畜犬談3 太宰治

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問題文

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(いぬはわたしには、いまだとびかかってこない。)

犬は私には、いまだ飛びかかってこない。

(けれどもあくまでゆだんはきんもつである。)

けれどもあくまで油断は禁物である。

(いぬのそばをとおるときは、どんなにおそろしくても、ぜったいにはしってはならぬ。)

犬の傍を通る時は、どんなに恐ろしくても、絶対に走ってはならぬ。

(にこにこいやしいついしょうわらいをうかべて、むしんそうにくびをふり、)

にこにこ卑しい追従笑を浮べて、無心そうに首を振り、

(ゆっくり、ゆっくり、ないしん、せなかにけむしがじゅっぴきはっているような)

ゆっくり、ゆっくり、内心、背中に毛虫が十匹這っているような

(ちっそくせんばかりのおかんにやられながらも、ゆっくりゆっくりとおるのである。)

窒息せんばかりの悪寒にやられながらも、ゆっくりゆっくり通るのである。

(つくづくじしんのひくつがいやになる。)

つくづく自身の卑屈がいやになる。

(なきたいほどのじこけんおをおぼえるのであるが、これをおこなわないと、)

泣きたいほどの自己嫌悪を覚えるのであるが、これを行わないと、

(たちまちかみつかれるようなきがして、)

たちまち噛みつかれるような気がして、

(わたしは、あらゆるいぬにあわれなあいさつをこころみる。かみをあまりにながくのばしていると、)

私は、あらゆる犬にあわれな挨拶を試みる。髪をあまりに長く伸ばしていると、

(あるいはうろんのものとしてほえられるかもしれないから、)

あるいはウロンの者として吠えられるかもしれないから、

(あれほどいやだったとこやへもせいだしてゆくことにした。)

あれほどいやだった床屋へも精出してゆくことにした。

(すてっきなどもってあるくと、いぬのほうでいかくのぶきとかんちがいして、)

ステッキなど持って歩くと、犬のほうで威嚇の武器と勘ちがいして、

(はんこうしんをおこすようなことがあってはならぬから、)

反抗心を起すようなことがあってはならぬから、

(すてっきはえいえんにはいきすることにした。)

ステッキは永遠に廃棄することにした。

(いぬのしんりをはかりかねて、ただいきあたりばったり、)

犬の心理を計りかねて、ただ行き当りばったり、

(むやみやたらにごきげんとっているうちに、ここにいがいのげんしょうがあらわれた。)

むやみやたらに御機嫌とっているうちに、ここに意外の現象が現われた。

(わたしは、いぬにすかれてしまったのである。)

私は、犬に好かれてしまったのである。

(おをふって、ぞろぞろあとについてくる。)

尾を振って、ぞろぞろ後についてくる。

(わたしは、じだんだふんだ。じつにひにくである。)

私は、じだんだ踏んだ。じつに皮肉である。

など

(かねがねわたしの、こころよからずおもい、)

かねがね私の、こころよからず思い、

(またさいきんにいたってはぞうおのきょくてんにまでたっしている、)

また最近にいたっては憎悪の極点にまで達している、

(そのとうのちくけんにすかれるくらいならば、)

その当の畜犬に好かれるくらいならば、

(いっそわたしはらくだにしたわれたいほどである。)

いっそ私は駱駝に慕われたいほどである。

(どんなあくじょにでも、すかれてきもちのわるいはずはない、)

どんな悪女にでも、好かれて気持の悪いはずはない、

(というのはそれはせんぱくのそうていである。ぷらいどが、むしが、)

というのはそれは浅薄の想定である。プライドが、虫が、

(どうしてもそれをきょようできないばあいがある。)

どうしてもそれを許容できない場合がある。

(かんにんならぬのである。わたしは、いぬをきらいなのである。)

堪忍ならぬのである。私は、犬をきらいなのである。

(はやくからそのきょうぼうのもうじゅうせいをかんぱし、こころよからずおもっているのである。)

