人形-4-
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問題文
(ぞくぞくしはじめた。みがわりにんぎょうだったのだ。)
ゾクゾクしはじめた。身代わり人形だったのだ。
(「けがれ」のかぶりやくとしての。おそらく、しゃしんやはおなじにんぎょうをつかいつづけただろう。)
「穢れ」の被り役としての。恐らく、写真屋は同じ人形を使い続けただろう。
(そのころ、しゃしんをとるようなきゃくはじょうりゅうかいきゅうにぞくしているものばかりのはずだ。)
その頃、写真を撮るような客は上流階級に属している者ばかりのはずだ。
(そんなきゃくに、つかいすてのやすっぽいにんぎょうをもたせるわけにもいくまい。)
そんな客に、使い捨ての安っぽい人形を持たせる訳にもいくまい。
(つまり、こういう、じょうしつないちまつにんぎょうのようなものが、)
つまり、こういう、上質な市松人形のようなものが、
(ずっとそのやくめをおいつづけるのだ。)
ずっとその役目を負い続けるのだ。
(いしをもたないものに、あくいをかぶせつづける・・・・・・そのいめーじにおれはぞっとした。)
意思を持たないものに、悪意を被せ続ける……そのイメージに俺はぞっとした。
(なんねんなんじゅうねんというじかんのなかでけがれは、あくいはしゅうせきし、)
何年何十年という時間の中で穢れは、悪意は集積し、
(このにんぎょうのうちにおだくのようにたまっていく。)
この人形の内に汚濁のように溜まっていく。
(そして・・・・・・しーんとしずまるいえのなかが、やけにさむくかんじられた。)
そして……シーンと静まる家の中が、やけに寒く感じられた。
(「ちょっと、なんでそういうこというのよ」)
「ちょっと、なんでそういうこと言うのよ」
(れいこさんのくちからするどくとがったことばがたばしった。)
礼子さんの口から鋭く尖った言葉が迸った。
(「このこはわたしのひいひいおばあちゃんのたいせつなにんぎょうよ。)
「この子は私のひいひいおばあちゃんの大切な人形よ。
(そんなどうぐなんかじゃない。だってずっとだいじにされて)
そんな道具なんかじゃない。だってずっと大事にされて
(いまのわたしにまでうけつがれたんだから。みればわかるわ」)
今の私にまで受け継がれたんだから。見ればわかるわ」
(そうまくしたててれいこさんはすごいいきおいでへやのでぐちへむかった。)
そう捲くし立てて礼子さんは凄い勢いで部屋の出口へ向かった。
(あぜんとしてみおくるしかないおれのよこで、ししょうはさけんだ。)
唖然として見送るしかない俺の横で、師匠は叫んだ。
(「そんなものがじつざいすればね」)
「そんなものが実在すればね」
(いっしゅん、れいこさんのあたまががくんとゆれたきがしたが、)
一瞬、礼子さんの頭がガクンと揺れた気がしたが、
(かのじょはそのままへやをとびだしていった。)
彼女はそのまま部屋を飛び出していった。
(「どういうこと?」とみかっちさんがいぶかしそうにまゆをよせる。)
「どういうこと?」とみかっちさんが訝しそうに眉を寄せる。
(「まあみてな」ししょうはよゆうのひょうじょうでかわばりのそふぁにふかくからだをしずめた。)
「まあ見てな」師匠は余裕の表情で革張りのソファに深く体を沈めた。
(おれはしゃしんにもういちどめをおとし、にんぎょうをよくかんさつする。)
俺は写真にもう一度目を落とし、人形を良く観察する。
(いろこそついていないが、やはりあのえとまったくおなじにんぎょうのようだ。)
色こそついていないが、やはりあの絵と全く同じ人形のようだ。
(かみがたやひょうじょう、おびやきもののえもおなじにみえる。)
髪型や表情、帯や着物の柄も同じに見える。
(ししょうはこのしゃしんからなにかわかったのだろうか。)
師匠はこの写真からなにかわかったのだろうか。
(やがてしずまりかえっていたいえのなかに、じょせいのひめいがひびきわたった。)
やがて静まり返っていた家の中に、女性の悲鳴が響き渡った。
(ぜんいんこしをあげ、きゃくまをでる。すりっぱのおとがばらばらとゆかをたたいた。)
