谷崎潤一郎 痴人の愛 44
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問題文
(はまだがあんなちゅうこくをしたのはおそらくかれのじっけんからきているのでしょうが、)
浜田があんな忠告をしたのは恐らく彼の実験から来ているのでしょうが、
(わたしにしてもそういうおぼえはたびたびあります。なによりかのじょをおこらせてしまっては)
私にしてもそう云う覚えはたびたびあります。何より彼女を怒らせてしまっては
(いちばんいけない、かのじょがつむじをまげないように、けっしてけんかにならないように、)
一番いけない、彼女がつむじを曲げないように、決して喧嘩にならないように、
(そうかといってこっちがあまくみられないように、じょうずにきりださなければ)
そうかと云って此方が甘く見られないように、上手に切り出さなければ
(ならない。で、それにはこっちがさいばんかんのようなたいどでといつめていくのはもっとも)
ならない。で、それには此方が裁判官のような態度で問い詰めて行くのは最も
(きけんだ。「おまえはくまがいとこれこれだろう?」「そしてはまだとも)
危険だ。「お前は熊谷とこれこれだろう?」「そして浜田とも
(これこれだろう?」と、こうしょうめんからにくはくすれば、「へえ、そうです」と)
これこれだろう?」と、こう正面から肉迫すれば、「へえ、そうです」と
(おそれいるようなおんなではない。きっとかのじょははんこうする。あくまでしらぬぞんぜぬと)
恐れ入るような女ではない。きっと彼女は反抗する。飽くまで知らぬ存ぜぬと
(いいばる。するとこっちもじりじりしてきてかんしゃくをおこす。もしそうなったら)
云い張る。すると此方もジリジリして来て癇癪を起す。もしそうなったら
(おしまいだから、おしもんどうをすることはとにかくよくない。これはかのじょに)
おしまいだから、押し問答をすることはとにかくよくない。これは彼女に
(どろをはかせるというようなかんがえはやめにして、いっそこっちからきょうのできごとを)
泥を吐かせると云うような考は止めにして、いっそ此方から今日の出来事を
(はなしてしまったほうがいい。そうすればいくらごうじょうでもそれをしらないとは)
話してしまった方がいい。そうすればいくら強情でもそれを知らないとは
(いえないだろう。よし、そうしようとおもったので、)
云えないだろう。よし、そうしようと思ったので、
(「ぼくはきょう、あさのじゅうじごろにおおもりへよったらはまだにあったよ」)
「僕は今日、朝の十時頃に大森へ寄ったら浜田に遇ったよ」
(と、まずそんなふうにいってみました。)
と、先ずそんな風に云って見ました。
(「ふうん」)
「ふうん」
(となおみは、さすがにぎょっとしたらしくわたしのしせんをさけるように、はなのさきで)
とナオミは、さすがにぎょッとしたらしく私の視線を避けるように、鼻の先で
(そういいました。)
そう云いました。
(「それからかれこれするうちにめしどきになったもんだから、はまだをさそって)
「それからかれこれするうちに飯時になったもんだから、浜田を誘って
(「まつあさ」へいって、いっしょにめしをくったんだ。」)
『松浅』へ行って、一緒に飯を喰ったんだ。」
(もうそれからはなおみはへんじをしませんでした。わたしはかのじょのかおいろにたえずちゅういを)
もうそれからはナオミは返辞をしませんでした。私は彼女の顔色に絶えず注意を
(くばりながら、あまりひにくにならないようにじゅんじゅんとはなしていきましたが、)
配りながら、あまり皮肉にならないように諄々と話して行きましたが、
(はなしおわってしまうまで、なおみはじっとしたをむいてきいていました。そして)
話し終ってしまうまで、ナオミはじっと下を向いて聴いていました。そして
(わるびれたようすはなく、ただほおのいろがこころもちあおざめただけでした。)
悪びれた様子はなく、ただ頬の色がこころもち青ざめただけでした。
