陰翳礼讃 10
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問題文
(しょくんはまたそういうおおきなたてものの、おくのおくのへやへいくと、)
諸君はまたそう云う大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、
(もうまったくそとのひかりがとどかなくなったくらがりのなかにあるきんぶすまやきんびょうぶが、)
もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、
(いくまをへだてたとおいとおいにわのあかりのほさきをとらえて、ぽうっとゆめのように)
幾間を隔てた遠い/\庭の明りの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように
(てりかえしているのをみたことはないか。そのてりかえしは、ゆうぐれの)
照り返しているのを見たことはないか。その照り返しは、夕暮れの
(ちへいせんのように、あたりのやみへじつによわよわしいきんいろのあかりをなげているのであるが)
地平線のように、あたりの闇へ実に弱々しい金色の明りを投げているのであるが
(わたしはおうごんというものがあれほどちんつうなうつくしさをみせるときはないとおもう。)
私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はないと思う。
(そして、そのまえをとおりすぎながらいくどもふりかえってみなおすことがあるが、)
そして、その前を通り過ぎながら幾度も振り返って見直すことがあるが、
(しょうめんからそくめんのほうへほをうつすにしたがって、きんじのかみのひょうめんがゆっくりとおおきく)
正面から側面の方へ歩を移すに随って、金地の紙の表面がゆっくりと大きく
(そこびかりする。けっしてちらちらとさわがしいまたたきをせず、きょじんがかおいろをかえるように)
底光りする。決してちら/\と忙がしい瞬きをせず、巨人が顔色を変えるように
(きらり、と、ながいまをおいてひかる。ときとすると、たったいままでねむったようなにぶい)
きらり、と、長い間を置いて光る。時とすると、たった今まで眠ったような鈍い
(はんしゃをしていたなしじのきんが、そくめんへまわると、もえあがるようにかがやいているのを)
反射をしていた梨地の金が、側面へ廻ると、燃え上るように耀やいているのを
(はっけんして、こんなにくらいところでどうしてこれだけのこうせんをあつめることが)
発見して、こんなに暗い所でどうしてこれだけの光線を集めることが
(できたのかと、ふしぎにおもう。それでわたしにはむかしのひとがおうごんをほとけのぞうにぬったり、)
出来たのかと、不思議に思う。それで私には昔の人が黄金を佛の像に塗ったり、
(きじんのききょするへやのしへきへはったりしたいみが、はじめてうなずけるのである。)
貴人の起居する部屋の四壁へ張ったりした意味が、始めて頷けるのである。
(げんだいのひとはあかるいいえにすんでいるので、こういうおうごんのうつくしさをしらない。)
現代の人は明るい家に住んでいるので、こう云う黄金の美しさを知らない。
(が、くらいいえにすんでいたむかしのひとは、そのうつくしいいろにみせられたばかりでなく、)
が、暗い家に住んでいた昔の人は、その美しい色に魅せられたばかりでなく、
(かねてじつようてきかちをもしっていたのであろう。なぜならこうせんのとぼしいおくないでは、)
かねて実用的価値をも知っていたのであろう。なぜなら光線の乏しい屋内では、
(あれがれふれくたーのやくめをしたにちがいないから。つまりかれらはただぜいたくに)
あれがレフレクターの役目をしたに違いないから。つまり彼等はたゞ贅沢に
(おうごんのはくやいさごをつかったのではなく、あれのはんしゃをりようしてあかりをおぎなったので)
黄金の箔や砂子を使ったのではなく、あれの反射を利用して明りを補ったので
(あろう。そうだとすると、ぎんやそのほかのきんぞくはじきにこうたくがあせてしまうのに)
あろう。そうだとすると、銀やその他の金属はじきに光沢が褪せてしまうのに
(ながくかがやきをうしなわないでしつないのやみをてらすおうごんというものが、いように)
長く耀やきを失わないで室内の闇を照らす黄金と云うものが、異様に
(たっとばれたであろうりゆうをえとくすることができる。わたしはまえに、まきえというものは)
貴ばれたであろう理由を会得することが出来る。私は前に、蒔絵と云うものは
(くらいところでみてもらうようにつくられていることをいったが、こうしてみると、)
暗い所で見て貰うように作られていることを云ったが、こうしてみると、
