産屋物語 与謝野晶子 2

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投稿者投稿者神楽@社長推しいいね0お気に入り登録
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与謝野晶子の短編小説です

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問題文

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(たとえばふじんをあさましいにくてきいっぽうにへんしたもののようにかくしょうせつがあります。たまには)

例えば婦人を浅ましい肉的一方に偏した者のように書く小説があります。偶には

(そういうびょうてきなふじんもありましょうが、ふじんがすべてそうであるとは)

そういう病的な婦人もありましょうが、婦人が都[すべ]てそうであるとは

(おもわれません。これはふじんでなくてはなかなかわかりにくいことで、)

思われません。これは婦人でなくてはなかなか解りにくい事で、

(おとこのかかれたもののみではしんようしかねます。おんなのだいぶぶんがおとこのほうにりかいされぬとは)

男の書かれた物のみでは信用し兼ねます。女の大部分が男の方に理解されぬとは

(おもわれませんが、こういういちぶいちぶにはおんなでなくてはわからぬてんが)

思われませんが、こういう一部一部には女でなくては解らぬ点が

(あるのでしょう。わたくしどもからおとこのかたをみるとやはりいちぶいちぶにわからぬてんが)

あるのでしょう。私どもから男の方を見るとやはり一部一部に解らぬ点が

(あります。てておやがこどもをははといっしょにあいしますことなども)

あります。父親[てておや]が小児[こども]を母と一緒に愛します事なども

(ちょっとそのこころもちがわかりません。ふじんはかいたいしたときからこどものために)

ちょっとその心持が解りません。婦人は懐胎した時から小児のために

(くつうをします。たいないでこどもがうごくようになればはははいっしゅのしんぴなかんにうたれて)

苦痛をします。胎内で小児が動くようになれば母は一種の神秘な感に打たれて

(そのこにたいするしたしみをおぼえます。ぶんべんのさいにはいのちをかけて)

その児に対する親[したし]みを覚えます。分娩の際には命を賭けて

(じぶんのにくのいちぶをさくというかんをせつじつにいだきます。うまれたこはうみのそこにおりて)

自分の肉の一部を割くという感を切実に抱きます。生れた児は海の底に下りて

(とりえたたまともうしましょうか、とてもくらべもののないほど)

採り得た珠[たま]と申しましょうか、とても比べ物のないほど

(かわゆうおもわれます。おとこはこどもとのあいだにせいしんじょうにもにくたいてきにもこういうかんけいが)

可愛う思われます。男は小児との間に精神上にも肉体的にもこういう関係が

(みじんもないのになぜかわいいのでしょうか。)

微塵もないのに何故可愛いのでしょうか。

(またしょうせつをよみましても、かたいせんせいの「ふとん」のしゅじんこうがきたならしいふとんをかぶって)

また小説を読みましても、花袋先生の「蒲団」の主人公が汚らしい蒲団を被って

(なかれるあたりのおとこのこころもちはどうしてもわたくしどもにわかりかねます。)

泣かれる辺[あたり]の男の心持はどうしても私どもに解り兼ねます。

(ああいうしょうせつをよむと、にっかんてき、どうぶつてきであるというのはふじんにくだす)

ああいう小説を読むと、肉感的、動物的であるというのは婦人に下す

(はんだんでなくて、かえっておとこにくだすのがただしくはないかなどとかんがえます。)

判断でなくて、かえって男に下すのが正しくはないかなどと考えます。

(おんなからみれば、おとこはいろいろのことにたずさわりながら)

女から見れば、男は種種[いろいろ]の事に関係[たずさわ]りながら

(そのせわしいなかでたえずしゅうぎょうふなどにてをだす。よのなかのおとこでおんなにかんけいせずに)

その忙しい中で絶えず醜業婦などに手を出す。世の中の男で女に関係せずに

など

(おわるというひとはほとんどありますまい。おんなははたちいぜん、それから)

終るという人は殆どありますまい。女は二十[はたち]以前、それから

(ははになってあとというものはおおむねそれらのよくがすくなくなり、またほとんどわすれるものさえ)

母になって後という者は概ねそれらの欲が少くなり、また殆ど忘れる者さえ

(あるともうしますのに、きんねんおとこのぶんがくしゃのしょせんせいのなかにはちゅうねんのこいと)

あると申しますのに、近年男の文学者の諸先生の中には中年の恋と

(もうすようなことがおこなわれます。またみせいねんのだんしやろく、ななじゅっさいのだんしまでが)

