怪物 「結」下-6-
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問題文
(とおまきにそれをながめることしかできないわたしたちがうごきをとめているそのまえで、)
遠巻きにそれを眺めることしか出来ない私たちが動きを止めているその前で、
(じょじょにいぬのたてるものおとがちいさくなり、やがてしめりけのあるこきゅうおんだけになる。)
徐々に犬の立てる物音が小さくなり、やがて湿り気のある呼吸音だけになる。
(くうふくをおさめることができたのか、いぬははじめとはまったくちがうかんまんなうごきで)
空腹を収めることが出来たのか、犬は始めとは全く違う緩慢な動きで
(したをはわせ、くちのまわりをなめはじめる。みえたわけではない。)
舌を這わせ、口の周りを舐め始める。見えた訳ではない。
(いぬはむこうをむいたままだ。ただそういういめーじをいだかせるおとが)
犬は向こうを向いたままだ。ただそういうイメージを抱かせる音が
(ぴちゃぴちゃときこえている。そしてひとしきりにくしょくのよいんをあじわったあと、)
ピチャピチャと聞こえている。そしてひとしきり肉食の余韻を味わった後、
(いぬはいっせいないてきのみきをまわりこむようにしてやみにきえていった。)
犬は一声鳴いて木の幹を回り込むようにして闇に消えていった。
(そのさいごにないたこえはきみのわるいこわいろで、)
その最後に鳴いた声は気味の悪い声色で、
(みみにこびりついたようにいつまでもはなれない。)
耳にこびり付いたようにいつまでも離れない。
(かわいそうに。と、わたしのみみにはたしかにそうきこえた。)
かわいそうに。と、私の耳には確かにそう聞こえた。
(いぬのかげがみえなくなるとじゅうたくがいのなかのりょくちはしずけさをとりもどす。)
犬の影が見えなくなると住宅街の中の緑地は静けさを取り戻す。
(「なんだったの」おばさんがしょうじょのてをとったままこえをしぼりだし、)
「なんだったの」おばさんが少女の手を取ったまま声を絞り出し、
(めがねのおとこがおそるおそるきのねもとにちかづいていく。)
眼鏡の男が恐る恐る木の根元に近づいていく。
(「くわれてる」そんなことばにわたしもくびをのばすが、そこにはくろいちのしみと)
「喰われてる」そんな言葉に私も首を伸ばすが、そこには黒い血の染みと
(ちらばったうもうしかのこってはいなかった。)
散らばった羽毛しか残ってはいなかった。
(「きけい、だったのか?」じもんするようにめがねのおとこがくちばしる。)
「畸形、だったのか?」自問するように眼鏡の男が口走る。
(それをうけて、きゃっぷおんなが「なわけないだろ」とあざける。)
それを受けて、キャップ女が「なわけないだろ」と嘲る。
(わたしもそうおもう。きけいだろうがなんだろうが、しぜんかいがあんなぼうとくてきなそんざいを)
私もそう思う。畸形だろうがなんだろうが、自然界があんな冒涜的な存在を
(ゆるすとはおもえなかった。ならば・・・・・・)
許すとは思えなかった。ならば……
(「げんかく?」わたしのことばにぜんいんのしせんがあつまる。)
「幻覚?」私の言葉に全員の視線が集まる。
(「でも、みんなおなじものをみたんだろ。その・・・・・・くだんみたいなやつを」)
「でも、みんな同じものを見たんだろ。その……くだんみたいなやつを」
(「ちょっとまて。あんただけうしをみたのかよ」きゃっぷおんながつっかかる。)
「ちょっと待て。あんただけ牛を見たのかよ」キャップ女が突っかかる。
(「ち、ちがう。じゃあなんていうんだよ、ああいうにんげんのかおしたやつを」)
「ち、違う。じゃあなんて言うんだよ、ああいう人間の顔したやつを」
(「そういえば、じんめんけんってのがむかしいたねぇ」)
「そう言えば、人面犬ってのが昔いたねぇ」
(とおばさんがすこしずれたことをいう。)
とおばさんが少しずれたことを言う。
(「くだんなら、よげんをするんだろ。せんそうとか、えきびょうとかを」)
「くだんなら、予言をするんだろ。戦争とか、疫病とかを」
(きゃっぷおんながりょうてをひろげてみせる。「いってたじゃないか」)
キャップ女が両手を広げてみせる。「言ってたじゃないか」
(「かわいそうに、がよげんか?。いったいだれがかわいそうだっていうんだ」)
「かわいそうに、が予言か?。いったい誰がかわいそうだっていうんだ」
(そのことばに、いったほんにんもふくめ、ぜんいんがきんちょうするのがわかった。)
その言葉に、言った本人も含め、全員が緊張するのが分かった。
(ざわざわとはがゆれる。そうだ。かわいそうなのは、だれだ?)
