戯作三昧(八)
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問題文
(はち)
八
(「またたねひこのなにかしんぱんぶつが、でるそうでございますな。いずれゆうびだいいちの、)
「また種彦の何か新版物が、出るそうでございますな。いずれ優美第一の、
(あわれっぽいものでございましょう。あのじんのかくものは、たねひこでなくては)
哀れっぽいものでございましょう。あの仁の書くものは、種彦でなくては
(かけないというところがあるようで。」)
書けないというところがあるようで。」
(いちべえは、どういうきか、すべてさくしゃのなまえをよびすてにするしゅうかんがある。)
市兵衛は、どういう気か、すべて作者の名前を呼びすてにする習慣がある。
(ばきんはそれをきくたびに、じぶんもまたかげでは「ばきんが」といわれることだろうと)
馬琴はそれを聞くたびに、自分もまた蔭では「馬琴が」と言われることだろうと
(おもった。このけいはくな、さくしゃをじかのしょくにんだとこころえているおとこのくちから、よびすてに)
思った。この軽薄な、作者を自家の職人だと心得ている男の口から、呼びすてに
(されてまでも、げんこうをかいてやるひつようがどこにある?ーーかんのたかぶったときどき)
されてまでも、原稿を書いてやる必要がどこにある?ーー癇のたかぶった時々
(には、こうおもってはらをたてたことも、まれではない。きょうもかれはたねひこというなを)
には、こう思って腹を立てたことも、稀ではない。今日も彼は種彦という名を
(みみにすると、にがいかおをいよいよにがくせずにはいられなかった。が、いちべえには、)
耳にすると、苦い顔をいよいよ苦くせずにはいられなかった。が、市兵衛には、
(すこしもそんなことはきにならないらしい。)
少しもそんなことは気にならないらしい。
(「それからてまえどもでも、しゅんすいをだそうかとぞんじております。せんせいはおきらいで)
「それから手前どもでも、春水を出そうかと存じております。先生はお嫌いで
(ございますが、やはりぞくぶつにはあのへんがむきますようでございますな。」)
ございますが、やはり俗物にはあの辺が向きますようでございますな。」
(「ははあ、さようかね。」)
「ははあ、さようかね。」
(ばきんのきおくには、いつかみかけたことのあるしゅんすいのかおが、いやしくこちょうされて)
馬琴の記憶には、いつか見かけたことのある春水の顔が、卑しく誇張されて
(うかんできた。「わたしはさくしゃじゃない。おきゃくさまのおのぞみにしたがって、つやものをかいて)
浮んで来た。「私は作者じゃない。お客さまのお望みに従って、艶物を書いて
(おめにかけるてまとりだ。」ーーこうしゅんすいがしょうしているといううわさは、ばきんも)
お目にかける手間取りだ。」ーーこう春水が称しているという噂は、馬琴も
(つとにきいていたところである。だから、もちろんかれはこのさくしゃらしくないさくしゃ)
つとに聞いていたところである。だから、もちろん彼はこの作者らしくない作者
(を、こころのそこからけいべつしていた。が、それにもかかわらず、いまいちべえがよびすてに)
を、心の底から軽蔑していた。が、それにもかかわらず、今市兵衛が呼びすてに
(するのをきくと、いぜんとしてふかいのじょうをきんずることができない。)
するのを聞くと、依然として不快の情を禁ずることが出来ない。
(「ともかくあれで、つやっぽいことにかけては、たっしゃなもので)
「ともかくあれで、艶っぽいことにかけては、たっしゃなもので
(ございますからな。それになだいのけんぴつで。」)
ございますからな。それに名代の健筆で。」
(こういいながら、いちべえはちょいとばきんのかおをみて、それからまたすぐに)
こう言いながら、市兵衛はちょいと馬琴の顔を見て、それからまたすぐに
(くちにくわえているぎんのきせるへめをやった。そのとっさのひょうじょうには、おそるべく)
口にくわえている銀の煙管へ眼をやった。そのとっさの表情には、おそるべく
(かとうななにものかがある。すくなくとも、ばきんはそうかんじた。)
下等な何者かがある。少なくとも、馬琴はそう感じた。
(「あれだけのものをかきますのに、すらすらふでがはしりつづけて、にさんかいぶんくらい)
「あれだけのものを書きますのに、すらすら筆が走りつづけて、二三回分くらい
(なら、かみからはなれないそうでございます。ときにせんせいなぞは、やはり)
なら、紙からはなれないそうでございます。ときに先生なぞは、やはり
(おはやいほうでございますか。」)
お早い方でございますか。」
(ばきんはふかいをかんじるとともに、おどかされるようなこころもちになった。かれの)
馬琴は不快を感じるとともに、脅かされるような心もちになった。彼の
(ふでのはやさをしゅんすいやたねひこのそれとひかくされるということは、じそんしんのおうせいな)
筆の早さを春水や種彦のそれと比較されるということは、自尊心の旺盛な
(かれにとって、もちろんこのましいことではない。しかもかれはちひつのほうである。かれは)
彼にとって、もちろん好ましいことではない。しかも彼は遅筆の方である。彼は
(それがじぶんのむのうりょくにうらがきをするようにおもわれて、さびしくなったことも)
それが自分の無能力に裏書きをするように思われて、寂しくなったことも
(よくあった。が、いっぽうまたそれがじぶんのげいじゅつてきりょうしんをはかるものさしとして、)
よくあった。が、一方またそれが自分の芸術的良心を計る物差しとして、
(とうとみたいとおもったこともたびたびある。ただ、それをぞくじんのせんさくにまかせる)
尊みたいと思ったこともたびたびある。ただ、それを俗人の穿鑿にまかせる
(のは、かれがどんなこころもちでいようとも、だんじてゆるそうとはおもわない。そこで)
のは、彼がどんな心もちでいようとも、断じて許そうとは思わない。そこで
(かれは、めをとこのこうふうこうぎくのほうへやりながら、はきだすようにこういった。)
彼は、眼を床の紅楓黄菊の方へやりながら、吐き出すようにこう言った。
(「ときとばあいでね。はやいときもあれば、またおそいときもある。」)
「時と場合でね。早い時もあれば、また遅い時もある。」
(「ははあ、ときとばあいでね。なるほど。」)
「ははあ、時と場合でね。なるほど。」
(いちべえはみたびかんぷくした。が、これがかんぷくそれじしんにおわるかんぷくでないことは、)
市兵衛は三度感服した。が、これが感服それ自身におわる感服でないことは、
(いうまでもない。かれはこのあとで、すぐにまた、きりこんだ。)
言うまでもない。彼はこのあとで、すぐにまた、切りこんだ。
(「でございますが、たびたびもうしあげたげんこうのほうは、ひとつごしょうだく)
「でございますが、たびたび申し上げた原稿の方は、一つ御承諾
(くださいませんでしょうか。しゅんすいなんぞも、・・・・・・」)
くださいませんでしょうか。春水なんぞも、……」
(「わたしとためながさんとはちがう。」)
「私と為永さんとは違う。」
(ばきんははらをたてると、したくちびるをひだりのほうへまげるくせがある。このとき、それが)
馬琴は腹を立てると、下唇を左の方へまげる癖がある。この時、それが
(おそろしいいきおいでひだりへまがった。)
恐ろしい勢いで左へまがった。
(「まあわたしはごめんをこうむろう。ーーすぎ、すぎ、いずみやさんのおはきものを)
「まあ私は御免をこうむろう。ーー杉、杉、和泉屋さんのお履物を
(なおしておいたか。」)
直して置いたか。」