(ただにまきえばかりではない、おりものなどでもむかしのものにきんぎんのいとがふんだんに)
啻に蒔絵ばかりではない、織物などでも昔のものに金銀の糸がふんだんに
(つかってあるのは、おなじりゆうにもとづくことがしれる。そうりょがまとうきんらんのけさ)
使ってあるのは、同じ理由に基づくことが知れる。僧侶が纏う金襴の袈裟
(などは、そのもっともいいれいではないか。こんにちまちなかにあるおおくのじいんはたいがいほんどうを)
などは、その最もいゝ例ではないか。今日町中にある多くの寺院は大概本堂を
(たいしゅうむきにあかるくしてあるから、ああいうばしょではいたずらにけばけばしいばかりで)
大衆向きに明るくしてあるから、あゝ云う場所では徒らにケバケバしいばかりで
(どんなひとがらなこうそうがきていてもありがたみをかんじることはめったにないが、ゆいしょある)
どんな人柄な高僧が着ていても有難味を感じることはめったにないが、由緒ある
(おてらのこしきにのっとったぶつじにれっせきしてみると、しわだらけなろうそうのひふと、)
お寺の古式に則った佛事に列席してみると、皺だらけな老僧の皮膚と、
(ぶつぜんのとうみょうのめいめつと、あのきんらんのちしつとが、いかによくちょうわし、いかにそうごんみを)
佛前の燈明の明滅と、あの金襴の地質とが、いかによく調和し、いかに荘厳味を
(ましているかがわかるのであって、それというのも、まきえのばあいとおなじように、)
増しているかが分るのであって、それと云うのも、蒔絵の場合と同じように、
(はでなおりもようのだいぶぶんをやみがかくしてしまい、ただきんぎんのいとがときどき)
派手な織り模様の大部分を闇が隠してしまい、たゞ金銀の糸がとき/″\
(すこしずつひかるようになるからである。それから、これはわたしひとりだけのかんじで)
少しずつ光るようになるからである。それから、これは私一人だけの感じで
(あるかもしれないが、およそにほんじんのひふにのういしょうほどうつりのいいものはないと)
あるかも知れないが、およそ日本人の皮膚に能衣裳ほど映りのいゝものはないと
(おもう。いうまでもなくあのいしょうにはずいぶんけんらんなものがおおく、きんぎんがほうふに)
思う。云うまでもなくあの衣裳には随分絢爛なものが多く、金銀が豊富に
(つかってあり、しかもそれをきてでるのうやくしゃは、かぶきはいゆうのように)
使ってあり、しかもそれを着て出る能役者は、歌舞伎俳優のように
(おしろいをぬってはいないのであるが、にほんじんとくゆうのあかみがかったかっしょくのはだ、)
お白粉を塗ってはいないのであるが、日本人特有の赧みがかった褐色の肌、
(あるいはきいろみをふくんだぞうげいろのじがおがあんなにみりょくをはっきするときはない)
或は黄色味をふくんだ象牙色の地顔があんなに魅力を発揮する時はない
(のであって、わたしはいつものうをみにいくたびごとにかんしんする。きんぎんのおりだしや)
のであって、私はいつも能を見に行く度毎に感心する。金銀の織り出しや
(ししゅうのあるうちきのるいもよくにあうが、こいみどりいろやかきいろのすおう、すいかん、)
刺繍のある袿の類もよく似合うが、濃い緑色や柿色の素襖、水干、
(かりぎぬのたぐい、しろむじのこそで、おおくちなどもじつによくにあう。たまたまそれがびしょうねんの)
狩衣の類、白無地の小袖、大口等も実によく似合う。たま/\それが美少年の
(のうやくしゃだと、きめのこまかい、わかわかしいてりをもったほおのいろつやなどが)
能役者だと、肌理のこまかい、若々しい照りを持った頬の色つやなどが
(そのためにひとしおひきたてられて、おんなのはだとはみずからちがったこわくをふくんで)
そのためにひとしお引き立てられて、女の肌とは自ら違った蠱惑を含んで
(いるようにみえ、なるほどむかしのだいみょうがちょうどうのようしょくにおぼれたというのは)
いるように見え、なるほど昔の大名が寵童の容色に溺れたと云うのは
(ここのことだなと、がてんがいく。かぶきのほうでもじだいものやしょさごとのいしょうの)
此処のことだなと、合点が行く。歌舞伎の方でも時代物や所作事の衣裳の
(かびなことはのうがくのそれにおとらないし、せいてきみりょくのてんにかけてはこのほうがはるかに)
華美なことは能楽のそれに劣らないし、性的魅力の点にかけてはこの方が遙かに
(のうがくいじょうとされているけれども、りょうほうをたびたびみなれてくると、じじつはそれの)
能楽以上とされているけれども、両方をたび/\見馴れて来ると、事実はそれの
(はんたいであることにきがつくであろう。ちょっとみたときはかぶきのほうが)
反対であることに気が付くであろう。ちょっと見た時は歌舞伎の方が
