中1歴史 鎌倉幕府

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(しらかわてんのうはじょうこうになってからも、いんせいせいじをおこなった)

白河天皇は上皇になってからも、院政政治を行った

(ほうげんのらんとへいじのらんでは、てんのうとじょうこう・きぞくがたいりつした)

保元の乱と平治の乱では、天皇と上皇・貴族が対立した

(たいらのきよもりは、はじめてぶしのせいけんをたてた、へいしのとうりょうである)

平清盛は、初めて武士の政権を立てた、平氏の棟梁である

(きよもりのいちぞくは、おおくのしょうえんや、こうりょうをしはいした)

清盛の一族は、多くの荘園や、公領を支配した

(きよもりは、そうのくにとのぼうえきのため、せとないかいのこうろをととのえた)

清盛は、宋の国との貿易のため、瀬戸内海の航路を整えた

(きよもりは、にっそうぼうえきのためにひょうごけんのみなとをせいびした)

清盛は、日宋貿易のために兵庫県の港を整備した

(きよもりがごしらかわてんのうをべっそうにとじこめ、げんじはそれにはんぱつした)

清盛が後白河天皇を別荘にとじこめ、源氏はそれに反発した

(よりともは、かくちのぶしときょうどうして、へいしにたいこうしてへいをあげた)

頼朝は、各地の武士と共同して、平氏に対抗して兵をあげた

(よりともは、おとうとのよしつねにめいじてへいしをせめほろぼした)

頼朝は、弟の義経に銘じて平氏を攻め滅ぼした

(よしつねたちげんじと、きよもりたちへいしのぐんはせとないかいでたたかった)

義経たち源氏と、清盛たち平氏の軍は瀬戸内海で戦った

(へいしいちぞくは、1185ねんにやまぐちけんだんのうらでほろぼされた)

平氏一族は、1185年に山口県壇之浦で滅ぼされた

(へいしめつぼうご、よりともはいくさでこうせきをたてたよしつねがじゃまになった)

平氏滅亡後、頼朝は戦で功績をたてた義経がじゃまになった

(かまくらばくふは、ぜんこくをとうちするために、しゅご・じとうをせっちした)

鎌倉幕府は、全国を統治するために、守護・地頭を設置した

(くにごとにおかれ、ぐんじやけいさつにかんするやくめをになったのは、しゅご)

国ごとに置かれ、軍事や警察に関する役目を担ったのは、守護

(しょうえんごとにおかれ、ぜいのとりたてをになったのが、じとう)

荘園ごとに置かれ、税の取り立てを担ったのが、地頭

(1192ねん、よりともはせいいたいしょうぐんになり、かまくらばくふをひらいた)

1192年、頼朝は征夷大将軍になり、鎌倉幕府を開いた

(しょうぐんが、ぶしにたいしりょうちをあたえたりほごすることをごおんという)

将軍が、武士に対し領地を与えたり保護することを御恩という

(しょうぐんにちゅうせいをちかったぶしは、ごけにんとよばれた)

将軍に忠誠をちかった武士は、御家人と呼ばれた

(ごけにんが、たたかいのさいにいのちをすててたたかうことを、ほうこうという)

御家人が、戦いの際に命を捨てて戦うことを、奉公という

(よりとものしご、ごけにんのほうじょうときまさが、ばくふのじっけんをにぎった)

頼朝の死後、御家人の北条時政が、幕府の実権を握った

など

(ほうじょうしはしっけんというくらいにつき、だいだいそのちいをどくせんした)

北条氏は執権という位につき、代々その地位を独占した

(しっけんたち、ごけにんのはなしあいによるせいじを、しっけんせいじという)

執権たち、御家人の話し合いによる政治を、執権政治という

(1221ねん、ごとばじょうこうは、じょうきゅうのらんをおこした)

1221年、後鳥羽上皇は、承久の乱を起こした

(じょうきゅうのらんにやぶれたごとばじょうこうは、おきのしまにながされた)

承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は、隠岐の島に流された

(ろくはらたんだいは、ちょうていをかんしするためにもうけられた)

六波羅探題は、朝廷を監視するために設けられた

(1232ねん、ごせいばいしきもくがせいていされた)

1232年、御成敗式目が制定された

(ごせいばいしきもくは、ごけにんやりょうしゅあらそさいばんきじゅんときのさいばんきじゅん)

御成敗式目は、御家人や荘園領主が争う時の裁判基準

(ごけにんたちは、ぶけづくりにすみ、じきゅうじそくのせいかつをおこなっていた)

御家人たちは、武家造に住み、自給自足の生活を行っていた

(ごけにんは、かさがけややぶさめなどのくんれんをおこなって、たたかいにそなえた)

