病院-3-(完)
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問題文
(いつのまにうとうとしていたのか、おれはがくんというしょうげきでめをさました。)
いつのまにウトウトしていたのか、俺はガクンという衝撃で目を覚ました。
(いしきがせんめいになり、そしてへやにははりつめたようなくうきがあった。)
意識が鮮明になり、そして部屋には張り詰めたような空気があった。
(なぜかわからないが、とっさにまどをみた。)
なぜかわからないが、とっさに窓を見た。
(そのむこうにはやみと、とおくにみえるみんかのあかりがぽつりぽつりと)
その向こうには闇と、遠くに見える民家の明かりがぽつりぽつりと
(へんざいしているだけだった。つぎにどあをみた。)
偏在しているだけだった。次にドアを見た。
(なにかがさっていくけはいがあったきがした。)
なにかが去っていく気配があった気がした。
(そしておれのあたまのなかには、きょうしょちょうにしつもんしたなかにはなかった、)
そして俺の頭の中には、今日所長に質問した中にはなかった、
(きかいなうわさがあらたにはいりこんでいた。とおくからはえのうめくようなおとがする。)
奇怪な噂が新たに入り込んでいた。遠くから蝿の呻くような音がする。
(「だれにきいたのか」とは、そういうことなのか。「だれもいうはずがないはなし」)
「誰に聞いたのか」とは、そういうことなのか。『誰も言うはずがない話』
(あるいは、「しょちょういがい、だれもしっているはずがないはなし」)
あるいは、『所長以外、誰も知っているはずがない話』
(たとえば、しょちょうがさいごをみとったひとのはなし・・・・・・)
たとえば、所長が最期を看取った人の話・・・・・・
(そんなはなしをおれがしたら、きょうのようなたいどになるだろうか。)
そんな話を俺がしたら、今日のような態度になるだろうか。
(そんなうわさばなしをおれにしたのはだれだろう。いま、やみにきえたようなけはいのぬしだろうか。)
そんな噂話を俺にしたのは誰だろう。今、闇に消えたような気配の主だろうか。
(なまなましい、そしてついさっきまではしらなかったはずのきかいなうわさが)
生々しい、そしてついさっきまでは知らなかったはずの奇怪な噂が
(あたまのなかでうずをまいている。おれはここからさりたかった。でもぜったいむりだ。)
頭の中で渦を巻いている。俺はここから去りたかった。でも絶対無理だ。
(いまあのどあをあけて、くらいろうかにでて、ひとのいないびょうしつをとおり、)
今あのドアを開けて、暗い廊下に出て、人の居ない病室を通り、
(せまいかいだんをおり、れいあんしつのまえをいくのは。おれはぶるぶるとふるえながら、)
狭い階段を降り、霊安室の前を行くのは。俺はブルブルと震えながら、
(このばいとをひきうけたことをこうかいしていた。ろうかのやみのなかに、なにかを)
このバイトを引き受けたことを後悔していた。廊下の闇の中に、なにかを
(ささやきあうようなけはいのざんさいがただよっているようなきがする。)
囁きあうような気配の残滓が漂っているような気がする。
(それからどれくらいたったのか。)
それからどれくらい経ったのか。
(ふいにせいじゃくをきりさくようなでんわのべるがなった。しんぞうにわるいおとだった。)
ふいに静寂を切り裂くような電話のベルが鳴った。心臓に悪い音だった。
(でも、いきているにんげんがわのおとだという、そんないみふめいのかくしんに)
でも、生きている人間側の音だという、そんな意味不明の確信に
(すがりつくようにじゅわきをとった。「もしもし」)
すがりつくように受話器をとった。「もしもし」
(「よかったー。まだいた。ねえ、そこにまるまるさんのかるてない?」)
「よかったー。まだいた。ねえ、そこに○○さんのカルテない?」
(ききおぼえのあるこえがした。すてーしょんのなーすのひとりだった。)
聞き覚えのある声がした。ステーションのナースの一人だった。
(「すっごくわるいんだけど、いままるまるさんのいえかられんらくがあって、)
「すっごく悪いんだけど、今○○さんの家から連絡があって、
(きとくらしいから、ほんとわるいんだけどいますぐかるてもって)
危篤らしいから、ほんと悪いんだけど今すぐカルテ持って
(まるまるさんのいえにきてくれない?わたしもすぐいくけど、そっちよってたら)
○○さんの家に来てくれない?私もすぐ行くけど、そっち寄ってたら
(じかんかかりそうだから」おれは「はい」といって、すぐにかるてをもって)
時間かかりそうだから」俺は「はい」と言って、すぐにカルテを持って
(かけだした。どあをあけて、ろうかをぬけて、かいだんをおりて、)
駆け出した。ドアを開けて、廊下を抜けて、階段を降りて、
(れいあんしつのまえをとおって、なまあたたかいよかぜのふくそらのしたへとびだした。)
霊安室の前を通って、生暖かい夜風の吹く空の下へ飛び出した。
(しょせんはりんじのじむしょくだ。でもそのひ、ひとのいのちにかかわるしごとをしたという)
所詮は臨時の事務職だ。でもその日、人の命に関わる仕事をしたという
(たしかなかんしょくがあった。うつうつと、したをむいてばかりでなくてよかった。)
確かな感触があった。鬱々と、下を向いてばかりでなくてよかった。
(ひとのしを、きょうみほんいでかたるばかりじゃなくてよかった。)
人の死を、興味本位で語るばかりじゃなくてよかった。
(こんな、よるのきんきゅうほうもんはよくあることらしい。)
こんな、夜の緊急訪問はよくあることらしい。
(でもおれにとって、とくべつないみがあるきがした。)
でも俺にとって、特別な意味がある気がした。
(だから、かるてをとどけたあとまたじむしょにかえってれせぷとせいきゅうをすべて)
だから、カルテを届けたあとまた事務所に帰ってレセプト請求をすべて
(かんせいさせるのに、ぜんせいりょくをかたむけられたのだろう。)
完成させるのに、全精力を傾けられたのだろう。
(つぎのひ、あまりねてないまぶたをこすりながらしゅっきんすると、)
次の日、あまり寝てない瞼をこすりながら出勤すると、
(しょちょうが「おつかれさま。きのうはたいへんだったわね」とはなしかけてきた。)
所長が「お疲れ様。昨日は大変だったわね」と話かけて来た。
(おれは、「いえ、このくらい」とこたえたが、しょちょうはくびをふって)
俺は、「いえ、このくらい」と答えたが、所長は首を振って
(「やっぱりあなたにはむいてないしょくばかもね」とやさしいこえでいうのだった。)
「やっぱりあなたには向いてない職場かもね」と優しい声で言うのだった。
(おれはそのあと、にしゅうかんくらいでそのばいとをとめた。いいけいけんに)
俺はそのあと、2週間くらいでそのバイトを止めた。いい経験に
(なったとはおもう。でも、ひとのしをあれほどうけとめなければならないしょくばは、)
なったとは思う。でも、人の死をあれほど受け止めなければならない職場は、
(やはりおれにはむいてないのだろう。)
やはり俺には向いてないのだろう。
(おれがあのよる、かるてをとどけたひとはそのひのあさになくなった。)
俺があの夜、カルテを届けた人はその日の朝に亡くなった。
(そしてそのしをみとったなーすは、すぐにつぎのほうもんさきへむかった。)
そしてその死を看取ったナースは、すぐに次の訪問先へ向かった。
(また、そのかたにししゃのいちぶをのこしたままで。)
また、その肩に死者の一部を残したままで。