谷崎潤一郎 痴人の愛 26

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投稿者投稿者神楽@社長推しいいね1お気に入り登録
プレイ回数480難易度(5.0) 5258打 長文
谷崎潤一郎の中編小説です
私のお気に入りです
順位 名前 スコア 称号 打鍵/秒 正誤率 時間(秒) 打鍵数 ミス 問題 日付
1 布ちゃん 5531 A 5.7 96.0% 909.6 5247 216 100 2024/11/19

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問題文

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(「ふん、あのおんなはよっぽどばかだよ、すこしちのめぐりがわるいんじゃないかね」)

「ふん、あの女はよっぽど馬鹿だよ、少し血の循りが悪いんじゃないかね」

(やがてはちばんめのわん・すてっぷがはじまって、くまがいときくこがおどりばのほうへ)

やがて八番目のワン・ステップが始まって、熊谷と菊子が踊り場の方へ

(いってしまうと、なおみはきらこのいるまえをもはばからず、くちぎたないちょうしで)

行ってしまうと、ナオミは綺羅子の居る前をも憚らず、口汚い調子で

(いうのでした。)

云うのでした。

(「ねえ、きらこさん、あなたそうおおもいにならなかった?」)

「ねえ、綺羅子さん、あなたそうお思いにならなかった?」

(「まあ、なんでございますか、・・・・・・・・・」)

「まあ、何でございますか、・・・・・・・・・」

(「いいえ、あのかたがさるみたいなかんじがするでしょ、だからあたし、わざと)

「いいえ、あの方が猿みたいな感じがするでしょ、だからあたし、わざと

(さるさるっていってやったんですよ」)

猿々ッて云ってやったんですよ」

(「まあ」)

「まあ」

(「みんながあんなにわらっているのに、きがつかないなんてよっぽどばかだわ」)

「みんながあんなに笑っているのに、気が付かないなんてよっぽど馬鹿だわ」

(きらこはなかばあきれたように、なかばさげすむようなめつきでなおみのかおを)

綺羅子は半ば呆れたように、半ば蔑むような眼つきでナオミの顔を

(ぬすみみながら、どこまでも「まあ」のいってんばりでした。)

偸み視ながら、何処までも「まあ」の一点張りでした。

(「さあ、じょうじさん、わん・すてっぷよ。おどってあげるからいらっしゃい」)

十一 「さあ、譲治さん、ワン・ステップよ。踊って上げるからいらっしゃい」

(と、それからわたしはなおみにいわれて、やっとかのじょとだんすをするこうえいを)

と、それから私はナオミに云われて、やっと彼女とダンスをする光栄を

(ゆうしました。)

有しました。

(わたしにしたって、きまりがわるいとはいうものの、ひごろのけいこをじっちにためすのは)

私にしたって、きまりが悪いとは云うものの、日頃の稽古を実地に試すのは

(このさいでもあり、ことにあいてがかわいいなおみであってみれば、けっしてうれしくない)

この際でもあり、殊に相手が可愛いナオミであってみれば、決して嬉しくない

(ことはありません。よしんばものわらいのたねになるほどへたくそだったとした)

ことはありません。よしんば物笑いの種になるほど下手糞だったとした

(ところで、そのへたくそはかえってなおみをひきたてることになるのですから、むしろ)

ところで、その下手糞は却ってナオミを引き立てることになるのですから、寧ろ

(わたしはほんもうなのです。それからまた、わたしにはみょうなきょえいしんもありました。というのは、)

私は本望なのです。それから又、私には妙な虚栄心もありました。と云うのは、

など

(「あれがあのおんなのていしゅだとみえる」と、ひょうばんされてみたいことです。)

「あれがあの女の亭主だと見える」と、評判されて見たいことです。

(いいかえれば「このおんなはおれのものだぞ。どうだ、ちょっとおれのたからものをみてくれ」と)

