悪獣篇 泉鏡花 9
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問題文
(ああ、あくたのにおいでもすることか、みるのこうでもすることか、)
ああ、芥の臭[におい]でもすることか、海松布[みる]の香でもすることか、
(ふねへからんでちったのは、)
船へ搦[から]んで散ったのは、
(じぶんとおなじびんみずの・・・・・・)
自分と同一鬢水[おなじびんみず]の・・・・・・
(うらこはねながらいきをひいた。)
浦子は寝ながら呼吸[いき]を引いた。
(いまもかやにしむばいかのかおり。)
今も蚊帳に染む梅花の薫[かおり]。
(あ、といっせいのこうとする、そでがかぜにとられたよう、むこうへひかれて、)
あ、と一声退[の]こうとする、袖が風に取られたよう、向うへ引かれて、
(なびいたので、こなたへひいておさえたそのそでに、)
靡いたので、此方[こなた]へ曳[ひ]いて圧[おさ]えたその袖に、
(とみるとあやしいはりがあった。)
と見ると怪しい針があった。
(あしのなかに、いろのしろいやせたおうな、こうけのこうしつともあろう、ひんのいい、)
蘆の中に、色の白い痩せた嫗、高家の後室ともあろう、品の可[い]い、
(めのあかいのが、もうろうとしゃがんだてから、くものいかと)
目の赤いのが、朦朧と踞[しゃが]んだ手から、蜘蛛の囲[い]かと
(みるいとひとすじ。)
見る糸一条[ひとすじ]。
(みもだえしてひっきると、そでははりをはずれたが、さらさらと)
身悶えして引切[ひっき]ると、袖は針を外れたが、さらさらと
(かみがゆれみだれた。)
髪が揺れ乱れた。
(そのくろかみのふねにたれたのが、さかさにうえへ、ひょろひょろとほおを)
その黒髪の船に垂れたのが、逆[さかさ]に上へ、ひょろひょろと頬を
(かすめるとおもうと(いまにもおくれげがまくらにみだれて)からだが)
掠めると思うと(今にもおくれ毛が枕に乱れて)身体が
(ちゅうにうくのであった。)
宙に浮くのであった。
(「ああ!」)
「ああ!」
(ふねのわがみはまぼろしで、くいにくろかみのからみながら、おぼれていたのがじぶんであろうか。)
船の我身は幻で、杭に黒髪の搦みながら、溺れていたのが自分であろうか。
(またおそろしいおうなのてに、あやしいはりにつりあげられて、このあせ、このみず、このまくら、)
また恐しい嫗の手に、怪しい針に釣り上げられて、この汗、この水、この枕、
(そのゆめのふね、このからだ、しかくなへやもあなめいて、はだえのいろも)
その夢の船、この身体、四角な室[へや]も穴めいて、膚[はだえ]の色も
(みずのそこ、おされていきのくるしげなるは、はやくおくつきの)
水の底、おされて呼吸[いき]の苦しげなるは、早く墳墓[おくつき]の
(なかにこそ。あなや、このかみが、とおもうにこたえず、われしらず、)
中にこそ。呵呀[あなや]、この髪が、と思うに堪えず、我知らず、
(はっとおきた。)
ハッと起きた。
(まくらをまえに、ひるがえったかいまきをせなのちからに、かたいもののごとく)
枕を前に、翻った掻巻[かいまき]を背[せな]の力に、堅いもののごとく
(かいなをといて、そとそのびんをかきあげた。)
腕[かいな]を解いて、密[そ]とその鬢[びん]を掻上[かきあ]げた。
(わがかみながらひやりとつめたく、つまにみだれたちりめんの、)
我が髪ながらヒヤリと冷たく、褄[つま]に乱れた縮緬[ちりめん]の、
(あさぎもいろのすごきまで。)
浅葱も色の凄きまで。
(つかれてそのまま、かいまきにほおをつけたなり、うらこはうとうとしかけると、)
十六 疲れてそのまま、掻巻に頬をつけたなり、浦子はうとうとしかけると、
(むねのどうきにかみがゆれて、かしらをうえへひかれるのである。)
胸の動悸に髪が揺れて、頭[かしら]を上へ引かれるのである。
(「ああ、」)
「ああ、」
(とばかりこえもでず、びっくりしたようにまたおきなおった。)
とばかり声も出ず、吃驚[びっくり]したようにまた起直った。
(しごきはひとしおしゃらどけして、つまのいとどしく)
扱帯[しごき]は一層[ひとしお]しゃらどけして、褄[つま]のいとどしく
(くずれるのを、ものうげにもてあつかいつつ、せわしくかたで)
崩れるのを、懶[ものう]げに持て扱いつつ、忙[せわ]しく肩で
(いきをしたが、)
呼吸[いき]をしたが、
(「ええ、だれもきてくれないのかねえ、わたしがひとりでこんなに、」)