ざわざわと葉が揺れる。そうだ。かわいそうなのは、誰だ?
(のうりに、なんどもゆめでみたこうけいがあっしゅくされてはやまわしのようにさいせいされる。)
脳裏に、何度も夢で見た光景が圧縮されて早回しのように再生される。
(このばしょにきたりゆうをわすれるところだった。とっさにそらをみる。)
この場所に来た理由を忘れるところだった。とっさに空を見る。
(つきは、くもにかくれることもなくかがやいている。)
月は、雲に隠れることもなく輝いている。
(つきのいち。そしていちばんせのたかいびるのいち。ちかい。とおもう。)
月の位置。そして一番背の高いビルの位置。近い。と思う。
(「つきはどっちからどっちへうごく?」とめがねのおとこがしゅういになげかける。)
「月はどっちからどっちへ動く?」と眼鏡の男が周囲に投げ掛ける。
(「たいようとおなじだろ。あっちからこっちだ」ときゃっぷおんながゆびであーちをつくる。)
「太陽と同じだろ。あっちからこっちだ」とキャップ女が指でアーチを作る。
(「あ、でもいちじかんになんどうごくんだっけ?わすれたな。あんた、げんえきだろ?」)
「あ、でも1時間に何度動くんだっけ? 忘れたな。あんた、現役だろ?」
(いきなりふられてどうようしたが、「たぶん、15ど」とこたえる。)
いきなり振られて動揺したが、「たぶん、15度」と答える。
(「いちじかん、ちょいすぎくらいか、いま」)
「1時間、ちょい過ぎくらいか、今」
(そういいながらめがねのおとこがゆびでわっかをつくってつきをのぞきこむ。)
そう言いながら眼鏡の男が指で輪ッかを作って月を覗き込む。
(「15どって、どんくらいだ」)
「15度って、どんくらいだ」
(わっかをめにあてたままつぶやくが、だれもへんじをしなかった。)
輪ッかを目に当てたまま呟くが、誰も返事をしなかった。
(「でもたぶん、ちかいわね」とおばさんがしんけんなひょうじょうでいう。)
「でもたぶん、近いわね」とおばさんが真剣な表情で言う。
(「てわけして、しらみつぶしにさがすか」めがねのおとこのていあんに、)
「手分けして、虱潰しに探すか」眼鏡の男の提案に、
(さんどうのこえはあがらなかった。)
賛同の声は上がらなかった。
(やがて「こんなじかんにいっぱんじんをたたきおこしてまわったら、けいさつよばれるな」)
やがて「こんな時間に一般人を叩き起こして回ったら、警察呼ばれるな」
(とじこかいけつしたようにためいきをつく。)
と自己解決したように溜息をつく。
(しばしきぶんてきにもくうかんてきにもていたいのじかんがおとずれた。)
暫し気分的にも空間的にも停滞の時間が訪れた。
(きゃっぷおんなとおばさんが、こごえでなにかをはなしあっている。)
キャップ女とおばさんが、小声でなにかを話し合っている。
(めがねのおとこはぶつぶつとひとりごとをいっていたが、きのみきにかくれるように)
眼鏡の男はぶつぶつと独りごとを言っていたが、木の幹に隠れるように
(よりそっていたあおいめのしょうじょにむかって「おまえもなんかいえよ」と)
寄り添っていた青い眼の少女に向かって「おまえもなんか言えよ」と
(なげかけた。しょうじょは、みがまえたようにじっとしたまままぶたをぱちぱちとしている。)
投げ掛けた。少女は、身構えたようにじっとしたまま瞼をぱちぱちとしている。
(わたしはさっきのふらっしゅばっくにひっかかるものをかんじて)
私はさっきのフラッシュバックに引っ掛かるものを感じて
(もういちどゆめのこうけいをおもいだそうとする。)
もう一度夢の光景を思い出そうとする。
(それはささいなことのようで、またどうじにとてもじゅうようないみを)
それは些細なことのようで、また同時にとても重要な意味を
(もっているようなきがする。どこだ?ゆらめくきおくのうみにかおをつける。)
