悪獣篇 泉鏡花 9

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投稿者投稿者神楽@社長推しいいね0お気に入り登録
プレイ回数9難易度(4.3) 4637打 長文
泉鏡花の中編小説です

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問題文

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(ああ、あくたのにおいでもすることか、みるのこうでもすることか、)

ああ、芥の臭[におい]でもすることか、海松布[みる]の香でもすることか、

(ふねへからんでちったのは、)

船へ搦[から]んで散ったのは、

(じぶんとおなじびんみずの・・・・・・)

自分と同一鬢水[おなじびんみず]の・・・・・・

(うらこはねながらいきをひいた。)

浦子は寝ながら呼吸[いき]を引いた。

(いまもかやにしむばいかのかおり。)

今も蚊帳に染む梅花の薫[かおり]。

(あ、といっせいのこうとする、そでがかぜにとられたよう、むこうへひかれて、)

あ、と一声退[の]こうとする、袖が風に取られたよう、向うへ引かれて、

(なびいたので、こなたへひいておさえたそのそでに、)

靡いたので、此方[こなた]へ曳[ひ]いて圧[おさ]えたその袖に、

(とみるとあやしいはりがあった。)

と見ると怪しい針があった。

(あしのなかに、いろのしろいやせたおうな、こうけのこうしつともあろう、ひんのいい、)

蘆の中に、色の白い痩せた嫗、高家の後室ともあろう、品の可[い]い、

(めのあかいのが、もうろうとしゃがんだてから、くものいかと)

目の赤いのが、朦朧と踞[しゃが]んだ手から、蜘蛛の囲[い]かと

(みるいとひとすじ。)

見る糸一条[ひとすじ]。

(みもだえしてひっきると、そでははりをはずれたが、さらさらと)

身悶えして引切[ひっき]ると、袖は針を外れたが、さらさらと

(かみがゆれみだれた。)

髪が揺れ乱れた。

(そのくろかみのふねにたれたのが、さかさにうえへ、ひょろひょろとほおを)

その黒髪の船に垂れたのが、逆[さかさ]に上へ、ひょろひょろと頬を

(かすめるとおもうと(いまにもおくれげがまくらにみだれて)からだが)

掠めると思うと(今にもおくれ毛が枕に乱れて)身体が

(ちゅうにうくのであった。)

宙に浮くのであった。

(「ああ!」)

「ああ!」

(ふねのわがみはまぼろしで、くいにくろかみのからみながら、おぼれていたのがじぶんであろうか。)

船の我身は幻で、杭に黒髪の搦みながら、溺れていたのが自分であろうか。

(またおそろしいおうなのてに、あやしいはりにつりあげられて、このあせ、このみず、このまくら、)

また恐しい嫗の手に、怪しい針に釣り上げられて、この汗、この水、この枕、

(そのゆめのふね、このからだ、しかくなへやもあなめいて、はだえのいろも)

その夢の船、この身体、四角な室[へや]も穴めいて、膚[はだえ]の色も

など

(みずのそこ、おされていきのくるしげなるは、はやくおくつきの)

水の底、おされて呼吸[いき]の苦しげなるは、早く墳墓[おくつき]の

(なかにこそ。あなや、このかみが、とおもうにこたえず、われしらず、)

中にこそ。呵呀[あなや]、この髪が、と思うに堪えず、我知らず、

(はっとおきた。)

ハッと起きた。

(まくらをまえに、ひるがえったかいまきをせなのちからに、かたいもののごとく)

枕を前に、翻った掻巻[かいまき]を背[せな]の力に、堅いもののごとく

(かいなをといて、そとそのびんをかきあげた。)

腕[かいな]を解いて、密[そ]とその鬢[びん]を掻上[かきあ]げた。

(わがかみながらひやりとつめたく、つまにみだれたちりめんの、)

我が髪ながらヒヤリと冷たく、褄[つま]に乱れた縮緬[ちりめん]の、

(あさぎもいろのすごきまで。)

浅葱も色の凄きまで。

(つかれてそのまま、かいまきにほおをつけたなり、うらこはうとうとしかけると、)

十六 疲れてそのまま、掻巻に頬をつけたなり、浦子はうとうとしかけると、

(むねのどうきにかみがゆれて、かしらをうえへひかれるのである。)

胸の動悸に髪が揺れて、頭[かしら]を上へ引かれるのである。

(「ああ、」)

「ああ、」

(とばかりこえもでず、びっくりしたようにまたおきなおった。)

とばかり声も出ず、吃驚[びっくり]したようにまた起直った。

(しごきはひとしおしゃらどけして、つまのいとどしく)

扱帯[しごき]は一層[ひとしお]しゃらどけして、褄[つま]のいとどしく

(くずれるのを、ものうげにもてあつかいつつ、せわしくかたで)

崩れるのを、懶[ものう]げに持て扱いつつ、忙[せわ]しく肩で

(いきをしたが、)