御家人は、笠懸や流鏑馬などの訓練を行って、戦いに備えた

(かまくらじだいのはじめごろまで、のうさくぶつのしゅうかくがふえた)

鎌倉時代の初めごろまで、農作物の収穫が増えた

(くさきをやいたはいで、ひりょうがつくられるようになったのも、かまくらじだい)

草木を焼いた灰で、肥料が作られるようになったのも、鎌倉時代

(うまやうしをのうさぎょうにりようし、てつせいののうぐがひろまった)

馬や牛を農作業に利用し、鉄製の農具がひろまった

(おなじたはたでこめとむぎをこうごにつくるにもうさくもはじまった)

同じ田畑で米と麦を交互に作る二毛作も始まった

(のうぐをつくるかじやや、そめものをおこなうこんやなどのしゅこうぎょうしゃ)

農具を作る鍛冶屋や、染め物を行う紺屋などの手工業者

(げつに3かいひらかれるていきいちは、たくさんのひとでにぎわった)

月に3回開かれる定期市は、たくさんの人でにぎわった

(かまくらじだいの、ぶしごのみのちからづよいぶんかを、かまくらぶんかという)

鎌倉時代の、武士好みの力強い文化を、鎌倉文化という

(こんごうりきしぞうは、うんけいとそのでしたちによってつくられた)

金剛力士像は、運慶とその弟子たちによって作られた

(そうのけんちくようしきをとりいれてさいけんされた、とうだいじなんだいもん)

宋の建築様式を取り入れて再建された、東大寺南大門

(「こんごうりきしぞう」は、ならのとうだいじにあんちされている)

「金剛力士像」は、奈良の東大寺に安置されている

(ごとばじょうこうのめいれいで、ふじわらさだいえがしんこきんわかしゅうをあんだ)

後鳥羽上皇の命令で、藤原定家が新古今和歌集を編んだ

(ずいひつぶんとしてゆうめいなのは、よしだけんこうの「つれづれぐさ」である)

随筆文として有名なのは、吉田兼好の「徒然草」である

(げんじとへいしのたたかいをえがいたへいけものがたりは、びわほうしがかたった)

源氏と平氏の戦いを描いた平家物語は、琵琶法師が語った

(へいけものがたりは、ぐんきものとよばれる)

平家物語は、軍記物と呼ばれる

(なむあみだぶつととなえれば、だれでもごくらくじょうどにいけるじょうどしゅう)

南無阿弥陀仏と唱えれば、だれでも極楽浄土に行ける浄土宗

(じょうどしゅうは、ほうねんによりひらかれた)

浄土宗は、法然により開かれた

(ほうねんのでしのしんらんは、じょうどしんしゅうをひらいた)

法然の弟子の親鸞は、浄土真宗を開いた

(56おく7000まんねんごにあみだにょらいがせかいをすくうじょうどしんしゅう)

56億7000万年後に阿弥陀如来が世界を救う浄土真宗

(いっぺんは、ねんぶつをおどりながらとなえるじしゅうをひらいた)

一遍は、念仏を踊りながら唱える時宗を開いた

(なむみょうほうれんげきょうをとなえれば、ひともくにもすくわれるにちれんしゅう)

南無妙法蓮華経を唱えれば、人も国も救われる日蓮宗

(にちれんによってひらかれたにちれんしゅう)

日蓮によって開かれた日蓮宗

(えいさいやどうげんは、ざぜんによってさとりをひらくぜんしゅうをつたえた)

栄西や道元は、座禅によってさとりをひらく禅宗を伝えた

(ちょうど(じょうど)よかった、ほうねん。じょうどしんしゅうしらん(しんらん))

ちょうど(浄土)よかった、法然。浄土真宗知らん(親鸞)

(にちれん、しゅう(にちれんしゅう)いっかい、ほっけー(ほっけ)する)

日蓮、週(日蓮宗)一回、ホッケー(法華)する

(じしゅう(じしゅう)、いっぺん(いっぺん)おどりねんぶつさんかしてみる?)

次週(時宗)、いっぺん(一遍)おどり念仏参加してみる?

(えいさいと、かいて「ようさい」、りんざいしゅう)

栄西と、書いて「ようさい」、臨済宗

(どうげんも、そうとうすき(そうとうしゅう)だね、ざぜんとさとり)

道元も、そうとう好き(曹洞宗)だね、座禅とさとり

(そうとうしゅう、りんざいしゅうは、ざぜんをくんでさとりをひらくぜんしゅう)

曹洞宗、臨済宗は、座禅を組んで悟りを開く禅宗

(ぜんしゅうは、ざぜんをくむひまのあるけんりょくしゃにこのまれた)

禅宗は、座禅を組むひまのある権力者に好まれた

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