戯作三昧(十)

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投稿者投稿者鳴きウサギ(鹿の声)いいね2お気に入り登録
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(じゅう)

(ひとりでさびしいひるめしをすませたかれは、ようやくしょさいへひきとると、なんとなく)

独りで寂しい昼飯をすませた彼は、ようやく書斎へひきとると、なんとなく

(おちつきがない、ふかいなこころもちをしずめるために、ひさしぶりですいこでんを)

落ち着きがない、不快な心もちを鎮めるために、久しぶりで水滸伝を

(ひらいてみた。ぐうぜんひらいたところはひょうしとうりんちゅうが、ふうせつのよるにさんじんびょうで、)

開いて見た。偶然開いたところは豹子頭林冲が、風雪の夜に山神廟で、

(まぐさばのやけるのをぼうけんするくだりである。かれはそのぎきょくてきなじょうけいに、いつもの)

草秣場の焼けるのを望見する件である。彼はその戯曲的な場景に、いつもの

(かんきょうをもよおすことができた。が、それがあるところまでつづくとかえって)

感興を催すことが出来た。が、それがあるところまで続くとかえって

(みょうにふあんになった。)

妙に不安になった。

(ぶっさんにいったかぞくのものは、まだかえってこない。うちのなかはしんとしている。)

仏参に行った家族のものは、まだ帰って来ない。うちの中は森としている。

(かれはいんきなかおをかたづけて、すいこでんをまえにしながら、うまくもないたばこをすった。)

彼は陰気な顔を片づけて、水滸伝を前にしながら、うまくもない煙草を吸った。

(そうしてそのけむりのなかに、ふだんからあたまのなかにもっている、あるぎもんをほうふつした。)

そうしてその煙の中に、ふだんから頭の中に持っている、ある疑問を髣髴した。

(こうげんしたごとく、まさに「せんおうのみち」のげいじゅつてきひょうげんである。だから、そこに)

公言したごとく、まさに「先王の道」の芸術的表現である。だから、そこに

(むじゅんはない。が、その「せんおうのみち」がげいじゅつにあたえるかちと、かれのしんじょうが)

矛盾はない。が、その「先王の道」が芸術に与える価値と、彼の心情が

(げいじゅつにあたえようとするかちとのあいだには、ぞんがいおおきなけんかくがある。したがって)

芸術に与えようとする価値との間には、存外大きな懸隔がある。従って

(かれのうちにある、どうとくかがぜんしゃをこうていするとともに、かれのなかにあるげいじゅつかは)

彼のうちにある、道徳家が前者を肯定するとともに、彼の中にある芸術家は

(とうぜんまたこうしゃをこうていした。もちろんこのむじゅんをきりぬけるあんかなだきょうてきしそうも)

当然また後者を肯定した。もちろんこの矛盾を切り抜ける安価な妥協的思想も

(ないことはない。じっさいかれはこうしゅうにむかってこのにえきらないちょうわせつのはいごに、)

ないことはない。実際彼は公衆に向ってこの煮え切らない調和説の背後に、

(かれのげいじゅつにたいするあいまいなたいどをかくそうとしたこともある。)

彼の芸術に対する曖昧な態度を隠そうとしたこともある。

(しかしこうしゅうはあざむかれても、かれじしんはあざむかれない。かれはげさくのかちをひていして)

しかし公衆は欺かれても、彼自身は欺かれない。彼は戯作の価値を否定して

(「かんちょうのぐ」としょうしながら、つねにかれのうちにぼうはくするげいじゅつてきかんきょうにそうぐうすると、)

「勧懲の具」と称しながら、常に彼のうちに磅礴する芸術的感興に遭遇すると、

(たちまちふあんをかんじだした。--すいこでんのいっせつが、たまたまかれのきぶんのうえに、)

たちまち不安を感じ出した。ーー水滸伝の一節が、たまたま彼の気分の上に、

など

(よそうがいのけっかをおよぼしたのにも、じつはこんなりゆうがあったのである。)

予想外の結果を及ぼしたのにも、実はこんな理由があったのである。

(このてんにおいて、しそうてきにおくびょうだったばきんは、もくねんとしてたばこをふかしながら、)

この点において、思想的に臆病だった馬琴は、黙然として煙草をふかしながら、

(しいてしりょうを、るすにしているかぞくのほうへおしながそうとした。が、かれのまえには)

強いて思量を、留守にしている家族の方へ押し流そうとした。が、彼の前には

(すいこでんがある。ふあんはそれをちゅうしんにして、よういにねんとうをはなれない。そこへおりよく)

水滸伝がある。不安はそれを中心にして、容易に念頭を離れない。そこへ折よく

(ひさしぶりで、かざんわたなべのぼるがたずねてきた。はかまはおりにむらさきのふろしきづつみをこわきにして)

久しぶりで、崋山渡辺登が尋ねて来た。袴羽織に紫の風呂敷包みを小脇にして

(いるところでは、これはおおかたかりていたしょもつでもかえしにきたのであろう。)

いるところでは、これはおおかた借りていた書物でも返しに来たのであろう。

(ばきんはよろこんで、このしんゆうをわざわざげんかんまで、むかえにでた。)

馬琴は喜んで、この親友をわざわざ玄関まで、迎えに出た。

(「こんにちははいしゃくしたしょもつをごへんきゃくかたがた、おめにかけたいものがあって、)

「今日は拝借した書物を御返却かたがた、お目にかけたいものがあって、

(さんじょうしました。」)

参上しました。」

(かざんはしょさいにとおると、はたしてこういった。みればふろしきづつみのほかにも)

崋山は書斎に通ると、はたしてこう言った。見れば風呂敷包みのほかにも

(かみにまいたえぎぬらしいものをもっている。)

紙に巻いた絵絹らしいものを持っている。

(「おひまならひとつごらんをねがいましょうかな。」)

「お暇なら一つ御覧を願いましょうかな。」

(「おお、さっそく、はいけんしましょう。」)

「おお、さっそく、拝見しましょう。」

(かざんはあるこうふんににたかんじょうをかくすように、ややわざとらしくびしょうしながら、)

崋山はある興奮に似た感情を隠すように、ややわざとらしく微笑しながら、

(かみのなかのえぎぬをひらいてみせた。えはしょうさくとしたはだかのきを、おちこちとまばらにえがいて、)

紙の中の絵絹をひらいて見せた。絵は蕭索とした裸の樹を、遠近と疎に描いて、

(そのなかにたなごころをうってだんしょうするふたりのおとこをたたせている。りんかんにちっている)

その中に掌をうって談笑する二人の男を立たせている。林間に散っている

(こうようと、りんしょうにむらがっているらんあと、ーーがめんのどこをながめても、うそさむい)

黄葉と、林梢に群がっている乱鴉と、ーー画面のどこを眺めても、うそ寒い

(あきのけがうごいていないところはない。)

秋の気が動いていないところはない。

(ばきんのめは、このたんさいのかんざんじっとくにおちると、しだいにやさしいうるおいをおびて)

馬琴の眼は、この淡彩の寒山拾得に落ちると、次第にやさしい潤いを帯びて

(かがやきだした。)

輝き出した。

(「いつもながら、けっこうなおできですな。わたしはおうまきつをおもいだします。)

「いつもながら、結構なお出来ですな。私は王摩詰を思い出します。

(しょくはめいけいにしたがいそううくだり、ゆいてくうりんをふめばらくようこえありというところでしょう。」)

食随二鳴磬一巣烏下、行踏二空林一落葉声というところでしょう。」

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