紫式部　源氏物語　帚木　1　與謝野晶子訳

(みせた。だいじがるしゅうとのうだいじんけへいくことはこのひともきらいで、)

見せた。大事がる舅の右大臣家へ行くことはこの人もきらいで、

(こいのあそびのほうがすきだった。けっこんしたおとこはだれもつまのいえでせいかつするが、)

恋の遊びのほうが好きだった。結婚した男はだれも妻の家で生活するが、

(このひとはまだおやのいえのほうにりっぱにかざったいまやしょさいをもっていて、)

この人はまだ親の家のほうにりっぱに飾った居間や書斎を持っていて、

(げんじがいくときにはかならずついていって、よるも、ひるも、がくもんをするのも、)

源氏が行く時には必ずついて行って、夜も、昼も、学問をするのも、

(あそぶのもいっしょにしていた。けんそんもせず、けいいをひょうすることもわすれるほど)

遊ぶのもいっしょにしていた。謙遜もせず、敬意を表することも忘れるほど

(ぴったりとなかよしになっていた。 さみだれがそのひもあさからふっていたゆうがた、)

ぴったりと仲よしになっていた。 五月雨がその日も朝から降っていた夕方、

(てんじょうやくにんのつめしょもあまりひとかげがなく、げんじのきりつぼもへいぜいよりしずかなきのする)

殿上役人の詰め所もあまり人影がなく、源氏の桐壺も平生より静かな気のする

(ときに、ひをちかくともしていろいろなしょもつをみていると、そのほんをとりだした)

時に、灯を近くともしていろいろな書物を見ていると、その本を取り出した

(おきだなにあった、それぞれちがったいろのかみにかかれたてがみのからのないようを)

置き棚にあった、それぞれ違った色の紙に書かれた手紙の殻の内容を

(とうのちゅうじょうはみたがった。 「ぶなんなのをすこしはみせてもいい。)

頭中将は見たがった。 「無難なのを少しは見せてもいい。

(みぐるしいのがありますから」 とげんじはいっていた。)

見苦しいのがありますから」 と源氏は言っていた。

(「みぐるしくないかときになさるのをみせていただきたいのですよ。へいぼんなおんなの)

「見苦しくないかと気になさるのを見せていただきたいのですよ。平凡な女の

(てがみなら、わたくしにはわたくしそうとうにかいてよこされるのがありますからいいんです。)

手紙なら、私には私相当に書いてよこされるのがありますからいいんです。

(とくしょくのあるてがみですね、うらみをいっているとか、あるゆうがたにきてほしそうに)

特色のある手紙ですね、怨みを言っているとか、ある夕方に来てほしそうに

(かいてくるてがみ、そんなのをはいけんできたらおもしろいだろうとおもうのです」)

書いて来る手紙、そんなのを拝見できたらおもしろいだろうと思うのです」

(とうらまれて、はじめからほんとうにひみつなだいじのてがみなどは、だれがぬすんでいくか)

と恨まれて、初めからほんとうに秘密な大事の手紙などは、だれが盗んで行くか

(しれないたななどにおくわけもない、これはそれほどのものでないのであるから、)

知れない棚などに置くわけもない、これはそれほどの物でないのであるから、

(げんじはみてもよいとゆるした。ちゅうじょうはすこしずつよんでみていう。)

源氏は見てもよいと許した。中将は少しずつ読んで見て言う。

(「いろんなのがありますね」 じしんのそうぞうだけで、だれとかかれとか)

「いろんなのがありますね」 自身の想像だけで、だれとか彼とか

(ひっしゃをあてようとするのであった。じょうずにいいあてるのもある、ぜんぜんけんとうちがいの)

筆者を当てようとするのであった。上手に言い当てるのもある、全然見当違いの

(ことを、それであろうとふかくついきゅうしたりするのもある。そんなときにげんじは)

ことを、それであろうと深く追究したりするのもある。そんな時に源氏は

(おかしくおもいながらあまりあいてにならぬようにして、そしてじょうずにみなをちゅうじょうから)

おかしく思いながらあまり相手にならぬようにして、そして上手に皆を中将から

(とりかえしてしまった。 「あなたこそおんなのてがみはたくさんもっているでしょう。)

取り返してしまった。 「あなたこそ女の手紙はたくさん持っているでしょう。

(すこしみせてほしいものだ。そのあとならたなのをぜんぶみせてもいい」)

少し見せてほしいものだ。そのあとなら棚のを全部見せてもいい」

(「あなたのごらんになるかちのあるものはないでしょうよ」)

「あなたの御覧になる価値のある物はないでしょうよ」

(こんなことからとうのちゅうじょうはおんなについてのかんそうをいいだした。)

こんな事から頭中将は女についての感想を言い出した。

(「これならばかんぜんだ、けってんがないというおんなはすくないものであるとわたくしはいまやっと)

