谷崎潤一郎 痴人の愛 56

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投稿者投稿者神楽@社長推しいいね0お気に入り登録
プレイ回数612難易度(4.5) 5711打 長文
谷崎潤一郎の中編小説です
私のお気に入りです
順位 名前 スコア 称号 打鍵/秒 正誤率 時間(秒) 打鍵数 ミス 問題 日付
1 やまちやまちゃん 4568 C++ 4.6 97.5% 1206.4 5653 141 98 2024/05/08

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問題文

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(かいしゃがすむと、わたしはやはりなおみにあうのがいやでしたから、にぎやかなばしょは)

会社が済むと、私は矢張ナオミに遇うのが厭でしたから、賑やかな場所は

(さけるようにし、けいひんでんしゃでまっすぐおおもりへかえります。そしてきんじょの)

避けるようにし、京浜電車で真っ直ぐ大森へ帰ります。そして近所の

(いっぴんりょうりか、そばかうどんでかたばかりのばんめしをたべると、もうそれからは)

一品料理か、そばかうどんで型ばかりの晩飯をたべると、もうそれからは

(なにもすることがありません。しかたがないからしんしつへあがってふとんを)

何もする事がありません。仕方がないから寝室へ上って布団を

(こうむってしまいますが、そのまますやすやねられることはめったになく、にじかんも)

被ってしまいますが、そのまますやすや寝られることはめったになく、二時間も

(さんじかんもめがさえています。しんしつというのは、れいのやねうらのへやのことで、)

三時間も眼が冴えています。寝室と云うのは、例の屋根裏の部屋のことで、

(そこにはいまでもかのじょのにもつがおいてあり、かこごねんかんのふちつじょ、ほうらつ、)

そこには今でも彼女の荷物が置いてあり、過去五年間の不秩序、放埒、

(こうしょくのにおいが、かべにもはしらにもしみついています。そのにおいとはつまりかのじょの)

荒色の匂が、壁にも柱にも滲み着いています。その匂とはつまり彼女の

(はだのにおいで、ぶしょうなかのじょはよごれものなどをせんたくもせずに、まるめてつっこんで)

肌の臭で、不精な彼女は汚れ物などを洗濯もせずに、丸めて突っ込んで

(おくものですから、それがいまではかぜとおしのわるいしつないにこもってしまって)

置くものですから、それが今では風通しの悪い室内に籠ってしまって

(いるのです。わたしはこれではたまらないとおもって、あとにはあとりえのそおふぁに)

いるのです。私はこれではたまらないと思って、後にはアトリエのソオファに

(ねましたが、そこでもよういにねつかれないことはおなじでした。)

寝ましたが、そこでも容易に寝つかれないことは同じでした。

(ははがしんでからさんしゅうかんすぎて、そのとしのじゅうにがつにはいってから、わたしはついに)

母が死んでから三週間過ぎて、その年の十二月に這入ってから、私は遂に

(じしょくのけっしんをかためました。そしてかいしゃのつごうじょう、ことしいっぱいでやめるということに)

辞職の決心を固めました。そして会社の都合上、今年一杯で罷めると云うことに

(きまりました。もっともこれはだれにもあらかじめそうだんをせず、ひとりではこんでしまったので、)

極まりました。尤もこれは誰にも予め相談をせず、独りで運んでしまったので、

(くにのほうではまだしらないでいたのですが、そうなってみるとあとひとつきの)

国の方ではまだ知らないでいたのですが、そうなって見ると後一と月の

(しんぼうですから、わたしはすこしおちつきました。いくらかこころにもよゆうができ、)

辛抱ですから、私は少し落ち着きました。いくらか心にも余裕が出来、

(ひまなときにはどくしょするとか、さんぽするとかしましたけれど、しかしそれでも)

暇な時には読書するとか、散歩するとかしましたけれど、しかしそれでも

(きけんくいきには、けっしてちかよりませんでした。あるばんあまりたいくつなので)

危険区域には、決して近寄りませんでした。或る晩あまり退屈なので

(しながわのほうまであるいていったとき、じかんつぶしにまつのすけのえいがをみるきになって)