呼吸[いき]をしたが、

(「ええ、だれもきてくれないのかねえ、わたしがひとりでこんなに、」)

「ええ、誰も来てくれないのかねえ、私が一人でこんなに、」

(とおもたいまげをうしろへふって、そのままのけざまにたおれそうな、)

と重たい髷[まげ]をうしろへ振って、そのまま仰[のけ]ざまに倒れそうな、

(みをもんでひざでささえて、はっとまたいきをつくと、)

身を揉んで膝で支えて、ハッとまた呼吸[いき]を吐[つ]くと、

(とんとんといわにあたって、ときどきがけをあらうなみ。しょうふうがしんとして、)

トントンと岩に当って、時々崖を洗う浪。松風が寂[しん]として、

(よるがふけたのにこころつくほど、まだひとこえもひとをよんではみないのであった。)

夜が更けたのに心着くほど、まだ一声も人を呼んでは見ないのであった。

(「まつか、」)

「松か、」

(ふじんはありあけにきえのこる、まぼろしのようなすがたで、かやのなかから)

夫人は残燈[ありあけ]に消え残る、幻のような姿で、蚊帳の中から

(じょちゅうをよんだ。)

女中を呼んだ。

(けれども、じかにねいったもののよびさまされるじこくでない。)

けれども、直に寐入[ねい]ったものの呼覚[よびさま]される時刻でない。

(だいいち(まつ、)という、そのこえが、でたか、それとも、ただよんでみようと)

第一(松、)という、その声が、出たか、それとも、ただ呼んで見ようと

(こころにおもったばかりであるか、それさえもうつつである。)

心に思ったばかりであるか、それさえも現[うつつ]である。

(「まつや、」といって、ふじんはわがこえにわれとわがみみをかたむける。むねのあたりで、)

「松や、」と言って、夫人は我が声に我と我が耳を傾ける。胸のあたりで、

(こえはきこえたようであるが、くちへでたかどうか、こころもとない。)

声は聞えたようであるが、口へ出たかどうか、心許[こころもと]ない。

(まあ、くちもきけなくなったのか、となさけなく、こころぼそく、あせって、)

まあ、口も利けなくなったのか、と情[なさけ]なく、心細く、焦って、

(ええと、かたてにさゆうのむねをゆすって、)

ええと、片手に左右の胸を揺[ゆす]って、

(「まつや、」と、せきちょうしでもういちど。)

「松や、」と、急[せ]き調子でもう一度。

((まつや、)とほそいのが、のどをはなれて、えんがきれて、)

(松や、)と細いのが、咽喉[のど]を放れて、縁が切れて、

(たよりなくどこからか、あわれにさびしくこなたへきこえて、)

たよりなくどこからか、あわれに寂しく此方[こなた]へ聞えて、

(はるかまをへだてたふすまのすみで、ひとをよんでいるかとうたがわれた。)

遥か間を隔てた襖の隅で、人を呼んでいるかと疑われた。

(「ああ、」とばかり、あらためて、その(まつや、)をいおうとすると、)

「ああ、」とばかり、あらためて、その(松や、)を言おうとすると、

(ためいきになってしまう。かやがあおるか、ふすまがゆれるか、たたみがうごくか、)

溜息になってしまう。蚊帳が煽るか、衾[ふすま]が揺れるか、畳が動くか、

(むねがおどるか。ひざをくみしめて、かたをだいても、びくびくとみうちがふるえて、)

胸が躍るか。膝を組み緊[し]めて、肩を抱いても、びくびくと身内が震えて、

(みだれたつまもはらはらとなびく。)

乱れた褄[つま]もはらはらと靡[なび]く。

(ひっつかんでまで、なでつけた、びんのけが、うるさくもほおへ)

引掴[ひッつか]んでまで、撫でつけた、鬢[びん]の毛が、煩くも頬へ

(かかって、そのつどみゃくをうってちやかよう、としだいにいはげしくなるにつれ、)

かかって、その都度脈を打って血や通う、と次第に烈[はげ]しくなるにつれ、

(うえへつられそうな、ゆめのはり、みぎわのおうな。)

上へ釣られそうな、夢の針、汀[みぎわ]の嫗。

(いまにもちゅうへ、あしがまくらをはなれやせん。このやねのうえにあしがはえて、だいどころの)

今にも宙へ、足が枕を離れやせん。この屋根の上に蘆が生えて、台所の

(けむだしが、すいめんへあらわれると、ごみためのごみが)

煙出[けむだ]しが、水面へあらわれると、芥溜[ごみため]のごみが

(よどんで、あわだつなかへ、このくろかみがさかさに、たぶさから)

淀[よど]んで、泡立つ中へ、この黒髪が倒[さかさ]に、髻[たぶさ]から

(からまっていようもしれぬ。あれ、そういえば、のきをわたるはまかぜが、)

搦まっていようも知れぬ。あれ、そういえば、軒を渡る浜風が、

(さらさらみずのながるるひびき。)