云いかえれば「この女は己の物だぞ。どうだ、ちょっと己の宝物を見てくれ」と

(おおいにじまんしてやりたいことです。それをおもうとわたしははれがましいとどうじに、)

大いに自慢してやりたいことです。それを思うと私は晴れがましいと同時に、

(ひどくつうかいなきがしました。かのじょのためにきょうまではらったぎせいとくろうとが、)

ひどく痛快な気がしました。彼女のために今日まで払った犠牲と苦労とが、

(いちどにむくいられたようなここちがしました。)

一度に報いられたような心地がしました。

(どうもさっきからのかのじょのようすでは、こんやはおれとおどりたくないのだろう。おれが)

どうもさっきからの彼女の様子では、今夜は己と踊りたくないのだろう。己が

(もうすこしうまくなるまではいやなのだろう。いやならいやで、おれもそれまではたって)

もう少し巧くなるまでは厭なのだろう。厭なら厭で、己もそれまではたって

(おどろうとはいわない。と、もういいかげんあきらめていたところへ、「おどって)

踊ろうとは云わない。と、もう好い加減あきらめていたところへ、「踊って

(あげよう」ときたのですから、そのひとこえはどんなにわたしをよろこばせたか)

上げよう」と来たのですから、その一と声はどんなに私を喜ばせたか

(しれません。)

知れません。

(で、ねつびょうやみのようにこうふんしながら、なおみのてをとってさいしょの)

で、熱病やみのように興奮しながら、ナオミの手を執って最初の

(わん・すてっぷをふみだしたまではおぼえていますが、それからさきはむちゅうでした。)

ワン・ステップを蹈み出したまでは覚えていますが、それから先は夢中でした。

(そしてむちゅうになればなるほど、おんがくもなにもきこえなくなって、あしどりは)

そして夢中になればなるほど、音楽も何も聞えなくなって、足取りは

(めちゃくちゃになる、めはちらちらする、どうきははげしくなる、よしむらがっきてんのにかいで、)

滅茶苦茶になる、眼はちらちらする、動機は激しくなる、吉村楽器店の二階で、

(ちくおんきのれこーどでやるのとはがらりとかってがちがってしまって、このひとなみの)

蓄音機のレコードでやるのとはガラリと勝手が違ってしまって、この人波の

(たいかいのなかへこぎだしてみると、ひこうにもすすもうにも、さっぱり)

大海の中へ漕ぎ出してみると、退こうにも進もうにも、さっぱり

(けんとうがつきません。)

見当がつきません。

(「じょうじさん、なにをぶるぶるふるえているのよ、しっかりしないじゃ)

「譲治さん、何をブルブル顫えているのよ、シッカリしないじゃ

(だめじゃないの!」)

駄目じゃないの!」

(と、そこへもってきてなおみはしじゅうみみもとでこごとをいいます。)

と、そこへ持って来てナオミは始終耳元で叱言を云います。

(「ほら、ほらまたすべった!そんなにいそいでまわるからよ!もっとしずかに!)

「ほら、ほら又すべった!そんなに急いで廻るからよ!もっと静かに!

(しずかにったら!」)

静かにッたら!」

(が、そういわれるとわたしはいっそうのぼせあがります。おまけにそのゆかはとくにこんやの)

が、そう云われると私は一層のぼせ上ります。おまけにその床は特に今夜の

(だんすのために、うんとすべりをよくしてあるので、あのけいこばのつもりでうっかり)

ダンスのために、うんと滑りをよくしてあるので、あの稽古場の積りでうっかり

(していると、たちまちつるりとくるのです。)

していると、忽ちつるりと来るのです。

(「それそれ!かたをあげちゃいけないってば!もっとこのかたをさげて!さげて!」)

「それそれ!肩を上げちゃいけないッてば!もっとこの肩を下げて!下げて!」

(そういってなおみは、わたしがいっしょうけんめいににぎっているてをふりもぎって、ときどき)