早くからその狂暴の猛獣性を看破し、こころよからず思っているのである。

(たかだかひにいちどやにどのざんぱんのとうよにあずからんがために、)

たかだか日に一度や二度の残飯の投与にあずからんがために、

(ともをうり、つまをりべつし、おのれのみひとつ、)

友を売り、妻を離別し、おのれの身ひとつ、

(いえののきしたによこたえ、ちゅうぎかおして、かつてのともにほえ、)

家の軒下に横たえ、忠義顔して、かつての友に吠え、

(きょうだい、ふぼをも、けろりとぼうきゃくし、)

兄弟、父母をも、けろりと忘却し、

(ただひたすらにかいぬしのかおいろをうかがい、あゆついしょうてんとしてはじず、)

ただひたすらに飼主の顔色を伺い、阿諛追従てんとして恥じず、

(ぶたれても、きゃんといいしっぽまいてへいこうしてみせて、)

ぶたれても、きゃんといい尻尾まいて閉口してみせて、

(かじんをわらわせ、そのせいしんのひれつ、しゅうかい、いぬちくしょうとはよくもいった。)

家人を笑わせ、その精神の卑劣、醜怪、犬畜生とはよくもいった。

(ひにじゅうりをらくらくとそうはしうるけんきゃくをゆうし、)

日に十里を楽々と走破しうる健脚を有し、

(ししをもたおすはっこうえいりのきばをもちながら、)

獅子をも斃す白光鋭利の牙を持ちながら、

(らいだぶらいのくさりはてたいやしいこんじょうをはばからずはっきし、)

懶惰無頼の腐りはてたいやしい根性をはばからず発揮し、

(いっぺんのきょうじなく、てもなくにんげんかいにくっぷくし、れいぞくし、)

一片の矜持なく、てもなく人間界に屈服し、隷属し、

(どうぞくたがいにてきしして、かおつきあわせるとほえあい、かみあい、)

同族互いに敵視して、顔つきあわせると吠えあい、噛みあい、

(もってにんげんのごきげんをとりむすぼうとつとめている。すずめをみよ。)

もって人間の御機嫌をとり結ぼうと努めている。雀を見よ。

(なにひとつぶきをもたぬせんじゃくのしょうきんながら、じゆうをかくほし、)

何ひとつ武器を持たぬ繊弱の小禽ながら、自由を確保し、

(にんげんかいとはまったくべっこのしょうしゃかいをいとなみ、どうるいしょうしたしみ、)

人間界とはまったく別個の小社会を営み、同類相親しみ、

(きんぜんひびのまずしいせいかつをうたいたのしんでいるではないか。)

欣然日々の貧しい生活を歌い楽しんでいるではないか。

(おもえば、おもうほど、いぬはふけつだ。いぬはいやだ。)

思えば、思うほど、犬は不潔だ。犬はいやだ。

(なんだかじぶんににているところさえあるようなきがして、)

なんだか自分に似ているところさえあるような気がして、

(いよいよ、いやだ。たまらないのである。)

いよいよ、いやだ。たまらないのである。

(そのいぬが、わたしをとくにこのんで、おをふってしんあいのじょうをひょうめいしてくるにおよんでは、)

その犬が、私を特に好んで、尾を振って親愛の情を表明してくるに及んでは、

(ろうばいとも、むねんとも、なんとも、いいようがない。)

狼狽とも、無念とも、なんとも、いいようがない。

(あまりにいぬのもうじゅうせいをいけいし、かいかぶりせつどもなく)

あまりに犬の猛獣性を畏敬し、買いかぶり節度もなく

(びしょうをさつまきちらしてあるいたゆえ、いぬは、)

媚笑を撒まきちらして歩いたゆえ、犬は、

(かえってちきをえたものとごかいし、わたしをくみしやすしとみてとって、)

かえって知己を得たものと誤解し、私を組みしやすしとみてとって、

(このようななさけないけっかにたちいたったのであろうが、)

このような情ない結果に立ちいたったのであろうが、

(なにごとによらず、ものにはせつどがたいせつである。わたしは、)