「これならば完全だ、欠点がないという女は少ないものであると私は今やっと

(きがつきました。ただうわっつらなかんじょうでたっしゃなてがみをかいたり、こちらの)

気がつきました。ただ上っつらな感情で達者な手紙を書いたり、こちらの

(いうことにりかいをもっているようなりこうらしいひとはずいぶんあるでしょうが、)

言うことに理解を持っているような利巧らしい人はずいぶんあるでしょうが、

(しかもそこをちょうしょとしてとろうとすれば、きっとごうかくてんにはいるというものは)

しかもそこを長所として取ろうとすれば、きっと合格点にはいるという者は

(なかなかありません。じぶんがすこししっていることでとくいになって、ほかのひとを)

なかなかありません。自分が少し知っていることで得意になって、ほかの人を

(けいべつすることのできるいやみなおんながおおいんですよ。おやがついていて、だいじにして、)

軽蔑することのできる厭味な女が多いんですよ。親がついていて、大事にして、

(しんそうにそだっているうちは、そのひとのかたはしだけをしっておとこはじぶんのそうぞうで)

深窓に育っているうちは、その人の片はしだけを知って男は自分の想像で

(じゅうぶんおぎなってこいをすることになるというようなこともあるのですね。)

十分補って恋をすることになるというようなこともあるのですね。

(かおがきれいで、むすめらしくおおようで、そしてほかにようがないのですから、)

顔がきれいで、娘らしくおおようで、そしてほかに用がないのですから、

(そんなむすめにはひとつくらいのげいのじょうたつがのぞめないこともありませんからね。)

そんな娘には一つくらいの芸の上達が望めないこともありませんからね。

(それができると、なかにたったにんげんがいいことだけをはなして、けってんはかくして)

それができると、仲に立った人間がいいことだけを話して、欠点は隠して

(いわないものですから、そんなときにそれはうそだなどと、こちらもそらで)

言わないものですから、そんな時にそれはうそだなどと、こちらも空で

(だんていすることはふかのうでしょう、しんじつだろうとおもってけっこんしたあとで、)

断定することは不可能でしょう、真実だろうと思って結婚したあとで、

(だんだんあらがでてこないわけはありません」 ちゅうじょうがこういって)

だんだんあらが出てこないわけはありません」 中将がこう言って

(たんそくしたときに、そんなありきたりのけっこんしっぱいしゃではないげんじも、なにかこころに)

嘆息した時に、そんなありきたりの結婚失敗者ではない源氏も、何か心に

(うなずかれることがあるかびしょうをしていた。 「あなたがいまいった、)

うなずかれることがあるか微笑をしていた。 「あなたが今言った、

(ひとつくらいのげいができるというほどのとりえも、それもできないひとが)

一つくらいの芸ができるというほどのとりえも、それもできない人が

(あるだろうか」 「そんなところへははじめからだれもだまされていきませんよ、)

あるだろうか」 「そんな所へは初めからだれもだまされて行きませんよ、

(なにもとりえのないのと、すべてかんぜんであるのとはおなじほどにすくない)

何もとりえのないのと、すべて完全であるのとは同じほどに少ない

(ものでしょう。じょうりゅうにうまれたひとはだいじにされて、けってんもめだたないで)

ものでしょう。上流に生まれた人は大事にされて、欠点も目だたないで

(すみますから、そのかいきゅうはべつですよ。ちゅうのかいきゅうのおんなによってはじめてわれわれは)

済みますから、その階級は別ですよ。中の階級の女によってはじめてわれわれは

(あざやかな、こせいをみせてもらうことができるのだとおもいます。またそれから)

あざやかな、個性を見せてもらうことができるのだと思います。またそれから

(いちだんしたのかいきゅうにはどんなおんながいるのだか、まあわたくしにはあまりきょうみがもてない」)

一段下の階級にはどんな女がいるのだか、まあ私にはあまり興味が持てない」

(こういって、つうをふりまくちゅうじょうに、げんじはもうすこしそのかんさつを)

こう言って、通を振りまく中将に、源氏はもう少しその観察を

(かたらせたくおもった。 「そのかいきゅうのべつはどんなふうにつけるのですか。)

語らせたく思った。 「その階級の別はどんなふうにつけるのですか。

(じょう、ちゅう、げをなにできめるのですか。よいいえがらでもそのむすめのちちはふぐうで、)

上、中、下を何で決めるのですか。よい家柄でもその娘の父は不遇で、

(みじめなやくにんでまずしいのと、なみなみのみぶんからこうかんになりあがっていて、)

みじめな役人で貧しいのと、並み並みの身分から高官に成り上がっていて、

(それがとくいでぜいたくなせいかつをして、はじめからきぞくにまけないふうでいる)

それが得意で贅沢な生活をして、初めから貴族に負けないふうでいる

(いえのむすめと、そんなのはどちらへぞくさせたらいいのだろう」)

家の娘と、そんなのはどちらへ属させたらいいのだろう」