(「はまだがそういってくれたので、ぼくはおまえにきくまでもなくみんな)
「浜田がそう云ってくれたので、僕はお前に聞くまでもなくみんな
(わかってしまったんだ。だからおまえはなにもごうじょうをはることはない。わるかったらば)
分ってしまったんだ。だからお前は何も強情を張ることはない。悪かったらば
(わるかったと、そういってくれさえすればいいんだ。)
悪かったと、そう云ってくれさえすればいいんだ。
(・・・・・・・・・どうだい、おまえ、わるかったかね?わるいということを)
・・・・・・・・・どうだい、お前、悪かったかね?悪いと云うことを
(みとめるかね?」)
認めるかね?」
(なおみがなかなかこたえないので、ここでわたしのしんぱいしていたおしもんどうのけいせいが)
ナオミがなかなか答えないので、ここで私の心配していた押し問答の形勢が
(もちあがりそうになりましたが、「どうだね?なおみちゃん」と、わたしはできるだけ)
持ち上りそうになりましたが、「どうだね?ナオミちゃん」と、私は出来るだけ
(やさしいくちょうで、)
優しい口調で、
(「わるかったことさえみとめてくれれば、ぼくはなんにもすぎさったことを)
「悪かったことさえ認めてくれれば、僕はなんにも過ぎ去ったことを
(とがめやしないよ。なにもおまえにりょうてをついてあやまれというわけじゃない。このあと)
咎めやしないよ。何もお前に両手をついて詫まれと云うわけじゃない。この後
(こういうまちがいがないように、それをちかってくれたらいいんだ。え?)
こう云う間違いがないように、それを誓ってくれたらいいんだ。え?
(わかったろうね?わるかったというんだろうね?」)
分ったろうね?悪かったと云うんだろうね?」
(するとなおみは、いいあんばいに、あごで「うん」とうなずきました。)
するとナオミは、好い塩梅に、頤で「うん」と頷きました。
(「じゃあわかったね?これからけっしてくまがいやなんかとあそびはしないね?」)
「じゃあ分ったね?これから決して熊谷やなんかと遊びはしないね?」
(「うん」)
「うん」
(「きっとだろうね?やくそくするね?」)
「きっとだろうね?約束するね?」
(「うん」)
「うん」
(この「うん」でおもんみて、おたがいのかおがたつようにどうやらおりあいがつきました。)
この「うん」で以て、お互の顔が立つようにどうやら折り合いがつきました。
(そのばん、わたしとなおみとはもはやなにごともなかったようにねものがたりを)
十八 その晩、私とナオミとは最早何事もなかったように寝物語を
(しましたけれども、しかししょうじきのきもちをいうと、わたしはけっしてこころのそこから)
しましたけれども、しかし正直の気持を云うと、私は決して心の底から
(きれいさっぱりとはしませんでした。このおんなは、すでにせいじょうけっぱくではない。)
綺麗サッパリとはしませんでした。この女は、既に清浄潔白ではない。
(このかんがえはわたしのむねをくらくとざしたばかりでなく、じぶんのたからであったところの)
この考は私の胸を晦く鎖したばかりでなく、自分の宝であったところの
(なおみのねうちを、はんぶんいかにひきさげてしまいました。なぜならかのじょの)
ナオミの値打ちを、半分以下に引き下げてしまいました。なぜなら彼女の
(ねうちというものは、わたしがじぶんでそだててやり、じぶんでこれほどのおんなにしてやり、)
値打ちと云うものは、私が自分で育ててやり、自分でこれほどの女にしてやり、
(そうしてただじぶんばかりがそのにくたいのあらゆるぶぶんをしっているということに、)
そうしてただ自分ばかりがその肉体のあらゆる部分を知っていると云うことに、
(そのたいはんがあったのですから、つまりなおみというものは、わたしにとってはじぶんが)
その大半があったのですから、つまりナオミと云うものは、私に取っては自分が
(さいばいしたところのひとつのかじつとおなじことです。わたしはそのみがきょうのように)