「ええ、誰も来てくれないのかねえ、私が一人でこんなに、」
(とおもたいまげをうしろへふって、そのままのけざまにたおれそうな、)
と重たい髷[まげ]をうしろへ振って、そのまま仰[のけ]ざまに倒れそうな、
(みをもんでひざでささえて、はっとまたいきをつくと、)
身を揉んで膝で支えて、ハッとまた呼吸[いき]を吐[つ]くと、
(とんとんといわにあたって、ときどきがけをあらうなみ。しょうふうがしんとして、)
トントンと岩に当って、時々崖を洗う浪。松風が寂[しん]として、
(よるがふけたのにこころつくほど、まだひとこえもひとをよんではみないのであった。)
夜が更けたのに心着くほど、まだ一声も人を呼んでは見ないのであった。
(「まつか、」)
「松か、」
(ふじんはありあけにきえのこる、まぼろしのようなすがたで、かやのなかから)
夫人は残燈[ありあけ]に消え残る、幻のような姿で、蚊帳の中から
(じょちゅうをよんだ。)
女中を呼んだ。
(けれども、じかにねいったもののよびさまされるじこくでない。)
けれども、直に寐入[ねい]ったものの呼覚[よびさま]される時刻でない。
(だいいち(まつ、)という、そのこえが、でたか、それとも、ただよんでみようと)
第一(松、)という、その声が、出たか、それとも、ただ呼んで見ようと
(こころにおもったばかりであるか、それさえもうつつである。)
心に思ったばかりであるか、それさえも現[うつつ]である。
(「まつや、」といって、ふじんはわがこえにわれとわがみみをかたむける。むねのあたりで、)
「松や、」と言って、夫人は我が声に我と我が耳を傾ける。胸のあたりで、
(こえはきこえたようであるが、くちへでたかどうか、こころもとない。)
声は聞えたようであるが、口へ出たかどうか、心許[こころもと]ない。
(まあ、くちもきけなくなったのか、となさけなく、こころぼそく、あせって、)
まあ、口も利けなくなったのか、と情[なさけ]なく、心細く、焦って、
(ええと、かたてにさゆうのむねをゆすって、)
ええと、片手に左右の胸を揺[ゆす]って、
(「まつや、」と、せきちょうしでもういちど。)
「松や、」と、急[せ]き調子でもう一度。
((まつや、)とほそいのが、のどをはなれて、えんがきれて、)
(松や、)と細いのが、咽喉[のど]を放れて、縁が切れて、
(たよりなくどこからか、あわれにさびしくこなたへきこえて、)
たよりなくどこからか、あわれに寂しく此方[こなた]へ聞えて、
(はるかまをへだてたふすまのすみで、ひとをよんでいるかとうたがわれた。)
遥か間を隔てた襖の隅で、人を呼んでいるかと疑われた。
(「ああ、」とばかり、あらためて、その(まつや、)をいおうとすると、)
「ああ、」とばかり、あらためて、その(松や、)を言おうとすると、
(ためいきになってしまう。かやがあおるか、ふすまがゆれるか、たたみがうごくか、)
溜息になってしまう。蚊帳が煽るか、衾[ふすま]が揺れるか、畳が動くか、
(むねがおどるか。ひざをくみしめて、かたをだいても、びくびくとみうちがふるえて、)
胸が躍るか。膝を組み緊[し]めて、肩を抱いても、びくびくと身内が震えて、
(みだれたつまもはらはらとなびく。)
乱れた褄[つま]もはらはらと靡[なび]く。
(ひっつかんでまで、なでつけた、びんのけが、うるさくもほおへ)
引掴[ひッつか]んでまで、撫でつけた、鬢[びん]の毛が、煩くも頬へ
(かかって、そのつどみゃくをうってちやかよう、としだいにいはげしくなるにつれ、)
かかって、その都度脈を打って血や通う、と次第に烈[はげ]しくなるにつれ、
(うえへつられそうな、ゆめのはり、みぎわのおうな。)
上へ釣られそうな、夢の針、汀[みぎわ]の嫗。
(いまにもちゅうへ、あしがまくらをはなれやせん。このやねのうえにあしがはえて、だいどころの)
今にも宙へ、足が枕を離れやせん。この屋根の上に蘆が生えて、台所の
(けむだしが、すいめんへあらわれると、ごみためのごみが)
煙出[けむだ]しが、水面へあらわれると、芥溜[ごみため]のごみが
(よどんで、あわだつなかへ、このくろかみがさかさに、たぶさから)
淀[よど]んで、泡立つ中へ、この黒髪が倒[さかさ]に、髻[たぶさ]から
(からまっていようもしれぬ。あれ、そういえば、のきをわたるはまかぜが、)
搦まっていようも知れぬ。あれ、そういえば、軒を渡る浜風が、
(さらさらみずのながるるひびき。)
さらさら水の流るる響[ひびき]。