申すような事が行われます。また未成年の男子や六、七十歳の男子までが

(わかいふじんにたわむれるじつれいはめにあまるほどあります。)

若い婦人に戯れる実例は目に余るほどあります。

(しかしびょうてきなふじんのじょがいれいをれいとしておんなをにくかんてきだとだんぜられないごとく、おとこをも)

しかし病的な婦人の除外例を例として女を肉感的だと断ぜられない如く、男をも

(いちがいにどうぶつてきであるとはもうされますまい。「ふとん」のしゅじんこうなどはやはりびょうてきな)

一概に動物的であるとは申されますまい。「蒲団」の主人公などはやはり病的な

(だんしのじょがいれいでしょう。いったいだんじょのくべつともうすものがこれまでのは)

男子の除外例でしょう。一体男女の区別と申すものが従来[これまで]のは

(あまりにうわべばかりいちぶぶんばかりをひょうじゅんにしてはおりませんか。)

余りに表面[うわべ]ばかり一部分ばかりを標準にしてはおりませんか。

(せけんにはおんなのようなようぼう、ひふ、こわづかい、きしつ、かんじょうをもった)

世間には女のような容貌、皮膚、声遣[こわづか]い、気質、感情を持った

(だんしがあり、またおとこのようなそれらのいっさいをもっておるふじんがあります。すなわち)

男子があり、また男のようなそれらの一切を持っておる婦人があります。即ち

(こをうむきのうをそなえたおとこ、ぶんがくしゃ、きょうし、のうふ、てつがくしゃとなる)

子を産む機能を備えた男、文学者、教師、農夫、哲学者となる

(ぎりょうをもったおんなというようなひとがずいぶんあるかとぞんじます。)

技倆[ぎりょう]を持った女というような人が随分あるかと存じます。

(いろいろのがくりといろいろのじっけんとからしらべましたならだんじょのくべつのひょうじゅんを)

種種[いろいろ]の学理と種種の実験とから調べましたなら男女の区別の標準を

(せいしょくのてんばかりにとるのはまちがいかもしれません。そうすればだんじょのいずれかが)

生殖の点ばかりに取るのは間違かも知れません。そうすれば男女のいずれかが

(まったくにくかんてきであるというようなこともまちがいであって、にくかんてきなひとは)

全く肉感的であるというような事も間違であって、肉感的な人は

(だんじょのいずれにもたしょうあり、もしくはにんげんはいっぱんにたしょうにくかんてきであるということに)

男女のいずれにも多少あり、もしくは人間は一般に多少肉感的であるという事に

(きするかもしれません。しょうせつにはそういうところまでがくりとじっさいのかんさつとで)

帰するかも知れません。小説にはそういう所まで学理と実際の観察とで

(かかれていなければしんぽしたとはもうされませんでしょう。)

書かれていなければ進歩したとは申されませんでしょう。

(おとこのさっかにしんのおんなはかけないかもしれぬというせつがありますけれど、)

男の作家に真の女は書けないかも知れぬという説がありますけれど、

(どうでしょうか。おんなにはいくぶんおんなでなければわからぬというてんもまえにもうしたとおり)

どうでしょうか。女には幾分女でなければ解ぬという点も前に申した通り

(ありましょうが、おなじく「ひと」であるおんなのだいぶぶんがおとこのかたにわからぬはずは)

ありましょうが、同じく「人」である女の大部分が男の方に解らぬはずは

(ないでしょう。よしふつうのだんしにはわからずとも、それがするどいかんさつとかんじゅりょくとで)

ないでしょう。よし普通の男子には解らずとも、それが鋭い観察と感受力とで

(りょうかいせられるのがぶんがくしゃではありますまいか。いくぶんおんなでなければわからぬという)

領解せられるのが文学者ではありますまいか。幾分女でなければ解らぬという

(てんさえもぶんがくしゃのみにはわかりそうなものだとわたしはぞんじます。ざいにんにならねば)

点さえも文学者のみには解りそうなものだと私は存じます。罪人にならねば

(ざいにんのこころもちがわからぬようではぶんがくしゃもつまらぬものになりましょう。さばくのなかのいぬは)

罪人の心持が解らぬようでは文学者も詰らぬ物になりましょう。沙漠の中の犬は

(にりさきのひとのにおいをかぎしるともうします。)

二里先の人の臭いを嗅ぎ知ると申します。

(おんなのことはふじんのさっかがかいたならばうまくそのしんそうをうつすことができるかともうすに、)

女の事は婦人の作家が書いたならば巧くその真相を写す事が出来るかと申すに、

(これまでのところではまだわがくにのじょりゅうさっかのふでにそういうようすが)