(えろてぃっくでもあり、きれいでもあるのにろんはないが、むかしはとにかく、せいようりゅうの)
エロティックでもあり、綺麗でもあるのに論はないが、昔はとにかく、西洋流の
(しょうめいをつかうようになったきょうのぶたいでは、あのはでなしきさいがややともすると)
照明を使うようになった今日の舞台では、あの派手な色彩がやゝともすると
(ぞくあくにおちいり、みあきがする。いしょうもそうなら、けしょうとてもそうであって、)
俗悪に陥り、見飽きがする。衣裳もそうなら、化粧とてもそうであって、
(かりにうつくしいとしてからが、それがどこまでもつくったかおであってみれば、)
仮に美しいとしてからが、それが何処までも作った顔であってみれば、
(きじのうつくしさのようなじっかんがともなわない。しかるにのうがくのはいゆうは、かおも、えりも、)
生地の美しさのような実感が伴わない。然るに能楽の俳優は、顔も、襟も、
(ても、きじのままでとうじょうする。さればびもくのなまめかしさはそのひとほんらいのもので)
手も、生地のまゝで登場する。されば眉目のなまめかしさはその人本来のもので
(あって、ごうもわれわれのめをあざむいているのではない。)
あって、毫もわれ/\の眼を欺いているのではない。
(ゆえにのうやくしゃのばあいはめがたやにまいめのすがおにせっしておざがさめたというようなこと)
故に能役者の場合は女形や二枚目の素顔に接してお座がさめたと云うようなこと
(はありえない。ただわれわれのかんじることは、われわれとおなじいろのひふをもった)
は有り得ない。たゞわれ/\の感じることは、われ/\と同じ色の皮膚を持った
(かれらがいっけんにあいそうにもないぶけじだいのはでないしょうをつけたときにいかに)
彼等が一見似合いそうにもない武家時代の派手な衣裳を着けた時に如何に
(そのようしょくがみずぎわたってみえるかといういちじである。かつてわたしは、)
その容色が水際立って見えるかと云う一事である。かつて私は、
(「こうてい」ののうでようきひにふんしたこんごういわおしをみたことがあったが、そでぐちから)
「皇帝」の能で楊貴妃に扮した金剛巌氏を見たことがあったが、袖口から
(のぞいているそのてのうつくしかったことをいまもわすれない。わたしはかれのてをみながら、)
覗いているその手の美しかったことを今も忘れない。私は彼の手を見ながら、
(しばしばひざのうえにおいたじぶんのてをかえりみた。そしてかれのてがそんなにもうつくしく)
しば/\膝の上に置いた自分の手を省みた。そして彼の手がそんなにも美しく
(みえるのは、てくびからゆびさきにいたるびみょうなてのひらのうごかしかた、どくとくのぎこうをこめた)
見えるのは、手頸から指先に至る微妙な掌の動かし方、独特の技巧を罩めた
(ゆびのさばきにもよるのであろうが、それにしても、そのひふのいろの、ないぶから)
指のさばきにも因るのであろうが、それにしても、その皮膚の色の、内部から
(ぽうっとあかりがさしているようなこうたくは、どこからくるのかといぶかしみに)
ぽうっと明りが射しているような光沢は、何処から来るのかと訝しみに
(うたれた。なんとなれば、それはどこまでもふつうのにほんじんのてであって、げんにわたしが)
打たれた。何となれば、それは何処までも普通の日本人の手であって、現に私が
(ひざのうえについているてと、はだのいろつやになんのちがったところもない。わたしはふたたび)
膝の上についている手と、肌の色つやに何の違ったところもない。私は再び
(みたびぶたいのうえのこんごうしのてとじぶんのてとをみくらべたが、いくらみくらべてもおなじ)
三たび舞台の上の金剛氏の手と自分の手とを見較べたが、いくら見較べても同じ
(てである。だがふしぎにも、そのおなじてがぶたいにあってはあやしいまでにうつくしく)
手である。だが不思議にも、その同じ手が舞台にあっては妖しいまでに美しく
(みえ、じぶんのひざのうえにあってはただのへいぼんなてにみえる。かくのごときことは)
見え、自分の膝の上にあっては只の平凡な手に見える。かくの如きことは
(ひとりこんごういわおしのばあいのみではない。のうにおいては、いしょうのそとへあらわれる)
ひとり金剛巌氏の場合のみではない。能においては、衣裳の外へ露われる
(にくたいはほんのわずかなぶぶんであって、かおと、えりくびと、てくびからゆびのさきまでに)
肉体はほんの僅かな部分であって、顔と、襟くびと、手頸から指の先までに
(すぎず、ようきひのようにめんをつけているときはかおさえかくれてしまうのであるが、)
過ぎず、楊貴妃のように面を附けている時は顔さえ隠れてしまうのであるが、
(それでいてそのわずかなぶぶんのいろつやがいようにいんしょうてきになる。こんごうしは)