品川の方まで歩いて行った時、時間つぶしに松之助の映画を見る気になって

など

(かつどうごやにはいったところが、ちょうどろいどのきげきをうつしていて、)

活動小屋に這入ったところが、ちょうどロイドの喜劇を映していて、

(わかいあめりかのじょゆうたちがあらわれてくると、やはりいろいろかんがえだされて)

若い亜米利加の女優たちが現れて来ると、矢張いろいろ考え出されて

(いけませんでした。「もうせいようのかつどうしゃしんはみないことだ」と、わたしはそのとき)

イケませんでした。「もう西洋の活動写真は見ないことだ」と、私はその時

(おもいました。すると、じゅうにがつなかばの、あるにちようのあさでした。わたしがにかいに)

思いました。すると、十二月半ばの、或る日曜の朝でした。私が二階に

(ねていると、(わたしはそのころ、あとりえではさむくなってきたのでふたたびやねうらへ)

寝ていると、(私はその頃、アトリエでは寒くなって来たので再び屋根裏へ

(ひっこしていました)かいかでなにかがさがさというものおとがして、ひとのけはいが)

引っ越していました)階下で何かがさがさと云う物音がして、人のけはいが

(するのです。はて、おかしいな、おもてはとじまりがしてあるはずだが、)

するのです。ハテ、おかしいな、表は戸締まりがしてあるはずだが、

(・・・・・・・・・と、そうおもっているうちに、やがてききおぼえのある)

・・・・・・・・・と、そう思っているうちに、やがて聞き覚えのある

(あしおとがして、それがずかずかかいだんをのぼって、わたしがむねをひやりとさせるひまもなく、)

足音がして、それがずかずか階段を上って、私が胸をヒヤリとさせる暇もなく、

(「こんにちはあ」)

「今日はア」

(と、はれやかなこえでいいながら、いきなりはなさきのどーあをあけて、なおみが)

と、晴れやかな声で云いながら、いきなり鼻先のドーアを開けて、ナオミが

(わたしのめのまえにたちました。)

私の眼の前に立ちました。

(「こんにちはあ」)

「今日はア」

(と、かのじょはもういちどそういって、きょとんとしたかおでわたしをみました。)

と、彼女はもう一度そう云って、キョトンとした顔で私を見ました。

(「なにしにきた?」)

「何しに来た?」

(わたしはねどこからおきようともしないで、しずかに、れいたんにそういいました。よくも)

私は寝床から起きようともしないで、静かに、冷淡にそう云いました。よくも

(ずうずうしくこられたものだとこころのうちではあきれながら。)

ずうずうしく来られたものだと心のうちでは呆れながら。

(「あたし?にもつをとりにきたのよ」)

「あたし?荷物を取りに来たのよ」

(「にもつはもっていってもいいが、おまえ、どこからはいってきたんだ」)

「荷物は持って行ってもいいが、お前、何処から這入って来たんだ」

(「おもてのとから。あたしんところにかぎがあったの」)

「表の戸から。あたしン所に鍵があったの」

(「じゃあそのかぎをおいていっておくれ」)

「じゃあその鍵を置いて行っておくれ」

(「ええ、おいていくわ」)

「ええ、置いて行くわ」

(それからわたしは、ぐるりとかのじょにせなかをむけてだまっていました。しばらくのあいだ、かのじょは)

それから私は、ぐるりと彼女に背中を向けて黙っていました。暫くの間、彼女は

(わたしのまくらもとでばたんばたんいわせながら、ふろしきづつみをこしらえているのでしたが、)

私の枕もとでばたンばたン云わせながら、風呂敷包みを拵えているのでしたが、

(そのうちにきゅっとおびをとくようなおとがしたので、きがついてみると、かのじょは)

そのうちにきゅッと帯を解くような音がしたので、気が付いて見ると、彼女は

(へやのすみのほうの、しかもわたしのしせんのとどくばしょへやってきて、あとむきになって、)

