紫式部 源氏物語 榊 10 與謝野晶子訳
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問題文
(とうぐうはしばらくのあいだにうつくしくごせいちょうしておいでになった。ひさびさははみやと)
東宮はしばらくの間に美しく御成長しておいでになった。ひさびさ母宮と
(おあいになったよろこびにむちゅうになって、あまえてごらんになったりもするのが)
お逢いになった喜びに夢中になって、甘えて御覧になったりもするのが
(ひじょうにおかわいいのである。このかたからはなれてしんこうのせいかつにはいれるかどうかと)
非常におかわいいのである。この方から離れて信仰の生活にはいれるかどうかと
(ごじしんでぎもんがおこる。しかもごしょのなかのくうきは、ときにすいいにともなうじんしんのへんかを)
御自身で疑問が起こる。しかも御所の中の空気は、時に推移に伴う人心の変化を
(いちじるしくみせてじんせいはむじょうであるとおおしえしないではおかなかった。)
いちじるしく見せて人生は無常であるとお教えしないではおかなかった。
(たいこうのふくしゅうしんにもえておいでになることもめんどうであったし、)
太后の復讐心に燃えておいでになることも面倒であったし、
(きゅうちゅうへのでいりにもふかいなかんをあたえるかんぺんのこともたえられぬほどくるしくて、)
宮中への出入りにも不快な感を与える官辺のことも堪えられぬほど苦しくて、
(じぶんがげんざいのいちにいることは、かえってとうぐうをあやうくするものではないか)
自分が現在の位置にいることは、かえって東宮を危うくするものではないか
(などともはんもんをあそばすのであった。 「ながくおめにかからないでいるあいだに、)
などとも煩悶をあそばすのであった。 「長くお目にかからないでいる間に、
(わたくしのかおがすっかりかわってしまったら、どうおおもいになりますか」)
私の顔がすっかり変わってしまったら、どうお思いになりますか」
(とちゅうぐうがおいいになると、じっととうぐうはおかおをみつめてから、)
と中宮がお言いになると、じっと東宮はお顔を見つめてから、
(「しきぶのようにですか。そんなことはありませんよ」 とおわらいになった。)
「式部のようにですか。そんなことはありませんよ」 とお笑いになった。
(たよりないごようちさがおかわいそうで、 「いいえ。)
たよりない御幼稚さがおかわいそうで、 「いいえ。
(しきぶはとしよりですからみにくいのですよ。そうではなくて、かみなんかしきぶよりも)
式部は年寄りですから醜いのですよ。そうではなくて、髪なんか式部よりも
(みじかくなって、くろいきものなどをきて、よいのおぼうさまのようにわたくしはなろうと)
短くなって、黒い着物などを着て、夜居のお坊様のように私はなろうと
(おもうのですから、こんどなどよりもっとながくおめにかかれませんよ」)
思うのですから、今度などよりもっと長くお目にかかれませんよ」
(みやがおなきになると、とうぐうはまじめなかおにおなりになって、)
宮がお泣きになると、東宮はまじめな顔におなりになって、
(「ながくごしょへいらっしゃらないと、わたくしはおあいしたくてならなくなるのに」)
「長く御所へいらっしゃらないと、私はお逢いしたくてならなくなるのに」
(とおいいになったあとで、なみだがこぼれるのを、はずかしくおおもいになって)
とお言いになったあとで、涙がこぼれるのを、恥ずかしくお思いになって
(かおをおそむけになった。おかたにゆらゆらとするおぐしがきれいで、)
顔をおそむけになった。お肩にゆらゆらとするお髪がきれいで、
(おめつきのうつくしいことなど、ごせいちょうあそばすにしたがってただただげんじのかおが)
お目つきの美しいことなど、御成長あそばすにしたがってただただ源氏の顔が
(ひとつまたここにできたとよりおもわれないのである。おはがすこしくちて)
一つまたここにできたとより思われないのである。お歯が少し朽ちて
(くろばんでみえるおくちにえみをおみせになるうつくしさは、)
黒ばんで見えるお口に笑みをお見せになる美しさは、
(おんなのかおにしてみたいほどである。こうまでげんじににておいでになることだけが)
女の顔にしてみたいほどである。こうまで源氏に似ておいでになることだけが
(たまのきずであると、ちゅうぐうがおおもいになるのも、とりかえしがたいつみで)
玉の瑕であると、中宮がお思いになるのも、取り返しがたい罪で
(せけんをおそれておいでになるからである。)
世間を恐れておいでになるからである。