持っているような気がする。どこだ? 揺らめく記憶の海に顔を漬ける。
(はもののかんしょく?ちがう。ろっくがはずれるおと。ちぇーんをはずすためのせのび。)
刃物の感触? 違う。ロックが外れる音。チェーンを外すための背伸び。
(たたかれるどあ。ちがう。まだ、そのまえだ。あしおと。そのあしおとを、)
叩かれるドア。違う。まだ、その前だ。足音。その足音を、
(ははおやのものだとしっている。あしおとは、したからのぼってくる・・・・・・)
母親のものだと知っている。足音は、下から登ってくる……
(はっとかおをあげた。たしかに、あしおとはしたのほうからきこえてきた。)
ハッと顔を上げた。確かに、足音は下の方から聞こえて来た。
(なぜそれをもっとふかくかんがえなかったのか。)
何故それをもっと深く考えなかったのか。
(にかいいじょうだ。にかいいじょうのばしょにげんかんがあるということは、しゅうごうじゅうたく。)
2階以上だ。2階以上の場所に玄関があるということは、集合住宅。
(まんしょんか、あぱーとか。)
マンションか、アパートか。
(わたしはよるのなかへかけだした。ほかのひとたちのおどろいたかおをせなかにのこして。)
私は夜の中へ駆け出した。他の人たちの驚いた顔を背中に残して。
(かんがえろ。ふらっとなばしょのあしおとではない。のぼってくるおとだった。)
考えろ。フラットな場所の足音ではない。登ってくる音だった。
(まんしょんなら、へやのなかからつうろのはしのかいだんをのぼってくるあしおとが)
マンションなら、部屋の中から通路の端の階段を登ってくる足音が
(きこえるだろうか。はしべやなら、かのうせいはある。)
聞こえるだろうか。端部屋なら、可能性はある。
(でも、たとえば、かいだんがへやのげんかんのすぐまえにはいちされているような)
でも、例えば、階段が部屋の玄関のすぐ前に配置されているような
(あぱーとなら、もっと・・・・・・わたしのしせんのさきに、それはあらわれた。)
アパートなら、もっと……私の視線の先に、それは現れた。
(ひかくてきふるいいえがならんでいるいっかくに、もくぞうのちいさなにかいだてのあぱーとが)
比較的古い家が並んでいる一角に、木造の小さな2階建てのアパートが
(ひっそりとたたずんでいる。いっかいにさんへや、にかいにもさんへや。)
ひっそりと佇んでいる。1階に3部屋、2階にも3部屋。
(げんかんがわがみちにめんしている。ささやかなてすりのむこうにどあがむっつ、)
玄関側が道に面している。ささやかな手すりの向こうにドアが6つ、
(へいめんにならんでみえる。いっかいからにかいへあがるかいだんは、いっかいのみぎはしのどあのまえから)
平面に並んで見える。1階から2階へ上がる階段は、1階の右端のドアの前から
(にかいのひだりはしのどあのまえへのびている。あかいさびがういたやすっぽいてっせいのかいだんだ。)
2階の左端のドアの前へ伸びている。赤い錆が浮いた安っぽい鉄製の階段だ。
(のぼれば、かん、かん、とさぞそうぞうしいおとをたてることだろう。)
登れば、カン、カン、とさぞ騒々しい音を立てることだろう。
(たちつくすわたしに、ようやくほかのひとたちがおいついてきた。)
立ち尽くす私に、ようやく他の人たちが追いついて来た。
(「なんなのよ」「まて、そうか、あしおとか」「このあぱーとがそうなのか」)
「なんなのよ」「待て、そうか、足音か」「このアパートがそうなのか」
(「・・・・・・」あぱーとにしきちにはいりこみ、かいだんのそばについた)
「……」アパートに敷地に入り込み、階段のそばについた
(きいろいでんとうのあかりをたよりに、ちゅうりんじょうのそばのゆうびんうけをのぞきこむ。)
黄色い電灯の明かりを頼りに、駐輪場のそばの郵便受けを覗き込む。