栽培したところの一つの果実と同じことです。私はその実が今日のように
(りっぱにせいじゅくするまでにずいぶんさまざまのたんせいをこらし、ろうりょくをかけた。だから)
立派に成熟するまでに随分さまざまの丹精を凝らし、労力をかけた。だから
(それをあじわうのはさいばいしゃたるわたしのとうぜんのほうしゅうであって、ほかのなんびとにも)
それを味わうのは栽培者たる私の当然の報酬であって、他の何人にも
(そんなけんりはないはずであるのに、それがいつのまにかあかのたにんにかわをむしられ、)
そんな権利はない筈であるのに、それが何時の間にかあかの他人に皮を挘られ、
(はをたてられていたのです。そうしてそれは、いったんよごされてしまったいじょう、)
歯を立てられていたのです。そうしてそれは、一旦汚されてしまった以上、
(いかにかのじょがつみをわびてももうとりかえしのつかないことです。)
いかに彼女が罪を詫びてももう取り返しのつかないことです。
(「かのじょのはだ」というたっといせいちには、ふたりのぞくのどろにまみれたあしあとがえいきゅうに)
「彼女の肌」と云う貴い聖地には、二人の賊の泥にまみれた足痕が永久に
(しるせられてしまったのです。これをおもえばおもうほどくちおしいことのかぎりでした。)
印せられてしまったのです。これを思えば思うほど口惜しいことの限りでした。
(なおみがにくいというのでなしに、そのできごとがにくくてたまりませんでした。)
ナオミが憎いと云うのでなしに、その出来事が憎くてたまりませんでした。
(「じょうじさん、かにしてね、・・・・・・・・・」)
「譲治さん、堪忍してね、・・・・・・・・・」
(なおみはわたしがだまってないているのをみると、ひるまのたいどとはうってかわって、)
ナオミは私が黙って泣いているのを見ると、昼間の態度とは打って変って、
(そういってくれましたけれど、わたしはやはりないてうなずくばかりでした。)
そう云ってくれましたけれど、私はやはり泣いて頷くばかりでした。
(「ああかにするよ」とくちではいっても、とりかえしのつかないというむねんさは)
「ああ堪忍するよ」と口では云っても、取り返しのつかないと云う無念さは
(けすことができませんでした。)
消すことが出来ませんでした。
(かまくらのひとなつはこんなしまつでさんざんなおわりをつげ、やがてわたしたちはおおもりの)
鎌倉の一と夏はこんな始末で散々な終りを告げ、やがて私たちは大森の
(じゅうきょへもどりましたが、いまもいうようにわたしのむねにわだかまりが)
住居へ戻りましたが、今も云うように私の胸にわだかまりが
(できたものですから、それがしぜんとなにかのばあいにあらわれるとみえ、それからあとの)
出来たものですから、それが自然と何かの場合に現れると見え、それから後の
(ふたりのなかはどうもしっくりとはいきかねました。ひょうめんはわかいしたようで)
二人の仲はどうもしっくりとは行きかねました。表面は和解したようで
(あっても、わたしはけっして、まだほんとうにはなおみにこころをゆるしていない。かいしゃへ)
あっても、私は決して、まだほんとうにはナオミに心を許していない。会社へ
(いってもいぜんとしてくまがいのことがしんぱいになる。るすのあいだのかのじょのこうどうが)
行っても依然として熊谷のことが心配になる。留守の間の彼女の行動が
(きになるあまり、まいあさいえをでかけるとみせてこっそりうらぐちへたちまわったり、)
気になる余り、毎朝家を出かけると見せてこっそり裏口へ立ち廻ったり、
(かのじょがえいごやおんがくのけいこにいくというひは、そっとそのあとをつけていったり、)
彼女が英語や音楽の稽古に行くと云う日は、そっとその跡をつけて行ったり、
(ときどきかのじょのめをぬすんでは、かのじょあてにくるてがみのないようをしらべてみたり、)
時々彼女の眼を偸んでは、彼女宛てに来る手紙の内容を調べて見たり、
