谷崎潤一郎 痴人の愛 35
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問題文
(「さ、うまになったよ」)
「さ、馬になったよ」
(と、そういって、わたしがよつんばいになると、なおみはどしんとせなかのうえへ、)
と、そう云って、私が四つん這いになると、ナオミはどしんと背中の上へ、
(そのじゅうよんかんにひゃくのおもみでのしかかって、てぬぐいのたづなをわたしのくちにくわえさせ、)
その十四貫二百の重みでのしかかって、手拭いの手綱を私の口に咬えさせ、
(「まあ、なんていうちいさなよたよたうまだろう!もっとしっかり!)
「まあ、何て云う小さなよたよた馬だろう!もっとしッかり!
(はいはい、どうどう!」)
ハイハイ、ドウドウ!」
(とさけびながら、おもしろそうにあしでわたしのはらをしめつけ、たづなをぐいぐいと)
と叫びながら、面白そうに脚で私の腹を締めつけ、手綱をグイグイと
(しごきます。わたしはかのじょにつぶされまいといっしょうけんめいにりきみかえって、あせをかきかき)
しごきます。私は彼女に潰されまいと一生懸命に力み返って、汗を掻き掻き
(へやをまわります。そしてかのじょは、わたしがへたばってしまうまでは)
部屋を廻ります。そして彼女は、わたしがへたばってしまうまでは
(そのいたずらをやめないのでした。)
そのいたずらを止めないのでした。
(「じょうじさん、ことしのなつはひさしぶりでかまくらへいかない?」)
「譲治さん、今年の夏は久振りで鎌倉へ行かない?」
(はちがつになると、かのじょはいいました。)
八月になると、彼女は云いました。
(「あたし、あれっきりいかないんだからいってみたいわ」)
「あたし、あれッきり行かないんだから行って見たいわ」
(「なるほど、そういえばあれっきりだったかね」)
「成る程、そう云えばあれッきりだったかね」
(「そうよ、だからことしはかまくらにしましょうよ、あたしたちのきねんの)
「そうよ、だから今年は鎌倉にしましょうよ、あたしたちの記念の
(とちじゃないの」)
土地じゃないの」
(なおみのこのことばは、どんなにわたしをよろこばしたことでしょう。なおみのいうとおり、)
ナオミのこの言葉は、どんなに私を喜ばしたことでしょう。ナオミの云う通り、
(わたしたちがしんこんりょこう?まあいってみればしんこんりょこうにでかけたのは)
私たちが新婚旅行?まあ云って見れば新婚旅行に出かけたのは
(かまくらでした。かまくらぐらいわれわれにとってきねんになるとちはないはずでした。)
鎌倉でした。鎌倉ぐらいわれわれに取って記念になる土地はない筈でした。
(あれからあともまいとしどこかへひしょにいきながら、すっかりかまくらをわすれていたのに、)
あれから後も毎年何処かへ避暑に行きながら、すっかり鎌倉を忘れていたのに、
(なおみがそれをいいだしてくれたのは、まったくすばらしいおもいつきでした。)
ナオミがそれを云い出してくれたのは、全く素晴らしい思いつきでした。
(「いこう、ぜひいこう!」)
「行こう、是非行こう!」
(わたしはそういって、いちもにもなくさんせいしました。)
私はそう云って、一も二もなく賛成しました。
(そうだんがきまるとそこそこに、かいしゃのほうへはとおかかんのきゅうかをもらい、おおもりのいえに)
相談が極まるとそこそこに、会社の方へは十日間の休暇を貰い、大森の家に
(とじまりをして、つきのはじめにふたりはかまくらへでかけました。やどははせのとおりから)
戸じまりをして、月の初めに二人は鎌倉へ出かけました。宿は長谷の通りから
(ごようていのほうへいくみちの、うえそうといううえきやのはなれざしきをかりました。)
御用邸の方へ行く道の、植惣と云う植木屋の離れ座敷を借りました。
(わたしはさいしょ、こんどはまさかきんぱろうでもあるまいから、すこしきのきいたりょかんへ)
私は最初、今度はまさか金波楼でもあるまいから、少し気の利いた旅館へ
(とまるつもりでしたが、それがはからずもまがりをするようになったのは、)
泊るつもりでしたが、それが図らずも間借りをするようになったのは、
(「たいへんつごうのいいことをすぎさきじょしからきいた」といって、このうえきやのはなれの)
「大変都合のいいことを杉崎女史から聞いた」と云って、この植木屋の離れの
(はなしをなおみがもってきたからでした。なおみのいうには、りょかんはふけいざいでも)