従来[これまで]の処ではまだ我国の女流作家の筆にそういう様子が

(みえません。だんしをうつすのはおとこのかたがおじょうずであることはもうすまでもないので、)

見えません。男子を写すのは男の方が御上手である事は申すまでもないので、

(おんなのかいたおとこはもちろんうまくいきません。いちようさんのしょうせつのおとこなどがそのれいですが、)

女の書いた男は勿論巧く行きません。一葉さんの小説の男などがその例ですが、

(おんなのかくおんなもたいていやはりうそのおんな、おとこのどくしゃにきにいりそうなおんなになっているかと)

女の書く女も大抵やはり嘘の女、男の読者に気に入りそうな女になっているかと

(ぞんじます。いちようさんのおかきになったおんながおとこのかたにたいそうきにいったのは)

存じます。一葉さんのお書きになった女が男の方に大層気に入ったのは

(もとよりさいひつのせいですけれども、またいくぶんげいじゅつでこしらえあげたおんなが)

固[もと]より才筆のせいですけれども、また幾分芸術で拵え上げた女が

(かいてあるからでしょう。)

書いてあるからでしょう。

(おんなはおおむかしからおとこにたいするひつようじょういくぶんだれもきょうしょくのせいをやしなうてうわべを)

女は大昔から男に対する必要上幾分誰も矯飾の性を養うて表面[うわべ]を

(よそおうことになっております。でじぶんのびしょもしゅうしょもかくして、なるべくおとこの)

装う事になっております。で自分の美所も醜所も隠して、なるべく男の

(きにいるようなことをしぜんおとこからおしえられたとおりにおこなうというばあいがあろうと)

気に入るような事を自然男から教えられた通に行うという場合があろうと

(ぞんじます。おんなのなすことのかはんはもほうであるというのはけっしておんなのほんしょうではなく、)

存じます。女の為す事の過半は模倣であるというのは決して女の本性ではなく、

(ひさしいあいだじぶんをおおうようにしたしゅうかんがいまではだいにのせいしつに)

久しい間自分のを掩[おお]うようにした習慣が今では第二の性質に

(なったのです。ぶんがくをかくにしてもおんなはおとこのさくもつをてほんにして)

なったのです。文学を書くにしても女は男の作物を手本にして

(おとこのきにいるようなことやおとこのめにえいじたようなことをかこうとします。おんなは)

男の気に入るような事や男の目に映じたような事を書こうとします。女は

(おとこのようにじこをはっきしてさくをいたすことをえんりょしているところからおんなのみたしんのせそうや)

男のように自己を発揮して作を致す事を遠慮している所から女の見た真の世相や

(しんのおんながでてまいりません。これをごかいしておんなにはきゃっかんびょうしゃができず、しょうせつが)

真の女が出て参りません。これを誤解して女には客観描写が出来ず、小説が

(かけぬもののようにもうすひとがあります。)

書けぬもののように申す人があります。

(しかしとくがわじだいからめいじのきょうへかけてこそじょりゅうのさっかはでませんが、)

しかし徳川時代から明治の今日へ掛けてこそ女流の作家は出ませんが、

(へいあんあさいごのぶんがくではだんしがみなおんなのしょうせつをてほんにしてそれをもほうして)

平安朝以後の文学では男子が皆女の小説を手本にしてそれを模倣して

(およばざることをはじております。さいぶんにとんだおんながしんじつにじこを)

及ばざる事を愧[は]じております。才文に富んだ女が真実に自己を

(はっきしたならば、「げんじものがたり」のようなたくみなさくがこのあと)

発揮したならば、『源氏物語』のような巧[たくみ]な作がこの後

(とてもできないとはかぎりません。むらさきしきぶのかいたじょせいはどれもとうじの)

とても出来ないとは限りません。紫式部の書いた女性はどれも当時の

(しゃじつであろうとおもわれ、おんながみてもおもしろうございます。おんなのみにくいほうめんも)

写実であろうと思われ、女が見ても面白う御座います。女の醜い方面も

(そうとうにでております。それにしてもまだじゅうぶんおんなのあんこくめんを「ちょもんじゅう」や)

相当に出ております。それにしてもまだ十分女の暗黒面を『著聞集』や

(「こんじゃくものがたり」などのようにろこつにかいてないのは、とうじのてほんであるしなぶんがくに)

『今昔物語』などのように露骨に書いてないのは、当時の手本である支那文学に

(そういうたぐいのものがなかったせいでもありましょうが、ひとつはおとこにひどく)