全員腰を上げ、客間を出る。スリッパの音がバラバラと床を叩いた。
(みかっちさんがせんどうしていっかいのおくのへやへあしをふみいれると、)
みかっちさんが先導して1階の奥の部屋へ足を踏み入れると、
(ひろびろとしたわしつにれいこさんのうしろすがたがみえた。)
広々とした和室に礼子さんの後姿が見えた。
(「いないのよ。あのこが」かがみこみ、とりみだしたこえでたたみをつめでひっかいている。)
「いないのよ。あの子が」屈み込み、取り乱した声で畳を爪で引っ掻いている。
(わだんすなどふるいちょうどひんがならぶなか、おくにとこわきだながあり、)
和箪笥など古い調度品が並ぶ中、奥に床脇棚があり、
(そのうえにからのがらすけーすがおかれていた。がらすけーすのなかには)
その上に空のガラスケースが置かれていた。ガラスケースの中には
(うすむらさきいろのざぶとんのようなだいざだけがぽつんとのこされていて、)
薄紫色の座布団のような台座だけがぽつんと残されていて、
(ちょうどあのにんぎょうがおさまるおおきさのようにおもえた。)
丁度あの人形が納まる大きさのように思えた。
(「だれなの。どこへやったの」とうめくようにくりかえしているれいこさんに、)
「誰なの。どこへやったの」と呻く様に繰り返している礼子さんに、
(みかっちさんがかけより「おちついて」とせなかをさする。)
みかっちさんが駆け寄り「落ち着いて」と背中をさする。
(つぎのしゅんかん、ばん、というおおきなおとがしてよこをみると、)
次の瞬間、バン、という大きな音がして横を見ると、
(ししょうがうしろででかべをたたいたかっこうのままけわしいかおつきでじょせいふたりをにらんでいる。)
師匠が後ろ手で壁を叩いた格好のまま険しい顔つきで女性二人を睨んでいる。
(「おちつくのは、きみもだ」そういいながらとこわきだなにちかづき、)
「落ち着くのは、キミもだ」そう言いながら床脇棚に近づき、
(がらすけーすをもちあげる。だいざをさわり、そのゆびをふたりにみせつけた。)
ガラスケースを持ち上げる。台座を触り、その指を二人に見せ付けた。
(「このほこりは、すくなくともなんねんかここににんぎょうなんか)
「この埃は、少なくとも何年かここに人形なんか
(おかれていなかったことのあかしだ。あのえをみたときからおかしいとおもっていたが、)
置かれていなかったことの証だ。あの絵を見た時からおかしいと思っていたが、
(しゃしんをみてかくしんした。にんぎょうなんかこのいえにはないじゃないかと」)
写真を見て確信した。人形なんかこの家にはないじゃないかと」
(れいこさんがおびえたようなかおで、あたまをかかえる。)
礼子さんが怯えたような顔で、頭を抱える。
(みかっちさんもめのしょうてんがあっていない。)
みかっちさんも目の焦点が合っていない。
(「せんじつのおんせんりょこう、そのにんぎょうがばっぐからでてくるところをみたのは)
「先日の温泉旅行、その人形がバッグから出てくるところを見たのは
(かのじょのほかにきみだけだ。それはほんとうにあのにんぎょうだったのか?」)
彼女の他にキミだけだ。それは本当にあの人形だったのか?」
(ししょうのきつもんに、みかっちさんはうろたえて「え、だって」とくちごもった。)
師匠の詰問に、みかっちさんはうろたえて「え、だって」と口ごもった。
(そして「あれ?あれ?」とりょうてでじぶんのあたまをはさむようにくりかえす。)
そして「あれ? あれ?」と両手で自分の頭を挟むように繰り返す。
(「にんぎょうをえにかいたといったが、ぐたいてきにどこでどうやってえがいたか、)
「人形を絵に描いたと言ったが、具体的にどこでどうやって描いたか、
(いませつめいできるか」「え?うそ?あれ?」)
今説明できるか」「え? うそ? あれ?」
(みかっちさんはいまにもくずれおちそうにこきざみにふるえながら、)
みかっちさんは今にも崩れ落ちそうに小刻みに震えながら、
(なにもこたえられなかった。)
なにも答えられなかった。
(「あのしゃしんもってきて」とのししょうのみみうちにすかさずしたがい、)