話をナオミが持って来たからでした。ナオミの云うには、旅館は不経済でも
(あり、あたりきんじょにきがねもあるから、まがりができればいちばんいい。で、)
あり、あたり近所に気がねもあるから、間借りが出来れば一番いい。で、
(しあわせなことに、じょしのしんせきのとうようせきゆのじゅうやくのひとが、かりたままで)
仕合せなことに、女史の親戚の東洋石油の重役の人が、借りたままで
(つかわずにいるかしまがあって、それをこっちへゆずってもらえるそうだから、いっそ)
使わずにいる貸間があって、それを此方へ譲って貰えるそうだから、いっそ
(そのほうがいいじゃないか。そのじゅうやくは、ろく、しち、はち、とさんかげつかんごひゃくえんのやくそくで)
その方がいいじゃないか。その重役は、六、七、八、と三カ月間五百円の約束で
(かり、しちがついっぱいはいたのだけれど、もうかまくらもあきてきたからだれでも)
借り、七月一杯は居たのだけれど、もう鎌倉も飽きて来たから誰でも
(かりたいひとがあるならよろこんでかす。すぎさきじょしのしゅうせんとあればやちんなどは)
借りたい人があるなら喜んで貸す。杉崎女史の周旋とあれば家賃などは
(どうでもいいといっているから、・・・・・・・・・というのでした。)
どうでもいいと云っているから、・・・・・・・・・と云うのでした。
(「ね、こんなうまいはなしはないからそうしましょうよ。それならおかねも)
「ね、こんな旨い話はないからそうしましょうよ。それならお金も
(かからないから、こんげついっぱいいっていられるわ」)
かからないから、今月一杯行っていられるわ」
(と、なおみはいいました。)
と、ナオミは云いました。
(「だっておまえ、かいしゃがあるからそんなにながくはあそべないよ」)
「だってお前、会社があるからそんなに長くは遊べないよ」
(「だけどかまくらなら、まいにちきしゃでかよえるじゃないの、ね、そうしない?」)
「だけど鎌倉なら、毎日汽車で通えるじゃないの、ね、そうしない?」
(「しかし、そこがおまえのきにいるかどうかみてこないじゃあ、・・・・・・・」)
「しかし、そこがお前の気に入るかどうか見て来ないじゃあ、・・・・・・・」
(「ええ、あたしあしたでもいってみてくるわ、そしてあたしのきにいったら)
「ええ、あたし明日でも行って見て来るわ、そしてあたしの気に入ったら
(きめてもいい?」)
極めてもいい?」
(「きめてもいいけれど、ただというのもきもちがわるいから、そこをなんとかはなしを)
「極めてもいいけれど、ただと云うのも気持が悪いから、そこを何とか話を
(つけておかなけりゃあ、・・・・・・・・・」)
つけて置かなけりゃあ、・・・・・・・・・」
(「そりゃわかってるわ。じょうじさんはいそがしいだろうから、いいとなったらすぎさきせんせいの)
「そりゃ分ってるわ。譲治さんは忙しいだろうから、いいとなったら杉崎先生の
(ところへいって、おかねをとってくれるようにたのんでくるわ。まあひゃくえんかひゃくごじゅうえんは)
所へ行って、お金を取ってくれるように頼んで来るわ。まあ百円か百五十円は
(はらわなくっちゃ。・・・・・・・・・」)
払わなくっちゃ。・・・・・・・・・」
(こんなちょうしで、なおみはひとりでぱたぱたとしんこうさせて、やちんはひゃくえんということに)
こんな調子で、ナオミは独りでぱたぱたと進行させて、家賃は百円と云うことに
(おれあい、かねのとりひきもかのじょがすっかりすませてきました。)
折れ合い、金の取引も彼女がすっかり済ませて来ました。
(わたしはどうかとあんじていましたが、いってみるとおもったよりいいいえでした。)
私はどうかと案じていましたが、行って見ると思ったより好い家でした。
(かしまとはいうものの、おもやからどくりつしたひらやだてのひとむねで、はちじょうとよじょうはんの)
貸間とは云うものの、母屋から独立した平屋建ての一棟で、八畳と四畳半の
(ざしきのほかに、げんかんとゆどのとだいどころがあり、でいりぐちもべつになっていて、にわからすぐと)
座敷の外に、玄関と湯殿と台所があり、出入口も別になっていて、庭から直ぐと
(おうらいへでることができ、うえきやのかぞくともかおをあわせるひつようはなく、これなら)
往来へ出ることが出来、植木屋の家族とも顔を合わせる必要はなく、これなら
(なるほど、ふたりがここでしんせたいをかまえたようなものでした。わたしはひさしぶりで、)
成る程、二人が此処で新世帯を構えたようなものでした。私は久振りで、