そう云ってナオミは、私が一生懸命に握っている手を振りもぎって、ときどき

(ぐいと、じゃけんにかたをおさえつけます。)

グイと、邪慳に肩を抑えつけます。

(「ちょっ、そんなにぎゅっとてをにぎっててどうするのよ!まるであたしに)

「チョッ、そんなにぎゅッと手を握っててどうするのよ!まるであたしに

(しがみついてちゃ、こっちがきゅうくつでしようがないわよ!・・・・・・・・・そら、)

しがみ着いてちゃ、此方が窮屈で仕様がないわよ!・・・・・・・・・そら、

(そらまたかたが!」)

そら又肩が!」

(これではなにのことはない、まったくかのじょにどなられるためにおどっているようなもの)

これでは何の事はない、全く彼女に怒鳴られるために踊っている様なもの

(でしたが、そのがみがみいうことばさえがわたしのみみにははいらないくらいでした。)

でしたが、そのガミガミ云う言葉さえが私の耳には這入らないくらいでした。

(「じょうじさん、あたしもうやめるわ」)

「譲治さん、あたしもう止めるわ」

(と、そのうちになおみははらをたてて、まだひとびとはさかんにあんこーるをあびせて)

と、そのうちにナオミは腹を立てて、まだ人々は盛んにアンコールを浴びせて

(いるのに、どんどんわたしをおきざりにしてせきへもどってしまいました。)

いるのに、どんどん私を置き去りにして席へ戻ってしまいました。

(「ああ、おどろいた。まだまだとてもじょうじさんとはおどれやしないわ、すこしうちで)

「ああ、驚いた。まだまだとても譲治さんとは踊れやしないわ、少し内で

(けいこなさいよ」)

稽古なさいよ」

(はまだときらこがやってくる、くまがいがくる、きくこがくる、てーぶるのしゅういはふたたび)

浜田と綺羅子がやって来る、熊谷が来る、菊子が来る、テーブルの周囲は再び

(にぎやかになりましたが、わたしはすっかりげんめつのひあいにひたって、だまってなおみの)

賑やかになりましたが、私はすっかり幻滅の悲哀に浸って、黙ってナオミの

(ちょうろうのまとになるばかりでした。)

嘲弄の的になるばかりでした。

(「あははは、おまえのようにいったひにゃあ、きのよええものはなおさらおどれやしねえじゃ)

「あははは、お前のように云った日にゃあ、気の弱え者は尚更踊れやしねえじゃ

(ねえか。まあそういわずにおどってやんなよ」)

ねえか。まあそう云わずに踊ってやんなよ」

(わたしはこの、くまがいのことばがまたしゃくにさわりました。「おどってやんな」とはなんという)

私はこの、熊谷の言葉が又癪に触りました。「踊ってやんな」とは何と云う

(いいぐさだ。おれをなんだとおもっているのだ?このあおにさいが!)

云い草だ。己を何だと思っているのだ?この青二才が!

(「なあに、なおみくんがいうほどまずかありませんよ、もっとへたなのがいくらも)

「なあに、ナオミ君が云うほど拙かありませんよ、もっと下手なのがいくらも

(いるじゃありませんか」)

居るじゃありませんか」

(とはまだはいって、)

と浜田は云って、

(「どうです、きらこさん、こんどのふぉっくす・とろっとにかわいさんと)

「どうです、綺羅子さん、今度のフォックス・トロットに河合さんと

(おどってあげたら?」)

踊って上げたら?」

(「はあ、どうぞ・・・・・・・・・」)

「はあ、何卒・・・・・・・・・」

(きらこはやはりじょゆうらしいあいきょうをもってうなずきました。が、わたしはあわてて)

綺羅子は矢張女優らしい愛嬌を以てうなずきました。が、私は慌てて

(てをふりながら、)

手を振りながら、

(「やあ、だめですよだめですよ」)

「やあ、駄目ですよ駄目ですよ」

(と、こっけいなほどめんくらってそういいました。)

