぞんにはいかないな」)

「それはおれの一存にはいかないな」

(「ようはします、あっしでできることならなんでもするし、)

「用はします、あっしで出来ることならなんでもするし、

(ここにはだいくのひとりぐらいやとっておくようがけっこうありますぜ」)

ここには大工の一人ぐらい雇っておく用が結構ありますぜ」

(「そうらしいな」とのぼるはいった、「それでそのつぎはなんだ」)

「そうらしいな」と登は云った、「それでその次はなんだ」

(「いますぐっていうわけじゃあねえが」いののかおがさっとあかくなり、)

「いますぐっていうわけじゃあねえが」猪之の顔がさっと赤くなり、

(かれはゆのみのさけをぐっとのんだ、)

彼は湯呑の酒をぐっと飲んだ、

(「まだあいてにもなんにもいやあしねえんだが、ーーすしをひとつつまみませんか」)

「まだ相手にもなんにも云やあしねえんだが、ーー鮨を一つ摘みませんか」

(のぼるはおもわずふきだした、「つまり、おすぎをよめにもらうというのか」)

登は思わずふきだした、「つまり、お杉を嫁に貰うというのか」

(「かわいそうなんだ」といのはいった、)

「可哀そうなんだ」と猪之は云った、

(「あんなきのちがったしゅじんにつかえて、めしのあげさげからおかわのせわまで、)

「あんな気の違った主人に仕えて、飯のあげさげからおかわの世話まで、

(いつおわるともしれねえことをしんぼうしてやっている、)

いつ終るとも知れねえことを辛抱してやっている、

(あっしはみているだけでむねがきりきりしてくるんです」)

あっしは見ているだけで胸がきりきりしてくるんです」

(「すると」とのぼるがきいた、「あわれだからもらってやろうというのか」)

「すると」と登が訊いた、「哀れだから貰ってやろうというのか」

(「とんでもねえ、じょうだんじゃあねえ」いのはむきになっていいかえした、)

「とんでもねえ、冗談じゃあねえ」猪之はむきになって云い返した、

(「かわいそうなことはたしかだが、よめにもらいてえのはすきだからだ、)

「可哀そうなことは慥かだが、嫁に貰いてえのは好きだからだ、

など

(あっしはこれまでいろいろおんなをみてきたが、おすぎのようなおんなははじめてだし、)

あっしはこれまでいろいろ女を見てきたが、お杉のような女は初めてだし、

(おすぎとならいっしょうどんなびんぼうぐらしをしてもいいとおもう」)

お杉となら一生どんな貧乏ぐらしをしてもいいと思う」

(のぼるはだまっていた。)

登は黙っていた。

(「ほんとですぜ」いののめがうるんでき、かれはからだをかたくしていった、)

「ほんとですぜ」猪之の眼がうるんでき、彼は躯を固くして云った、

(「ーーおすぎをみてから、あっしはしっかりしなくちゃあいけねえとおもいました、)

「ーーお杉を見てから、あっしはしっかりしなくちゃあいけねえと思いました、

(やいしっかりしろ、これまでのようなあまっちょろいかんがえでいては、)

やいしっかりしろ、これまでのようなあまっちょろい考えでいては、

(このよのなかをわたっちゃあいけねえぞって、・・・・・・はじめてです、うまれてからこっち、)

この世の中を渡っちゃあいけねえぞって、……初めてです、生れてからこっち、

(こんなきもちになったのははじめてなんです、)

こんな気持になったのは初めてなんです、

(あっしはおすぎをしあわせにしてやりてえし、)

あっしはお杉を仕合せにしてやりてえし、

(きっとしあわせにしてやれるとおもうんです」)

きっと仕合せにしてやれると思うんです」

(「そういいきってもいいのか」)

「そう云いきってもいいのか」

(「あにきにきいてください、こんなことをくちにするのははじめてだし、)

「あにきに訊いて下さい、こんなことを口にするのは初めてだし、

(おすぎさえいてくれたら、このきもちはこんりんざいかわりゃあしませんから」)

お杉さえいてくれたら、この気持は金輪際変りゃあしませんから」

(そうだろう、とのぼるはおもった。)

そうだろう、と登は思った。

(ーーかれははじめてあいするたちばにたった。)

ーー彼は初めて愛する立場に立った。

(これまではとうきちにかばわれ、おんなたちからさそいかけられた。)

これまでは藤吉に庇(かば)われ、女たちからさそいかけられた。

(いつもうけみだったのが、こんどはおすぎにあわれみをかんじ、)

いつも受身だったのが、こんどはお杉に憐(あわ)れみを感じ、

(おすぎをしあわせにしてやろうとおもいはじめた。)

お杉を仕合せにしてやろうと思い始めた。

(それはかれが、おとことしてひとりだちになろうとするしょうこであろう。)

それは彼が、男として独り立ちになろうとする証拠であろう。

(のぼるはそうおもいながら、それでもねんのためにくぎをさしてみた。)

登はそう思いながら、それでも念のために釘を刺してみた。

(「さんどめのしょうじきというところか」)

「三度目の正直というところか」

(いのはふしんそうにみかえした、「なんです、そのさんどめのしょうじきっていうのは」)

猪之は不審そうに見返した、「なんです、その三度目の正直っていうのは」

(「いいよ」といって、のぼるはびしょうしながらたちあがった、)

「いいよ」と云って、登は微笑しながら立ちあがった、

(「なんでもない、きにするなーーいまのはなしはにいでせんせいとそうだんしてみる」)

「なんでもない、気にするなーーいまの話は新出先生と相談してみる」

(「おねがいします」いのはあたまをさげ、それからこうぜんといった、)

「お願いします」猪之は頭をさげ、それから昂然(こうぜん)と云った、

(「ことわっておきますが、もしいけねえなんていわれたら、)

「断わっておきますが、もしいけねえなんて云われたら、

(おすぎをつれてにげますからね、これはおどかしじゃあねえほんきなんだから、)

お杉を伴れて逃げますからね、これは威かしじゃあねえ本気なんだから、

(せんせいにもどうかそういっといてください」)

先生にもどうかそう云っといて下さい」

(のぼるはかれのめにうなずき、それからろうかへでていった。)

登は彼の眼に頷き、それから廊下へ出ていった。

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