(じゅんにほんしきのあたらしいたたみのうえにこしをおろし、ながひばちのまえにあぐらをかいて、)
純日本式の新しい畳の上に腰をおろし、長火鉢の前にあぐらを掻いて、
(のびのびとしました。)
伸び伸びとしました。
(「や、これはいい、ひじょうにきぶんがゆったりするね」)
「や、これはいい、非常に気分がゆったりするね」
(「いいいえでしょう?おおもりとどっちがよくって?」)
「いい家でしょう?大森と孰方がよくって?」
(「ずっとこのほうがおちつくね、これならいくらでもいられそうだよ」)
「ずっとこの方が落ち着くね、これなら幾らでも居られそうだよ」
(「それごらんなさい、だからあたしがここにしようっていったんだわ」)
「それ御覧なさい、だからあたしが此処にしようって云ったんだわ」
(そういってなおみはとくいでした。)
そう云ってナオミは得意でした。
(あるひここへきてからみっかぐらいたったときだったでしょうか、ひるから)
或る日此処へ来てから三日ぐらい立った時だったでしょうか、午から
(みずをあびにいって、いちじかんばかりおよいだあと、ふたりがすなはまにころがっていると、)
水を浴びに行って、一時間ばかり泳いだ後、二人が沙浜にころがっていると、
(「なおみさん!」)
「ナオミさん!」
(と、ふいにわたしたちのかおのうえで、そうよんだものがありました。)
と、不意に私たちの顔の上で、そう呼んだ者がありました。
(みると、それはくまがいでした。たったいまうみからあがったらしく、ぬれたかいすいぎが)
見ると、それは熊谷でした。たった今海から上ったらしく、濡れた海水着が
(べったりとむねにすいつき、そのけむくじゃらなはぎをつたわって、ぽたぽたしおみずが)
べったりと胸に吸い着き、その毛むくじゃらな脛を伝わって、ぽたぽた潮水が
(たれていました。)
滴れていました。
(「おや、まあちゃん、いつきたの?」)
「おや、まアちゃん、いつ来たの?」
(「きょうきたんだよ、てっきりおまえにちげえねえとおもったら、やっぱり)
「今日来たんだよ、てっきりお前にちげえねえと思ったら、やっぱり
(そうだった」)
そうだった」
(そしてくまがいはうみにむかっててをあげながら、)
そして熊谷は海に向って手を挙げながら、
(「おーい」)
「おーい」
(とよぶと、おきのほうでも、)
と呼ぶと、沖の方でも、
(「おーい」)
「おーい」
(とだれかがへんじをしました。)
と誰かが返辞をしました。
(「だれ?あすこにおよいでいるのは?」)
「誰?彼処に泳いでいるのは?」
(「はまだだよ、はまだとせきとなかむらと、よんにんできょうやってきたんだ」)
「浜田だよ、浜田と関と中村と、四人で今日やって来たんだ」
(「まあ、そりゃだいぶにぎやかだわね、どこのやどやにとまっているの?」)
「まあ、そりゃ大分賑やかだわね、何処の宿屋に泊っているの?」
(「へっ、そんなけいきのいいんじゃねえんだ。あんまりあつくってしようがねえから、)
「へッ、そんな景気のいいんじゃねえんだ。あんまり暑くって仕様がねえから、
(ちょっとひがえりでやってきたのよ」)
ちょっと日帰りでやって来たのよ」
(なおみとかれとがしゃべっているところへ、やがてはまだがあがってきました。)
ナオミと彼とがしゃべっている所へ、やがて浜田が上って来ました。
(「やあ、しばらく!たいへんごぶさたしちまって、どうですかわいさん、ちかごろ)
「やあ、暫く!大へん御無沙汰しちまって、どうです河合さん、近頃
(さっぱりだんすにおみえになりませんね」)
さっぱりダンスにお見えになりませんね」
(「そういうわけでもないんですが、なおみがあきたというもんだから」)
「そう云う訳でもないんですが、ナオミが飽きたと云うもんだから」
(「そうですか、そりゃけしからんな。あなたがたはいつからこっちへ?」)
「そうですか、そりゃ怪しからんな。あなた方はいつから此方へ?」
(「ついにさんにちまえからですよ、はせのうえきやのはなれざしきをかりているんです」)
「つい二三日前からですよ、長谷の植木屋の離れ座敷を借りているんです」
(「そりゃほんとにいいところよ、すぎさきせんせいのおせわでもってこんげついっぱいのやくそくで)
「そりゃほんとにいい所よ、杉崎先生のお世話でもって今月一杯の約束で
(かりたの」)
借りたの」
(「おつうしゃれてるね」)
「乙う洒落てるね」
(と、くまがいがいいました。)
と、熊谷が云いました。