部屋の隅の方の、しかも私の視線の届く場所へやって来て、後向きになって、

(きものをきがえているのです。わたしはさっき、かのじょがここへはいってきたとき、はやくも)

着物を着換えているのです。私はさっき、彼女が此処へ這入って来た時、早くも

(かのじょのふくそうにちゅういしたのですが、それはみおぼえのないめいせんのいるいで、しかも)

彼女の服装に注意したのですが、それは見覚えのない銘仙の衣類で、しかも

(まいにちそればかりきていたものか、えりあかがついて、ひざがでて、よれよれになって)

毎日そればかり着ていたものか、襟垢が附いて、膝が出て、よれよれになって

(いるのでした。かのじょはおびをといてしまうと、そのうすぎたないめいせんをぬいで、これも)

いるのでした。彼女は帯を解いてしまうと、その薄汚い銘仙を脱いで、これも

(きたないめりんすのながじゅばんひとつになりました。それから、いまひきだしたきんしゃちりめんの)

汚いメリンスの長襦袢一つになりました。それから、今引き出した金紗縮緬の

(ながじゅばんをとって、それをふわりとかたにまとって、からだじゅうをもくもくさせながら、)

長襦袢を取って、それをふわりと肩に纏って、体中をもくもくさせながら、

(したにきていためりんすのほうを、するするとからをぬぐようにたたみのうえへおとします。)

下に着ていたメリンスの方を、するすると殻を脱ぐように畳の上へ落します。

(そしてそのうえへ、すきないしょうのひとつであったきっこうがすりのおおしまをきて、あかとしろとの)

そしてその上へ、好きな衣裳の一つであった亀甲絣の大島を着て、紅と白との

(いちまつごうしのだてまきをまいてぎゅうっとどうがくびれるくらいかたくしめあげ、こんどは)

市松格子の伊達巻を巻いてぎゅうッと胴がくびれるくらい固く緊め上げ、今度は

(おびのばんかとおもうと、わたしのほうをむきなおって、そこにしゃがんで、たびを)

帯の番かと思うと、私の方を向き直って、そこにしゃがんで、足袋を

(はきかえるのでした。)

穿き換えるのでした。

(わたしはなにより、かのじょのすあしをみせられるのがいちばんつよいゆうわくなので、なるべくそっちを)

私は何より、彼女の素足を見せられるのが一番強い誘惑なので、成るべく其方を

(みないようにはしましたけれど、それでもちょいちょいめをむけないでは)

見ないようにはしましたけれど、それでもちょいちょい眼を向けないでは

(いられませんでした。かのじょもむろんそれをいしきしてやっているので。わざと)

いられませんでした。彼女も無論それを意識してやっているので。わざと

(そのあしをひれのようにくねくねさせながら、ときどきさぐりをいれるように、わたしの)

その足を鰭のようにくねくねさせながら、時々探りを入れるように、私の

(めつきにそっとちゅういをくばりました。が、はきかえてしまうと、ぬぎすてたきものを)

眼つきにそっと注意を配りました。が、穿き換えてしまうと、脱ぎ捨てた着物を

(さっさとしまつして、)

さっさと始末して、

(「さよならあ」)

「さよならア」

(といいながら、とぐちのほうへふろしきづつみをひきずっていきました。)

と云いながら、戸口の方へ風呂敷包みを引き摺って行きました。

(「おい、かぎをおいていかないか」)

「おい、鍵を置いて行かないか」

(と、わたしはそのときはじめてこえをかけました。)

と、私はその時始めて声をかけました。

(「あ、そうそう」)

「あ、そうそう」

(とかのじょはいって、てさげぶくろからかぎをだして、)

と彼女は云って、手提袋から鍵を出して、

(「じゃ、ここへおいていくわよ。だけどもあたし、とてもいっぺんじゃ)

「じゃ、此処へ置いて行くわよ。だけどもあたし、とても一遍じゃ

(にもつがはこびきれないから、もういちどくるかもしれないわよ」)