と、滑稽なほど面喰ってそう云いました。

(「だめなことがあるもんですか。あなたのようにえんりょなさるから)

「駄目なことがあるもんですか。あなたのように遠慮なさるから

(いけないんですよ。ねえ、きらこさん」)

いけないんですよ。ねえ、綺羅子さん」

(「ええ、・・・・・・・・・どうぞほんとに」)

「ええ、・・・・・・・・・どうぞほんとに」

(「いやあいけません、とてもいけません、うまくなってからねがいますよ」)

「いやあいけません、とてもいけません、巧くなってから願いますよ」

(「おどってくださるっていうんだから、おどっていただいたらいいじゃないの」)

「踊って下さるって云うんだから、踊って戴いたらいいじゃないの」

(と、なおみはそれが、わたしにとってのみにあまるめんぼくででもあるかのように、)

と、ナオミはそれが、私に取っての身に余る面目ででもあるかのように、

(おっかぶせていって、)

おッ被せて云って、

(「じょうじさんはあたしとばかりおどりたがるからいけないんだわ。さあ、)

「譲治さんはあたしとばかり踊りたがるからいけないんだわ。さあ、

(ふぉっくす・とろっとがはじまったからいってらっしゃい、だんすはたりゅうじあいが)

フォックス・トロットが始まったから行ってらっしゃい、ダンスは他流試合が

(いいのよ」)

いいのよ」

(”will you dance with me?”)

“Will you dance with me?”

(そのときそういうこえがきこえて、つかつかとなおみのそばへやってきたのは、さっき)

その時そう云う声が聞えて、つかつかとナオミの傍へやって来たのは、さっき

(きくことおどっていた、すらりとしたからだつきの、おんなのようなにやけたかおへおしろいを)

菊子と踊っていた、すらりとした体つきの、女のようなにやけた顔へお白粉を

(ぬっている、としのわかいがいじんでした。せなかをまるく、なおみのまえへみをかがめて、)

塗っている、歳の若い外人でした。背中を円く、ナオミの前へ身をかがめて、

(にこにこわらいながら、おおかたおせじでもいうのでしょうか。なにかはやくちにぺらぺらと)

ニコニコ笑いながら、大方お世辞でも云うのでしょうか。何か早口にぺらぺらと

(しゃべります。そしてあつかましいちょうしで「ぷりーすぷりーす」というところ)

しゃべります。そして厚かましい調子で「プリースプリース」と云うところ

(だけがわたしにわかります。と、なおみもこまったかおつきをしてひのでるようにまっかに)

だけが私に分ります。と、ナオミも困った顔つきをして火の出るように真っ赤に

(なって、そのくせおこることもできずに、にやにやしています。ことわりたいには)

なって、その癖怒ることも出来ずに、ニヤニヤしています。断りたいには

(ことわりたいのだが、なんといったらもっともえんきょくにあらわされるか、かのじょのえいごではとっさの)

断りたいのだが、何と云ったら最も婉曲に表されるか、彼女の英語では咄嗟の

(さいにひとこともでてこないのです。がいじんのほうはなおみがわらいだしたので、こういが)

際に一と言も出て来ないのです。外人の方はナオミが笑い出したので、好意が

(あるとみてとったらしく、「さあ」といってうながすようなそぶりをしながら、)

あると看て取ったらしく、「さあ」と云って促すような素振りをしながら、

(おしつけがましくかのじょのへんじをようきゅうします。)

押しつけがましく彼女の返辞を要求します。

(”yes,・・・・・・・・・”)

“Yes,・・・・・・・・・”

(そういってかのじょがふしょうぶしょうにたちあがったとき、そのほっぺたはいっそうはげしく、)

そう云って彼女が不承々々に立ち上がったとき、その頬ッぺたは一層激しく、

(もえあがるようにあかくなりました。)

燃え上るように赧くなりました。

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