悪獣篇 泉鏡花 9

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投稿者投稿者神楽@社長推しいいね1お気に入り登録
プレイ回数188難易度(4.3) 4637打 長文
泉鏡花の中編小説です

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問題文

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(ああ、あくたのにおいでもすることか、みるのこうでもすることか、) ああ、芥の臭[におい]でもすることか、海松布[みる]の香でもすることか、 (ふねへからんでちったのは、) 船へ搦[から]んで散ったのは、 (じぶんとおなじびんみずの・・・・・・) 自分と同一鬢水[おなじびんみず]の・・・・・・ (うらこはねながらいきをひいた。) 浦子は寝ながら呼吸[いき]を引いた。 (いまもかやにしむばいかのかおり。) 今も蚊帳に染む梅花の薫[かおり]。 (あ、といっせいのこうとする、そでがかぜにとられたよう、むこうへひかれて、) あ、と一声退[の]こうとする、袖が風に取られたよう、向うへ引かれて、 (なびいたので、こなたへひいておさえたそのそでに、) 靡いたので、此方[こなた]へ曳[ひ]いて圧[おさ]えたその袖に、 (とみるとあやしいはりがあった。) と見ると怪しい針があった。 (あしのなかに、いろのしろいやせたおうな、こうけのこうしつともあろう、ひんのいい、) 蘆の中に、色の白い痩せた嫗、高家の後室ともあろう、品の可[い]い、 (めのあかいのが、もうろうとしゃがんだてから、くものいかと) 目の赤いのが、朦朧と踞[しゃが]んだ手から、蜘蛛の囲[い]かと
(みるいとひとすじ。) 見る糸一条[ひとすじ]。 (みもだえしてひっきると、そでははりをはずれたが、さらさらと) 身悶えして引切[ひっき]ると、袖は針を外れたが、さらさらと (かみがゆれみだれた。) 髪が揺れ乱れた。 (そのくろかみのふねにたれたのが、さかさにうえへ、ひょろひょろとほおを) その黒髪の船に垂れたのが、逆[さかさ]に上へ、ひょろひょろと頬を (かすめるとおもうと(いまにもおくれげがまくらにみだれて)からだが) 掠めると思うと(今にもおくれ毛が枕に乱れて)身体が (ちゅうにうくのであった。) 宙に浮くのであった。 (「ああ!」) 「ああ!」 (ふねのわがみはまぼろしで、くいにくろかみのからみながら、おぼれていたのがじぶんであろうか。) 船の我身は幻で、杭に黒髪の搦みながら、溺れていたのが自分であろうか。 (またおそろしいおうなのてに、あやしいはりにつりあげられて、このあせ、このみず、このまくら、) また恐しい嫗の手に、怪しい針に釣り上げられて、この汗、この水、この枕、 (そのゆめのふね、このからだ、しかくなへやもあなめいて、はだえのいろも) その夢の船、この身体、四角な室[へや]も穴めいて、膚[はだえ]の色も
など
(みずのそこ、おされていきのくるしげなるは、はやくおくつきの) 水の底、おされて呼吸[いき]の苦しげなるは、早く墳墓[おくつき]の (なかにこそ。あなや、このかみが、とおもうにこたえず、われしらず、) 中にこそ。呵呀[あなや]、この髪が、と思うに堪えず、我知らず、 (はっとおきた。) ハッと起きた。 (まくらをまえに、ひるがえったかいまきをせなのちからに、かたいもののごとく) 枕を前に、翻った掻巻[かいまき]を背[せな]の力に、堅いもののごとく (かいなをといて、そとそのびんをかきあげた。) 腕[かいな]を解いて、密[そ]とその鬢[びん]を掻上[かきあ]げた。 (わがかみながらひやりとつめたく、つまにみだれたちりめんの、) 我が髪ながらヒヤリと冷たく、褄[つま]に乱れた縮緬[ちりめん]の、 (あさぎもいろのすごきまで。) 浅葱も色の凄きまで。 (つかれてそのまま、かいまきにほおをつけたなり、うらこはうとうとしかけると、) 十六 疲れてそのまま、掻巻に頬をつけたなり、浦子はうとうとしかけると、 (むねのどうきにかみがゆれて、かしらをうえへひかれるのである。) 胸の動悸に髪が揺れて、頭[かしら]を上へ引かれるのである。 (「ああ、」) 「ああ、」 (とばかりこえもでず、びっくりしたようにまたおきなおった。) とばかり声も出ず、吃驚[びっくり]したようにまた起直った。 (しごきはひとしおしゃらどけして、つまのいとどしく) 扱帯[しごき]は一層[ひとしお]しゃらどけして、褄[つま]のいとどしく (くずれるのを、ものうげにもてあつかいつつ、せわしくかたで) 崩れるのを、懶[ものう]げに持て扱いつつ、忙[せわ]しく肩で (いきをしたが、) 呼吸[いき]をしたが、 (「ええ、だれもきてくれないのかねえ、わたしがひとりでこんなに、」) 「ええ、誰も来てくれないのかねえ、私が一人でこんなに、」 (とおもたいまげをうしろへふって、そのままのけざまにたおれそうな、) と重たい髷[まげ]をうしろへ振って、そのまま仰[のけ]ざまに倒れそうな、 (みをもんでひざでささえて、はっとまたいきをつくと、) 身を揉んで膝で支えて、ハッとまた呼吸[いき]を吐[つ]くと、 (とんとんといわにあたって、ときどきがけをあらうなみ。しょうふうがしんとして、) トントンと岩に当って、時々崖を洗う浪。松風が寂[しん]として、 (よるがふけたのにこころつくほど、まだひとこえもひとをよんではみないのであった。) 夜が更けたのに心着くほど、まだ一声も人を呼んでは見ないのであった。 (「まつか、」) 「松か、」 (ふじんはありあけにきえのこる、まぼろしのようなすがたで、かやのなかから) 夫人は残燈[ありあけ]に消え残る、幻のような姿で、蚊帳の中から (じょちゅうをよんだ。) 女中を呼んだ。 (けれども、じかにねいったもののよびさまされるじこくでない。) けれども、直に寐入[ねい]ったものの呼覚[よびさま]される時刻でない。 (だいいち(まつ、)という、そのこえが、でたか、それとも、ただよんでみようと) 第一(松、)という、その声が、出たか、それとも、ただ呼んで見ようと (こころにおもったばかりであるか、それさえもうつつである。) 心に思ったばかりであるか、それさえも現[うつつ]である。 (「まつや、」といって、ふじんはわがこえにわれとわがみみをかたむける。むねのあたりで、) 「松や、」と言って、夫人は我が声に我と我が耳を傾ける。胸のあたりで、 (こえはきこえたようであるが、くちへでたかどうか、こころもとない。) 声は聞えたようであるが、口へ出たかどうか、心許[こころもと]ない。 (まあ、くちもきけなくなったのか、となさけなく、こころぼそく、あせって、) まあ、口も利けなくなったのか、と情[なさけ]なく、心細く、焦って、 (ええと、かたてにさゆうのむねをゆすって、) ええと、片手に左右の胸を揺[ゆす]って、 (「まつや、」と、せきちょうしでもういちど。) 「松や、」と、急[せ]き調子でもう一度。 ((まつや、)とほそいのが、のどをはなれて、えんがきれて、) (松や、)と細いのが、咽喉[のど]を放れて、縁が切れて、 (たよりなくどこからか、あわれにさびしくこなたへきこえて、) たよりなくどこからか、あわれに寂しく此方[こなた]へ聞えて、 (はるかまをへだてたふすまのすみで、ひとをよんでいるかとうたがわれた。) 遥か間を隔てた襖の隅で、人を呼んでいるかと疑われた。 (「ああ、」とばかり、あらためて、その(まつや、)をいおうとすると、) 「ああ、」とばかり、あらためて、その(松や、)を言おうとすると、 (ためいきになってしまう。かやがあおるか、ふすまがゆれるか、たたみがうごくか、) 溜息になってしまう。蚊帳が煽るか、衾[ふすま]が揺れるか、畳が動くか、 (むねがおどるか。ひざをくみしめて、かたをだいても、びくびくとみうちがふるえて、) 胸が躍るか。膝を組み緊[し]めて、肩を抱いても、びくびくと身内が震えて、 (みだれたつまもはらはらとなびく。) 乱れた褄[つま]もはらはらと靡[なび]く。 (ひっつかんでまで、なでつけた、びんのけが、うるさくもほおへ) 引掴[ひッつか]んでまで、撫でつけた、鬢[びん]の毛が、煩くも頬へ (かかって、そのつどみゃくをうってちやかよう、としだいにいはげしくなるにつれ、) かかって、その都度脈を打って血や通う、と次第に烈[はげ]しくなるにつれ、 (うえへつられそうな、ゆめのはり、みぎわのおうな。) 上へ釣られそうな、夢の針、汀[みぎわ]の嫗。 (いまにもちゅうへ、あしがまくらをはなれやせん。このやねのうえにあしがはえて、だいどころの) 今にも宙へ、足が枕を離れやせん。この屋根の上に蘆が生えて、台所の (けむだしが、すいめんへあらわれると、ごみためのごみが) 煙出[けむだ]しが、水面へあらわれると、芥溜[ごみため]のごみが (よどんで、あわだつなかへ、このくろかみがさかさに、たぶさから) 淀[よど]んで、泡立つ中へ、この黒髪が倒[さかさ]に、髻[たぶさ]から (からまっていようもしれぬ。あれ、そういえば、のきをわたるはまかぜが、) 搦まっていようも知れぬ。あれ、そういえば、軒を渡る浜風が、 (さらさらみずのながるるひびき。) さらさら水の流るる響[ひびき]。 (うっとりときがとおいてんじょうへ、ずしりというしずんだものおと。) 恍惚[うっとり]と気が遠い天井へ、ずしりという沈んだ物音。 (ふねがそこったか、そのふねにはせんたろうとじぶんがのって・・・・・・) 船がそこったか、その船には銑太郎と自分が乗って・・・・・・ (いま、ふなべりへかみのけが。) 今、舷[ふなべり]へ髪の毛が。 (「あっ、」とこえたてて、うらこはおもわずまくらもとへすっくとたったが、) 「あッ、」と声立てて、浦子は思わず枕許へすッくと立ったが、 (あわれこれなりにおうなのはりで、てんじょうをぬけてつりあげられよう、と) あわれこれなりに嫗の針で、天井を抜けて釣上げられよう、と (あるにもあられず、ばたりひざをつくと、むねをそらして、) あるにもあられず、ばたり膝を支[つ]くと、胸を反らして、 (ぬけでるさまに、もすそをそと。) 抜け出る状[さま]に、裳[もすそ]を外。 (かやがかおへからんだのが、ぷんとはなをついたみずのにおい。) 蚊帳が顔へ搦んだのが、芬[ぷん]と鼻をついた水の香[におい]。 (ひきいきで、がぶりとひとくち、おぼるるかとのんだおもい、これやがてきつけになりぬ。) 引き息で、がぶりと一口、溺るるかと飲んだ思い、これやがて気つけになりぬ。 (めもようようはっきりと、かやのみどりはみずながら、くれないのきぬのへり、) 目もようよう判然[はっきり]と、蚊帳の緑は水ながら、紅の絹のへり、 (かくてさんごのえだならず。うらこはかろうじてかやのそとに、しょうじのかみにえがかれた、) かくて珊瑚の枝ならず。浦子は辛うじて蚊帳の外に、障子の紙に描かれた、 (むねしろきゆかたのいろ、こしのあさぎもくろかみも、ゆめならぬそのわれがすがたを、) 胸白き浴衣の色、腰の浅葱も黒髪も、夢ならぬその我が姿を、 (ありありとみたのである。) 歴然[ありあり]と見たのである。 (しばらくして、うらこはぎょくぼやのらんぷのこころを) 十七 しばらくして、浦子は玉[ぎょく]ぼやの洋燈[ランプ]の心を (あげて、あかるくなったともしに、ほうせきかがやくゆびのさきを、) 挑[あ]げて、明くなった燈[ともし]に、宝石輝く指の尖[さき]を、 (ちょっとびんにさわったが、あらためてまたかきあげる。) ちょっと髯[びん]に触ったが、あらためてまた掻上[かきあ]げる。 (そのてでえりをつくろって、しごきのしたでつまをひきあわせなど) その手で襟を繕って、扱帯[しごき]の下で褄[つま]を引合わせなど (したのであるが、こころには、おそろしいゆめにこうまでひろうして、いきづかいさえ) したのであるが、心には、恐ろしい夢にこうまで疲労して、息づかいさえ (せつないのに、とんだからだのせわをさせられて、めいわくであるがごとき) 切ないのに、飛んだ身体の世話をさせられて、迷惑であるがごとき (おもいがした。) 思いがした。 (かつそのからだをすてもせず、まめやかに、しんせつに) 且つその身体を棄[す]てもせず、老実[まめ]やかに、しんせつに (あしらうのが、なにかわれながら、みだしなみよく、ゆかしく、) あしらうのが、何か我ながら、身だしなみよく、床[ゆか]しく、 (やさしく、うれしいようにかんじたくらい。) 優しく、嬉しいように感じたくらい。 (ひとつくぐってみぞおちからひざのあたりへずりさがった、そのしごきのはしをひきあげざまに、) 一つくぐって鳩尾から膝のあたりへずり下った、その扱帯の端を引上げざまに、 (ともしをてにして、やなぎのこしをうえへひいてすらりとたったが、) 燈[ともし]を手にして、柳の腰を上へ引いてすらりと立ったが、 (こように、とおもいきった。) 小用[こよう]に、と思い切った。 (ときに、しょうじをあけて、そこがなにになってしまったか、はまか、やまか、いちりづかか、) 時に、障子を開けて、そこが何になってしまったか、浜か、山か、一里塚か、 (めいどのみちか。ふなむしがとぼうも、おおきなあぶらむしが) 冥途[めいど]の路[みち]か。船虫が飛ぼうも、大きな油虫が (かけだそうもりょうられない。ろうかへでるのはきがかりであったけれど、) 駈[か]け出そうも料られない。廊下へ出るのは気がかりであったけれど、 (なおそれよりもおそろしかったのは、そのときまでじぶんがねていた) なおそれよりも恐ろしかったのは、その時まで自分が寝て居た (かやのうちをうかがってみることで。) 蚊帳の内を窺[うかが]って見ることで。
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