荷物が運びきれないから、もう一度来るかも知れないわよ」

(「こないでもいい、おれのほうからあさくさのいえへとどけてやるから」)

「来ないでもいい、己の方から浅草の家へ届けてやるから」

(「あさくさへとどけられちゃこまるわ、すこしつごうがあるんだから。」)

「浅草へ届けられちゃ困るわ、少し都合があるんだから。」

(「そんならどこへとどけたらいいんだ」)

「そんなら何処へ届けたらいいんだ」

(「どこってあたし、まだきまっちゃあいないんだけれど、・・・・・・・・・」)

「何処ッてあたし、まだ極まっちゃあいないんだけれど、・・・・・・・・・」

(「こんげつちゅうにとりにこなけりゃ、おれはかまわずあさくさのほうへとどけるからな、)

「今月中に取りに来なけりゃ、己は構わず浅草の方へ届けるからな、

(そういつまでもおまえのものをおいとくわけにはいかないんだから」)

そういつまでもお前の物を置いとく訳には行かないんだから」

(「ええ、いいわ、じきどりにくるわ」)

「ええ、いいわ、直き取りに来るわ」

(「それから、ことわっておくけれど、いっぺんではこびきれるようにくるまでももって、)

「それから、断って置くけれど、一遍で運びきれるように車でも持って、

(つかいのものをよこしておくれ、おまえじしんでとりにこないで」)

使の者を寄越しておくれ、お前自身で取りに来ないで」

(「そう、じゃ、そうします」)

「そう、じゃ、そうします」

(そしてかのじょはでていきました。)

そして彼女は出て行きました。

(これであんしんとおもっていると、にさんにちすぎたばんのくじごろ、わたしがあとりえでゆうかんを)

これで安心と思っていると、二三日過ぎた晩の九時頃、私がアトリエで夕刊を

(よんでいるとき、またがたりというおとがして、おもてのどーあへだれかがかぎを)

読んでいる時、又ガタリと云う音がして、表のドーアへ誰かが鍵を

(さしこみました。)

挿し込みました。

(「だれ?」)

二十五 「誰?」

(「あたしよ」)

「あたしよ」

(いうとどうじにばたんととがあいて、くろい、おおきな、くまのようなぶったいがこがいの)

云うと同時にバタンと戸が開いて、黒い、大きな、熊のような物体が戸外の

(やみからへやへちんにゅうしてきましたが、たちまちぱっとそのくろいものをぬぎすてると、)

闇から部屋へ闖入して来ましたが、忽ちぱッとその黒い物を脱ぎ捨てると、

(こんどはきつねのようにしろいかただのうでだのをあらわにした、うすいみずいろの)

今度は狐のように白い肩だの腕だのを露わにした、うすい水色の

(ふらんすちりめんのどれすをまとった、ひとりのみなれないわかいせいようのふじんでした。)

仏蘭西ちりめんのドレスを纏った、一人の見馴れない若い西洋の婦人でした。

(にくづきのいいうなじにはにじのようにぎらぎらひかるすいしょうのくびかざりをして、まぶかにかぶった)

肉づきのいい項には虹のようにギラギラ光る水晶の頸飾りをして、眼深に被った

(くろびろうどのぼうしのしたには、いっしゅしんぴなかんじがするほどおそろしくしろいはなのせんたんと)

黒天鵞絨の帽子の下には、一種神秘な感じがするほど恐ろしく白い鼻の先端と

(あごのさきがみえ、なまなましいしゅのいろをしたくちびるがきわだっていました。)

頤の先が見え、生々しい朱の色をした唇が際立っていました。

(「こんばんはあ」)

「今晩はア」

(と、そういうこえがして、そのせいようじんがぼうしをとったとき、わたしははじめて「おや、)

と、そう云う声がして、その西洋人が帽子を取った時、私は始めて「おや、

(このおんなは?」とそうおもい、それからしみじみかおをながめているうちに、ようやく)

この女は?」とそう思い、それからしみじみ顔を眺めているうちに、漸く

(かのじょがなおみであることにきがつきました。)

彼女がナオミであることに気がつきました。

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