さらさら水の流るる響[ひびき]。

(うっとりときがとおいてんじょうへ、ずしりというしずんだものおと。)

恍惚[うっとり]と気が遠い天井へ、ずしりという沈んだ物音。

(ふねがそこったか、そのふねにはせんたろうとじぶんがのって・・・・・・)

船がそこったか、その船には銑太郎と自分が乗って・・・・・・

(いま、ふなべりへかみのけが。)

今、舷[ふなべり]へ髪の毛が。

(「あっ、」とこえたてて、うらこはおもわずまくらもとへすっくとたったが、)

「あッ、」と声立てて、浦子は思わず枕許へすッくと立ったが、

(あわれこれなりにおうなのはりで、てんじょうをぬけてつりあげられよう、と)

あわれこれなりに嫗の針で、天井を抜けて釣上げられよう、と

(あるにもあられず、ばたりひざをつくと、むねをそらして、)

あるにもあられず、ばたり膝を支[つ]くと、胸を反らして、

(ぬけでるさまに、もすそをそと。)

抜け出る状[さま]に、裳[もすそ]を外。

(かやがかおへからんだのが、ぷんとはなをついたみずのにおい。)

蚊帳が顔へ搦んだのが、芬[ぷん]と鼻をついた水の香[におい]。

(ひきいきで、がぶりとひとくち、おぼるるかとのんだおもい、これやがてきつけになりぬ。)

引き息で、がぶりと一口、溺るるかと飲んだ思い、これやがて気つけになりぬ。

(めもようようはっきりと、かやのみどりはみずながら、くれないのきぬのへり、)

目もようよう判然[はっきり]と、蚊帳の緑は水ながら、紅の絹のへり、

(かくてさんごのえだならず。うらこはかろうじてかやのそとに、しょうじのかみにえがかれた、)

かくて珊瑚の枝ならず。浦子は辛うじて蚊帳の外に、障子の紙に描かれた、

(むねしろきゆかたのいろ、こしのあさぎもくろかみも、ゆめならぬそのわれがすがたを、)

胸白き浴衣の色、腰の浅葱も黒髪も、夢ならぬその我が姿を、

(ありありとみたのである。)

歴然[ありあり]と見たのである。

(しばらくして、うらこはぎょくぼやのらんぷのこころを)

十七 しばらくして、浦子は玉[ぎょく]ぼやの洋燈[ランプ]の心を

(あげて、あかるくなったともしに、ほうせきかがやくゆびのさきを、)

挑[あ]げて、明くなった燈[ともし]に、宝石輝く指の尖[さき]を、

(ちょっとびんにさわったが、あらためてまたかきあげる。)

ちょっと髯[びん]に触ったが、あらためてまた掻上[かきあ]げる。

(そのてでえりをつくろって、しごきのしたでつまをひきあわせなど)

その手で襟を繕って、扱帯[しごき]の下で褄[つま]を引合わせなど

(したのであるが、こころには、おそろしいゆめにこうまでひろうして、いきづかいさえ)

したのであるが、心には、恐ろしい夢にこうまで疲労して、息づかいさえ

(せつないのに、とんだからだのせわをさせられて、めいわくであるがごとき)

切ないのに、飛んだ身体の世話をさせられて、迷惑であるがごとき

(おもいがした。)

思いがした。

(かつそのからだをすてもせず、まめやかに、しんせつに)

且つその身体を棄[す]てもせず、老実[まめ]やかに、しんせつに

(あしらうのが、なにかわれながら、みだしなみよく、ゆかしく、)

あしらうのが、何か我ながら、身だしなみよく、床[ゆか]しく、

(やさしく、うれしいようにかんじたくらい。)

優しく、嬉しいように感じたくらい。

(ひとつくぐってみぞおちからひざのあたりへずりさがった、そのしごきのはしをひきあげざまに、)

一つくぐって鳩尾から膝のあたりへずり下った、その扱帯の端を引上げざまに、

(ともしをてにして、やなぎのこしをうえへひいてすらりとたったが、)

燈[ともし]を手にして、柳の腰を上へ引いてすらりと立ったが、

(こように、とおもいきった。)

小用[こよう]に、と思い切った。

(ときに、しょうじをあけて、そこがなにになってしまったか、はまか、やまか、いちりづかか、)

時に、障子を開けて、そこが何になってしまったか、浜か、山か、一里塚か、

(めいどのみちか。ふなむしがとぼうも、おおきなあぶらむしが)

冥途[めいど]の路[みち]か。船虫が飛ぼうも、大きな油虫が

(かけだそうもりょうられない。ろうかへでるのはきがかりであったけれど、)

駈[か]け出そうも料られない。廊下へ出るのは気がかりであったけれど、

(なおそれよりもおそろしかったのは、そのときまでじぶんがねていた)

なおそれよりも恐ろしかったのは、その時まで自分が寝て居た

(かやのうちをうかがってみることで。)

蚊帳の内を窺[うかが]って見ることで。

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