戯作三昧(十四)
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問題文
(じゅうよん)
十四
(ちゃのまのほうでは、かんだかいつまのおひゃくのこえやうちきらしいよめのおみちのこえがにぎやかに)
茶の間の方では、癇高い妻のお百の声や内気らしい嫁のお路の声が賑やかに
(きこえている。ときどきふといおとこのこえがまじるのは、おりからせがれのそうはくもかえりあわせた)
聞えている。時々太い男の声がまじるのは、折から伜の宗伯も帰り合せた
(らしい。たろうはそふのひざにまたがりながら、それをききすましでもするように、)
らしい。太郎は祖父の膝にまたがりながら、それを聞きすましでもするように、
(わざとまじめなかおをしててんじょうをながめた。がいきにさらされたほおがあかくなって、)
わざとまじめな顔をして天井を眺めた。外気にさらされた頬が赤くなって、
(ちいさなはなのあなのまわりが、いきをするたびにうごいている。)
小さな鼻の穴のまわりが、息をするたびに動いている。
(「あのね、おじいさまにね。」)
「あのね、お祖父様にね。」
(くりうめのちいさなもんつきをきたたろうは、とつぜんこういいだした。かんがえようとするどりょく)
栗梅の小さな紋附を着た太郎は、突然こう言い出した。考えようとする努力
(と、わらいたいのをこらえようとするどりょくとで、えくぼがなんどもきえたりできたり)
と、笑いたいのをこらえようとする努力とで、靨が何度も消えたり出来たり
(する。ーーそれがばきんには、おのずからびしょうをさそうようなきがした。)
する。ーーそれが馬琴には、おのずから微笑を誘うような気がした。
(「よくまいんち。」)
「よく毎日。」
(「うん、よくまいんち?」)
「うん、よく毎日?」
(「おべんきょうなさい。」)
「御勉強なさい。」
(ばきんはとうとうふきだした。が、わらいのなかですぐまたことばをつぎながら、)
馬琴はとうとうふき出した。が、笑いの中ですぐまた語をつぎながら、
(「それから?」)
「それから?」
(「それからーーええとーーかんしゃくをおこしちゃいけませんって。」)
「それからーーええとーー癇癪を起しちゃいけませんって。」
(「おやおや、それっきりかい。」)
「おやおや、それっきりかい。」
(「まだあるの。」)
「まだあるの。」
(たろうはこういって、いとびんやっこのあたまをあおむけながらじぶんもまたわらいだした。)
太郎はこう言って、糸鬢奴の頭を仰向けながら自分もまた笑い出した。
(めをほそくして、しろいはをだして、ちいさなえくぼをよせて、わらっているのをみると、)
眼を細くして、白い歯を出して、小さな靨をよせて、笑っているのを見ると、
(これがおおきくなって、せけんのにんげんのようなあわれむべきかおになろうとは、)
これが大きくなって、世間の人間のような憐れむべき顔になろうとは、
(どうしてもおもわれない。ばきんはこうふくのいしきにおぼれながら、こんなことをかんがえた。)
どうしても思われない。馬琴は幸福の意識に溺れながら、こんなことを考えた。
(そうしてそれが、さらにまたかれのこころをくすぐった。)
そうしてそれが、さらにまた彼の心をくすぐった。
(「まだなにかあるかい?」)
「まだ何かあるかい?」
(「まだね。いろんなことがあるの。」)
「まだね。いろんなことがあるの。」
(「どんなことが。」)
「どんなことが。」
(「ええとーーおじいさまはね。いまにもっとえらくなりますからね。」)
「ええとーーお祖父様はね。今にもっとえらくなりますからね。」
(「えらくなりますから?」)
「えらくなりますから?」
(「ですからね。よくね。しんぼうおしなさいって。」)
「ですからね。よくね。辛抱おしなさいって。」
(「しんぼうしているよ。」ばきんはおもわず、まじめなこえをだした。)
「辛抱しているよ。」馬琴は思わず、真面目な声を出した。
(「もっと、もっとようくしんぼうなさいって。」)
「もっと、もっとようく辛抱なさいって。」
(「だれがそんなことをいったのだい。」)
「誰がそんなことを言ったのだい。」
(「それはね。」)
「それはね。」
(たろうはいたずらそうに、ちょいとかれのかおをみた。そうしてわらった。)
太郎は悪戯そうに、ちょいと彼の顔を見た。そうして笑った。
(「だあれだ?」)
「だあれだ?」
(「そうさな。きょうはごぶっさんにいったのだから、おてらのぼうさんにきいてきたの)
「そうさな。今日は御仏参に行ったのだから、お寺の坊さんに聞いて来たの
(だろう。」)
だろう。」
(「ちがう。」)
「違う。」
(だんぜんとしてくびをふったたろうは、ばきんのひざから、はんぶんこしをもたげながら、)
断然として首を振った太郎は、馬琴の膝から、半分腰をもたげながら、
(あごをすこしまえへだすようにして、)
顋を少し前へ出すようにして、
(「あのね。」)
「あのね。」
(「うん。」)
「うん。」
(「あさくさのかんのんさまがそういったの。」)
「浅草の観音様がそう言ったの。」
(こういうとともに、このこどもは、かないじゅうにきこえそうなこえで、うれしそうにわらい)
こう言うとともに、この子供は、家内中に聞えそうな声で、嬉しそうに笑い
(ながら、ばきんにつかまるのをおそれるように、いそいでかれのかたわらからとびのいた。)
ながら、馬琴につかまるのを恐れるように、急いで彼の側から飛びのいた。
(そうしてうまくそふをかついだおもしろさにちいさなてをたたきながら、)
そうしてうまく祖父をかついだおもしろさに小さな手をたたきながら、
(ころげるようにしてちゃのまのほうへにげていった。)
ころげるようにして茶の間の方へ逃げて行った。
(ばきんのこころに、げんしゅくななにものかがせつなにひらめいたのは、このときである。かれのくちびるには)
馬琴の心に、厳粛な何物かが刹那にひらめいたのは、この時である。彼の唇には
(こうふくなびしょうがうかんだ。それとともにかれのめには、いつかなみだがいっぱいになった。)
幸福な微笑が浮んだ。それとともに彼の眼には、いつか涙がいっぱいになった。
(このじょうだんはたろうがかんがえだしたのか、あるいはまたははがおしえてやったのか、)
この冗談は太郎が考え出したのか、あるいはまた母が教えてやったのか、
(それはかれのとうところではない。このとき、このまごのくちから、こういうことばを)
それは彼の問うところではない。この時、この孫の口から、こういう語を
(きいたのが、ふしぎなのである。)
聞いたのが、不思議なのである。
(「かんのんさまがそういったか。べんきょうしろ。かんしゃくをおこすな。そうしてもっと)
「観音様がそう言ったか。勉強しろ。癇癪を起すな。そうしてもっと
(よくしんぼうしろ。」)
よく辛抱しろ。」
(ろくじゅうなんさいかのろうげいじゅつかは、なみだのなかにわらいながら、こどものようにうなずいた。)
六十何歳かの老芸術家は、涙の中に笑いながら、子供のようにうなずいた。