何事によらず、ものには節度が大切である。私は、

(いまだに、どうも、せつどをしらぬ。)

いまだに、どうも、節度を知らぬ。

(そうしゅんのこと。ゆうしょくのすこしまえに、)

早春のこと。夕食の少しまえに、

(わたしはすぐちかくのよんじゅうきゅうれんたいのれんぺいじょうへさんぽにでて、)

私はすぐ近くの四十九聯隊の練兵場へ散歩に出て、

(に、さんのいぬがわたしのあとについてきて、)

二、三の犬が私のあとについてきて、

(いまにもかかとをがぶりとやられはせぬかといきたきもせず、)

いまにも踵をがぶりとやられはせぬかと生きた気もせず、

(けれどもまいどのことであり、かんねんしてむしんへいぜいをよそおい、)

けれども毎度のことであり、観念して無心平生を装い、

(ぱっとだっとのごとくにげたいしょうどうをけんめいに)

ぱっと脱兎のごとく逃げたい衝動を懸命に

(おさえ、おさえ、ぶらりぶらりあるいた。)

抑え、抑え、ぶらりぶらり歩いた。

(いぬはわたしについてきながら、みちみちおたがいにけんかなどはじめて、)

犬は私についてきながら、みちみちお互いに喧嘩などはじめて、

(わたしは、わざとふりかえってみもせず、)

私は、わざと振りかえって見もせず、

(しらぬふりしてあるいているのだが、ないしん、じつにへいこうであった。)

知らぬふりして歩いているのだが、内心、じつに閉口であった。

(ぴすとるでもあったなら、)

ピストルでもあったなら、

(ちゅうちょせずどかんどかんとしゃさつしてしまいたいきもちであった。)

躊躇せずドカンドカンと射殺してしまいたい気持であった。

(いぬは、わたしにそのような、がいめんにょぼさつ、)

犬は、私にそのような、外面如菩薩、

(ないしんにょやしゃてきのかんねいのがいしんがあるともしらず、どこまでもついてくる。)

内心如夜叉的の奸佞の害心があるとも知らず、どこまでもついてくる。

(れんぺいじょうをぐるりとひとまわりして、)

練兵場をぐるりと一廻りして、

(わたしはやはりいぬにしたわれながらきとについた。)

私はやはり犬に慕われながら帰途についた。

(いえへかえりつくまでには、はいごのいぬもどこかへ)

家へ帰りつくまでには、背後の犬もどこかへ

(うんさんむしょうしているのが、これまでの、しきたりであったのだが、)

雲散霧消しているのが、これまでの、しきたりであったのだが、

(そのひにかぎって、ひどくしつようでならしなれなれしいのがいっぴきいた。)

その日に限って、ひどく執拗で馴なれ馴れしいのが一匹いた。

(まっくろの、みるかげもないこいぬである。ずいぶんちいさい。)

真黒の、見るかげもない小犬である。ずいぶん小さい。

(どうのながさごすんのかんじである。)

胴の長さ五寸の感じである。

(けれども、ちいさいからといってゆだんはできない。)

けれども、小さいからといって油断はできない。

(はは、すでにちゃんとはえそろっているはずである。)

歯は、すでにちゃんと生えそろっているはずである。

(かまれたらびょういんにさん、なな、にじゅういちにちかんかよわなければならぬ。)

噛まれたら病院に三、七、二十一日間通わなければならぬ。

(それにこのようなようしょうなものにはじょうしきがないから、)

それにこのような幼少なものには常識がないから、

(したがってきまぐれである。いっそうようじんをしなければならぬ。)

したがって気まぐれである。いっそう用心をしなければならぬ。

(こいぬはあとになり、さきになり、わたしのかおをふりあおぎ、)

小犬は後になり、さきになり、私の顔を振り仰ぎ、

(よたよたはしって、とうとうわたしのいえのげんかんまで、ついてきた。)

よたよた走って、とうとう私の家の玄関まで、ついてきた。

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