「あの写真持ってきて」との師匠の耳打ちにすかさず従い、
(ほどなくおれはさんにんのまえにしゃしんをかかげた。「ぼくはそのにんぎょうをえがいたという)
ほどなく俺は3人の前に写真を掲げた。「僕はその人形を描いたという
(えのきもののえりもとをみておかしいとおもった。)
絵の着物の襟元を見ておかしいと思った。
(それはあわせかたがつうじょうとぎゃくのひだりまえになっていたからだ」)
それは合せ方が通常と逆の左前になっていたからだ」
(ししょうはようふくとはちがい、わふくはだんじょともにみぎまえであわせるのがでんとうだとかたった。)
師匠は洋服とは違い、和服は男女ともに右前で合せるのが伝統だと語った。
(「これにたいし、しんだもののしにしょうぞくはひだりまえでととのえられえる。)
「これに対し、死んだ者の死装束は左前で整えられえる。
(きたまくらなどとおなじくそうぎのさいのふるまいを”はれ”とぎゃくにすることで)
北枕などと同じく葬儀の際の振る舞いを”ハレ”と逆にすることで
(しのいみをにちじょうからとおざけていたんだ。だからこどものあそびどうぐであり、)
死の忌みを日常から遠ざけていたんだ。だから子どもの遊び道具であり、
(さいほうのれんしゅうだいであった、いわばにちじょうにぞくするいちまつにんぎょうが)
裁縫の練習台であった、いわば日常に属する市松人形が
(ひだりまえであってはおかしい」)
左前であってはおかしい」
(こんなことはせつめいするまでもなかったか、とつぶやいてからししょうは)
こんなことは説明するまでもなかったか、と呟いてから師匠は
(みかっちさんのほうをむいた。「もでるをみてえがいたのであれば、)
みかっちさんの方を向いた。「モデルを見て描いたのであれば、
(こんなまちがいはおかさないはずだ。えのぎほうじょうのいとてきなものでないかぎり、)
こんな間違いは犯さないはずだ。絵の技法上の意図的なものでない限り、
(かのじょはそのにんぎょうをみていないんじゃないかとそのときすこしふしんにおもった」)
彼女はその人形を見ていないんじゃないかとその時少し不審に思った」
(そしてしゃしんをゆびさす。)
そして写真を指さす。
(「そこででてきたのがこのぎんばんしゃしんだ。ぎんばんしゃしんはめいじのししの)
「そこで出てきたのがこの銀板写真だ。銀板写真は明治の志士の
(しゃしんなどでしられるしつばんしゃしんやそのあとのかんぱんしゃしんとおおきくことなるせいかくを)
写真などで知られる湿板写真やその後の乾板写真と大きく異なる性格を
(もっている。それはひしゃたいをさゆうぎゃくにうつしこむというぎじゅつてきせいしつだ」)
持っている。それは被写体を左右逆に写し込むという技術的性質だ」
(え?とおれはおどろいてしゃしんをみた。)
え? と俺は驚いて写真を見た。
(もじのるいはしゃしんにうつっていないので、さゆうがぎゃくであるかどうかは)
文字の類は写真に写っていないので、左右が逆であるかどうかは
(とっさにはんだんがつかない。)
咄嗟に判断がつかない。
(そうだ。きもののえりだ。ときづいてからもういちどさんにんのじょせいのえりもとをよくみた。)
そうだ。着物の襟だ。と気づいてからもう一度3人の女性の襟元をよく見た。
(ほんにんからみてひだりがわのえりがうえになっている。「ほんとだ。ひだりまえになってます」)
本人から見て左側の襟が上になっている。「ホントだ。左前になってます」
(というと、ししょうにはなしのこしをおるなといわんばかりに)
と言うと、師匠に話の腰を折るなと言わんばかりに
(「ばか、ひだりまえってのはほんにんからみてみぎがわのえりがうえにくることだ」)
「バカ、左前ってのは本人から見て右側の襟が上に来ることだ」
(とためいきをつかれた。)
と溜め息をつかれた。
(あれ?じゃあしゃしんのじょせいはみぎまえなわけで、ただしいきかたをしていることになる。)
あれ? じゃあ写真の女性は右前なわけで、正しい着方をしていることになる。
(さゆうぎゃくにうつっていないじゃないか。)
左右逆に写っていないじゃないか。