『愛撫』梶井基次郎1
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問題文
(ねこのみみは、まことおかしなものである。うすべったくて、つめたくて、)
猫の耳は、まこと可笑しなものである。薄べったくて、冷たくて、
(たけのこのかわのようにおもてにはけがはえていて、)
竹の子の皮のように表には毛が生えていて、
(うらはぴかぴかしている。かたいような、やわらかいような、)
裏はピカピカしている。硬いような、柔らかいような、
(なんともいえないいっしゅとくべつのぶっしつである。わたしはこどものときから、)
なんともいえない一種特別の物質である。私は子供の時から、
(ねこのみみというと、いちど「きっぷきり」でぱちんとやってみたくて)
猫の耳というと、一度「切符切り」でパチンとやってみたくて
(たまらなかった。これはざんこくなくうそうだろうか。)
堪らなかった。これは残酷な空想だろうか。
(いや、まったくねこのみみのもっているいっしゅふかしぎなちからによるものである。)
いや、まったく猫の耳の持っている一種不可思議な力によるものである。
(わたしは、いえへきたあるまじめなきゃくが、ひざへあがってきたこねこのみみを、)
私は、家へ来たある真面目な客が、膝へあがって来た子猫の耳を、
(はなしをしながらしきりにつねっていたこうけいをわすれることができない。)
話をしながらしきりにつねっていた光景を忘れることができない。
(このようなぎわくはおもいのほかにしゅうねんぶかいものである。)
このような疑惑は思いの外に執念深いものである。
(「きっぷきり」でぱちんとやるというような、いたずらにるいしたくうそうも、)
「切符切り」でパチンとやるというような、いたずらに類した空想も、
(おもいきってこういにうつさないかぎり、)
思い切って行為に移さない限り、
(われわれのたいくつさのなかにはるかにながくいきのびる。)
我々の退屈さの中に遙かに長く生き延びる。
(とっくにふんべつのできたおとなが、いまもなおねっしんに、)
とっくに分別のできた大人が、今もなお熱心に、
(たとえば、あつがみをさんどうぃっちのようにはさんだうえから)
例えば、厚紙をサンドウィッチのようにはさんだ上から
(ひとおもいにきってみたらどうなるかと、こんなことをかんがえているのである。)
一思いに切ってみたらどうなるかと、こんなことを考えているのである。
(ところが、さいきん、ふとしたことから、)
ところが、最近、ふとしたことから、
(このくうそうのちめいてきなごさんがばくろしてしまった。)
この空想の致命的な誤算が暴露してしまった。
(がんらい、ねこはうさぎのようにみみでつりさげられても、そういたがらない。)
元来、猫はウサギのように耳で吊り下げられても、そう痛がらない。
(ひっぱるということにたいしては、ねこのみみはきみょうなこうぞうをもっている。)
引っ張るということに対しては、猫の耳は奇妙な構造を持っている。
(というのは、いちどひっぱられてやぶれたようなこんせきが、)
というのは、一度引っ張られて破れたような痕跡が、
(どのねこのみみにもあるのである。そのやぶれたかしょには、)
どの猫の耳にもあるのである。その破れた箇所には、
(またこうみょうな「つぎ」がされており、まったくそれは、)
また巧妙な「つぎ」がされており、まったくそれは、
(そうぞうせつをしんじるひとにとってもしんかろんをしんじるひとにとっても、)
創造説を信じる人にとっても進化論を信じる人にとっても、
(ふかしぎなこっけいなみみたるをうしなわない。)
不可思議な滑稽な耳たるを失わない。
(そしてその「つぎ」が、みみをひっぱられるときに)
そしてその「つぎ」が、耳を引っ張られる時に
(のびるにちがいないのである。)
伸びるに違いないのである。
(そんなわけで、みみをひっぱられることにかんしては、ねこはいたってへいきだ。)
そんな訳で、耳を引っ張られることに関しては、猫は至って平気だ。
(それでは、あっぱくにたいしてはどうかというと、)
それでは、圧迫に対してはどうかというと、
(これもゆびでつまむくらいでは、いくらつよくしてもいたがらない。)
これも指でつまむくらいでは、いくら強くしても痛がらない。
(さきほどのきゃくのように、つねってみたところで)
先程の客のように、つねってみた所で
(ごくまれにしかひめいをはっしないのである。こんなところから、ねこのみみは)
ごく稀にしか悲鳴を発しないのである。こんな所から、猫の耳は
(ふじみのようなうたがいをうけ、ひいては「きっぷきり」のきけんにも)
不死身のような疑いを受け、ひいては「切符切り」の危険にも
(さらされるのであるが、あるひ、わたしはねことあそんでいるさいちゅうに、)
晒されるのであるが、ある日、私は猫と遊んでいる最中に、
(とうとう、そのみみをかんでしまったのである。)
とうとう、その耳を噛んでしまったのである。
(これがわたしのはっけんだったのである。かまれるやいなや、そのくだらないやつは、)
これが私の発見だったのである。噛まれるや否や、その下らない奴は、
(ただちにひめいをあげた。わたしのふるいくうそうはそのばでこわれてしまった。)
直ちに悲鳴をあげた。私の古い空想はその場で壊れてしまった。
(ねこはみみをかまれるのがいちばんいたいのである。)
猫は耳を噛まれるのが一番痛いのである。
(ひめいはもっともかすかなところからはじまる。だんだんつよくするほど、だんだんつよくなく、)
悲鳴は最もかすかな所から始まる。だんだん強くする程、段々強く鳴く、
(くれっしぇんど。なんだかもっかんがっきのようなきがする。)
クレッシェンド。なんだか木管楽器のような気がする。
(わたしのながらくのくうそうは、かくのごとくにしてきえてしまった。)
私の長らくの空想は、かくの如くにして消えてしまった。
(しかし、こういうことにはきりがないとみえる。)
しかし、こういうことにはきりがないとみえる。
(このごろ、わたしはまたべつなことをくうそうしはじめている。)
この頃、私はまた別なことを空想し始めている。
(それは、ねこのつめをみんなきってしまうのである。ねこはどうなるだろう。)
それは、猫の爪をみんな切ってしまうのである。猫はどうなるだろう。
(おそらくかれはしんでしまうのではなかろうか。)
おそらく彼は死んでしまうのではなかろうか。
(いつものように、かれはきのぼりをしようとする。しかし、できない。)
いつものように、彼は木登りをしようとする。しかし、できない。
(ひとのすそをめがけてとびかかる。ちがう、つめをとごうとする。なんにもない。)
人のすそを目がけて跳びかかる。違う、爪を研ごうとする。なんにもない。
(おそらくかれはこんなことをなんどもやってみるにちがいない。)
おそらく彼はこんなことを何度もやってみるに違いない。
(そのたびに、だんだんいまのじぶんがむかしのじぶんとちがうことにきがついてゆく。)
その度に、段々今の自分が昔の自分と違うことに気がついてゆく。