そういう類の物がなかったせいでもありましょうが、一つは男に甚[ひど]く

(おんなのみにくいところをみせまいというきょうしょくのこころ、こうせいのどうとくかのことばでもうせば)

女の醜い所を見せまいという矯飾の心、後世の道徳家の言葉で申せば

(ていしゅくのこころからかかなかったのでしょう。)

貞淑の心から書かなかったのでしょう。

(むらさきしきぶはおんなをうまくかきましたにかかわらず、おとこはそれほどでもありません。)

紫式部は女を巧く書きましたにかかわらず、男はそれほどでもありません。

(ひかるげんじなどはどうもりそうのじんぶつでとうじのれきしをよんだものにはこういうだんしの)

光源氏などはどうも理想の人物で当時の歴史を読んだ者にはこういう男子の

(そんざいをしんぜられません。むかしからおんなにはおとこをかくことが)

存在を信ぜられません。昔から女には男を書く事が

(むずかしいのでしょう。ちかまつのかきましたじょせいのなかでおたねにおさい、)

困[むず]かしいのでしょう。近松の書きました女性の中でお種にお才、

(こはるとおさんなどはおんながよんでもうなずかれますが、ていじょとかちゅうぎにこったおんななどは)

小春とお三などは女が読んでも頷かれますが、貞女とか忠義に凝った女などは

(にんぎょうのようにおもわれます。)

人形のように思われます。

(ふじんのしょうせつかがこのあとせいこうしようといたすには、これまでのように)

婦人の小説家がこの後成功しようと致すには、従来[これまで]のように

(おとこのかたのしょうせつをもほうすることをやめ、せけんにおんならしくみせようとする)

男の方の小説を模倣する事を廃[や]め、世間に女らしく見せようとする

(きょうしょくのこころをなげうって、じこのかんじょうをねり、じこのかんさつをするどくして、)

矯飾の心を抛[なげう]って、自己の感情を練り、自己の観察を鋭くして、

(えんりょなくおんなのこころもちをしんじつにうちだすのがさいじょうのほうかとぞんじます。またおんなのさっかが)

遠慮なく女の心持を真実に打出すのが最上の法かと存じます。また女の作家が

(こういうたいどでものをかけば、きちょうをてっしておんなのしんめんぼくを)

こういう態度で物を書けば、几帳を徹して女の真面目[しんめんぼく]を

(だすのですから、おんなのびもしゅうもよくおとこのかたにわかることになりましょう。また)

出すのですから、女の美も醜も能[よ]く男の方に解る事になりましょう。また

(わたしはこういうたいどをとればおんなにもしょうせつがかけるものだとしんじております。)

私はこういう態度を取れば女にも小説が書けるものだと信じております。

(ともうすと、おんなはたいへんにあんこくめんのおおいもの、おざのさめることの)

と申すと、女は大変に暗黒面の多い者、御座の醜[さ]める事の

(おおいものであって、それをきたんなくおんなじしんがかいたらふうぞくをみだすなどとおもうひとも)

多い者であって、それを忌憚なく女自身が書いたら風.俗を乱すなどと想う人も

(ありましょうが、おんなとてもひとですもの、おとことかくべつかわっておとったてんの)

ありましょうが、女とても人ですもの、男と格別変って劣った点の

(あるものでなく、あるいはうつくしいてんはおとこよりおおく、みにくいてんはおとこよりすくないかも)

ある者でなく、あるいは美しい点は男より多く、醜い点は男より少いかも

(しれません。おんなばかりでなく、おとこのかたもずいぶんまだみにくいところを)

知れません。女ばかりでなく、男の方も随分まだ醜い所を

(かくしておられるのではないでしょうか。)

隠しておられるのではないでしょうか。

(「こじき」のおんなしじんや、おののこまち、せいしょうなごん、いずみしきぶなどのうたったものを)

『古事記』の女詩人や、小野小町、清少納言、和泉式部などの歌った物を

(みますと、おんながしゅかんのはげしいこまかなえいたんをのこしておりますが、このかたにはわりあいに)

見ますと、女が主観の激しい細かな詠歎を残しておりますが、この方には割合に

(きょうしょくがおこなわれずにしんそつにじょせいのかんじょうがでております。わたしはしょうせつかばかりでなく、)

矯飾が行われずに真率に女性の感情が出ております。私は小説家ばかりでなく、

(しいかのさくしゃとしてもまたあたらしいふじんのでてこられることを)

詩歌[しいか]の作者としてもまた新しい婦人の出て来られることを

(いのっておるのです。)

祈っておるのです。

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