(そういうふうにまでわたしがひみつたんていのようなきもちになるにしたがい、なおみはなおみで、)
そう云う風にまで私が秘密探偵のような気持になるに随い、ナオミはナオミで、
(はらのなかではこのしつっこいわたしのやりかたをせせらわらっているらしく、ことばにだして)
腹の中ではこのしつッこい私のやり方をせせら笑っているらしく、言葉に出して
(いいあらそいはしないまでも、へんにいじわるいそぶりをみせるようになりました。)
云い争いはしないまでも、変に意地悪い素振りを見せるようになりました。
(「おい!なおみ!」)
「おい!ナオミ!」
(と、わたしはあるばん、いやにつめたいかおつきをしてねたふりをしているかのじょのからだを)
と、私は或る晩、いやに冷たい顔つきをして寝た振りをしている彼女の体を
(ゆすぶりながら、そういいました。(ことわっておきますが、もうそのじぶん、わたしは)
揺す振りながら、そう云いました。(断って置きますが、もうその時分、私は
(かのじょを「なおみ」とよびつけにしていたのです))
彼女を「ナオミ」と呼びつけにしていたのです)
(「なんだってそんな・・・・・・・・・ねたふりなんぞしているんだ?そんなに)
「何だってそんな・・・・・・・・・寝たふりなんぞしているんだ?そんなに
(おれがきらいなのかい?・・・・・・・・・」)
己が嫌いなのかい?・・・・・・・・・」
(「ねたふりなんかしていやしないわ。ねようとおもってめを)
「寝たふりなんかしていやしないわ。寝ようと思って眼を
(つぶっているだけなんだわ」)
潰っているだけなんだわ」
(「じゃあめをおひらき、ひとがはなしをしようとするのにめをつぶっているほうはなかろう」)
「じゃあ眼をお開き、人が話をしようとするのに眼を潰っている法はなかろう」
(そういうとなおみは、しかたなしにうっすりとまぶたをひらきましたが、まつげのかげから)
そう云うとナオミは、仕方なしにうッすりと眼瞼を開きましたが、睫毛の蔭から
(わずかにこっちをのぞいているほそいめつきは、そのひょうじょうをいっそうれいこくなものにしました。)
纔かに此方を覗いている細い眼つきは、その表情を一層冷酷なものにしました。
(「え?おまえはおれがきらいなのかよ?そうならそうと)
「え?お前は己が嫌いなのかよ?そうならそうと
(いっておくれ。・・・・・・・・・」)
云っておくれ。・・・・・・・・・」
(「なぜそんなことをたずねるの?・・・・・・・・・」)
「なぜそんなことを尋ねるの?・・・・・・・・・」
(「おれにはたいがい、おまえのそぶりでわかっているんだ。このころのおれたちはけんかこそ)
「己には大概、お前の素振りで分っているんだ。この頃の己たちは喧嘩こそ
(しないが、こころのそこではたがいにしのぎをけずっている。これでもおれたちはふうふだろうか?」)
しないが、心の底では互に鎬を削っている。これでも己たちは夫婦だろうか?」
(「あたしはしのぎをけずってやしない、あなたこそけずっているんじゃないの」)
「あたしは鎬を削ってやしない、あなたこそ削っているんじゃないの」
(「それはおたがいさまだとおもう。おまえのたいどがおれにあんしんをあたえないから、おれのほうでも)
「それはお互様だと思う。お前の態度が己に安心を与えないから、己の方でも
(ついうたがいのめをもって・・・・・・・・・」)
つい疑いの眼を以て・・・・・・・・・」
(「ふん」)
「ふん」
(となおみは、そのはなさきのひにくなわらいでわたしのことばをぶっきってしまって、)
とナオミは、その鼻先の皮肉な笑いで私の言葉を打ッ切ってしまって、
(「じゃあききますが、あたしのたいどになにかあやしいところがあるの?あるならしょうこを)
「じゃあ聞きますが、あたしの態度に何か怪しい所があるの?あるなら証拠を
(みせてちょうだい」)
見せて頂戴」
(「そりゃ、しょうこといってはありゃしないが、・・・・・・・・・」)
「そりゃ、証拠と云ってはありゃしないが、・・・・・・・・・」