それでいてその僅かな部分の色つやが異様に印象的になる。金剛氏は
(とくにそうであったけれども、たいがいのやくしゃのてが、なにのきもないあたりまえの)
特にそうであったけれども、大概の役者の手が、何の奇もない当りまえの
(にほんじんのてが、げんだいのふくそうをしていてはきがつかれないみわくをはっきして)
日本人の手が、現代の服装をしていては気が付かれない魅惑を発揮して
(われわれにきょういのめをみはらせる。くりかえしていうが、それはけっして)
われ/\に驚異の眼を見張らせる。繰り返して云うが、それは決して
(びしょうねんやびだんしのやくしゃにかぎるのではない。たとえば、にちじょうわれわれはふつうの)
美少年や美男子の役者に限るのではない。たとえば、日常われ/\は普通の
(だんしのくちびるにひきつけられることなどはありえないが、のうのぶたいでは、)
男子の唇に惹き付けられることなどは有り得ないが、能の舞台では、
(あのくろずんだあかみと、しめりけをもったはだが、くちべにをさしたふじんのそれいじょうに)
あの黝ずんだ赤みと、しめり気を持った肌が、口紅をさした婦人のそれ以上に
(にくかんてきなねばっこさをおびる。これはやくしゃがうたいをうたうためにしじゅうくちびるを)
肉感的なねばっこさを帯びる。これは役者が謡いをうたうために始終唇を
(ぬらすゆえでもあろうが、しかしそのせいばかりとはおもえない。またこかたのはいゆうの)
濡らす故でもあろうが、しかしそのせいばかりとは思えない。また子方の俳優の
(ほほがこうちょうをていしているのが、そのあかさが、じつにあざやかにひきたってみえる。)
頬が紅潮を呈しているのが、その赤さが、実に鮮やかに引き立って見える。
(わたしのけいけんではみどりけいとうのじいろのいしょうをつけたときにもっともおおくそうみえるので、)
私の経験では緑系統の地色の衣裳を着けた時に最も多くそう見えるので、
(いろのしろいこかたならもちろんであるが、じつをいうといろのくろいこかたのほうが、かえって)
色の白い子方なら勿論であるが、実を云うと色の黒い子方の方が、却って
(そのあかみのとくしょくがめだつ。それはなぜかというと、いろじろなこではしろとあかとの)
その赤味の特色が眼立つ。それはなぜかと云うと、色白な児では白と赤との
(たいしょうがあまりこくめいであるけっか、のういしょうのくらくしずんだしきちょうにはすこしこうかが)
対照があまり刻明である結果、能衣裳の暗く沈んだ色調には少し効果が
(つよすぎるが、いろのくろいこのあんかっしょくのほおであると、あかがそれほどきわだたないで、)
強過ぎるが、色の黒い児の暗褐色の頬であると、赤がそれほど際立たないで、
(いしょうとかおとがたがいにてりはえる。しぶいみどりと、しぶいちゃと、ふたつのかんしょくがうつりあって、)
衣裳と顔とが互に照りはえる。渋い緑と、渋い茶と、二つの間色が映り合って、
(おうしょくじんしゅのはだがいかにもそのところをえ、いまさらのようにひとめをひく。わたしはいろのちょうわが)
黄色人種の肌がいかにもその所を得、今更のように人目を惹く。私は色の調和が
(つくりだすかくのごときびがほかにあるをしらないが、もしのうがくがかぶきのように)
作り出すかくの如き美が他にあるを知らないが、もし能楽が歌舞伎のように
(きんだいのしょうめいをもちいたとしたら、それらのびかんはことごとくどぎついこうせんのために)
近代の照明を用いたとしたら、それらの美感は悉くどぎつい光線のために
(とびちってしまうであろう。さればそのぶたいをむかしながらのくらさにまかしてあるのは)
飛び散ってしまうであろう。さればその舞台を昔ながらの暗さに任してあるのは
(ひつぜんのやくそくにしたがっているわけであって、たてものなどもふるければふるいほどいい。)
必然の約束に従っている訳であって、建物なども古ければ古い程いゝ。
(ゆかがしぜんのつやをおびてはしらやかがみいたなどがくろびかりにひかり、はりからのきさきのやみがおおきな)
床が自然のつやを帯びて柱や鏡板などが黒光りに光り、梁から軒先の闇が大きな
(つりがねをふせたようにやくしゃのずじょうへおおいかぶさっているぶたい、そういうばしょが)
吊り鐘を伏せたように役者の頭上へ蔽いかぶさっている舞台、そういう場所が
(もっともてきしているのであって、そのてんからいえばちかごろのうがくがあさひかいかんやこうかいどうへ)
最も適しているのであって、その点から云えば近頃能楽が朝日会館や公会堂へ
(しんしゅつするのは、けっこうなことにちがいないけれども、そのほんとうのもちあじは)
進出するのは、結構なことに違いないけれども、そのほんとうの持ち味は
(はんぶんいじょううしなわれているとおもわれる。)
半分以上失われていると思われる。