(うっとりときがとおいてんじょうへ、ずしりというしずんだものおと。)
恍惚[うっとり]と気が遠い天井へ、ずしりという沈んだ物音。
(ふねがそこったか、そのふねにはせんたろうとじぶんがのって・・・・・・)
船がそこったか、その船には銑太郎と自分が乗って・・・・・・
(いま、ふなべりへかみのけが。)
今、舷[ふなべり]へ髪の毛が。
(「あっ、」とこえたてて、うらこはおもわずまくらもとへすっくとたったが、)
「あッ、」と声立てて、浦子は思わず枕許へすッくと立ったが、
(あわれこれなりにおうなのはりで、てんじょうをぬけてつりあげられよう、と)
あわれこれなりに嫗の針で、天井を抜けて釣上げられよう、と
(あるにもあられず、ばたりひざをつくと、むねをそらして、)
あるにもあられず、ばたり膝を支[つ]くと、胸を反らして、
(ぬけでるさまに、もすそをそと。)
抜け出る状[さま]に、裳[もすそ]を外。
(かやがかおへからんだのが、ぷんとはなをついたみずのにおい。)
蚊帳が顔へ搦んだのが、芬[ぷん]と鼻をついた水の香[におい]。
(ひきいきで、がぶりとひとくち、おぼるるかとのんだおもい、これやがてきつけになりぬ。)
引き息で、がぶりと一口、溺るるかと飲んだ思い、これやがて気つけになりぬ。
(めもようようはっきりと、かやのみどりはみずながら、くれないのきぬのへり、)
目もようよう判然[はっきり]と、蚊帳の緑は水ながら、紅の絹のへり、
(かくてさんごのえだならず。うらこはかろうじてかやのそとに、しょうじのかみにえがかれた、)
かくて珊瑚の枝ならず。浦子は辛うじて蚊帳の外に、障子の紙に描かれた、
(むねしろきゆかたのいろ、こしのあさぎもくろかみも、ゆめならぬそのわれがすがたを、)
胸白き浴衣の色、腰の浅葱も黒髪も、夢ならぬその我が姿を、
(ありありとみたのである。)
歴然[ありあり]と見たのである。
(しばらくして、うらこはぎょくぼやのらんぷのこころを)
十七 しばらくして、浦子は玉[ぎょく]ぼやの洋燈[ランプ]の心を
(あげて、あかるくなったともしに、ほうせきかがやくゆびのさきを、)
挑[あ]げて、明くなった燈[ともし]に、宝石輝く指の尖[さき]を、
(ちょっとびんにさわったが、あらためてまたかきあげる。)
ちょっと髯[びん]に触ったが、あらためてまた掻上[かきあ]げる。
(そのてでえりをつくろって、しごきのしたでつまをひきあわせなど)
その手で襟を繕って、扱帯[しごき]の下で褄[つま]を引合わせなど
(したのであるが、こころには、おそろしいゆめにこうまでひろうして、いきづかいさえ)
したのであるが、心には、恐ろしい夢にこうまで疲労して、息づかいさえ
(せつないのに、とんだからだのせわをさせられて、めいわくであるがごとき)
切ないのに、飛んだ身体の世話をさせられて、迷惑であるがごとき
(おもいがした。)
思いがした。
(かつそのからだをすてもせず、まめやかに、しんせつに)
且つその身体を棄[す]てもせず、老実[まめ]やかに、しんせつに
(あしらうのが、なにかわれながら、みだしなみよく、ゆかしく、)
あしらうのが、何か我ながら、身だしなみよく、床[ゆか]しく、
(やさしく、うれしいようにかんじたくらい。)
優しく、嬉しいように感じたくらい。
(ひとつくぐってみぞおちからひざのあたりへずりさがった、そのしごきのはしをひきあげざまに、)
一つくぐって鳩尾から膝のあたりへずり下った、その扱帯の端を引上げざまに、
(ともしをてにして、やなぎのこしをうえへひいてすらりとたったが、)
燈[ともし]を手にして、柳の腰を上へ引いてすらりと立ったが、
(こように、とおもいきった。)
小用[こよう]に、と思い切った。
(ときに、しょうじをあけて、そこがなにになってしまったか、はまか、やまか、いちりづかか、)
時に、障子を開けて、そこが何になってしまったか、浜か、山か、一里塚か、
(めいどのみちか。ふなむしがとぼうも、おおきなあぶらむしが)
冥途[めいど]の路[みち]か。船虫が飛ぼうも、大きな油虫が
(かけだそうもりょうられない。ろうかへでるのはきがかりであったけれど、)
駈[か]け出そうも料られない。廊下へ出るのは気がかりであったけれど、
(なおそれよりもおそろしかったのは、そのときまでじぶんがねていた)
なおそれよりも恐ろしかったのは、その時まで自分が寝て居た
(かやのうちをうかがってみることで。)
蚊帳の内を窺[うかが]って見ることで。