老ハイデルべルビ
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問題文
(はちねんまえのことでありました。とうじ、わたしはきわめてらんだなていこくだいがくせいでありました。)
八年まえの事でありました。当時、私は極めて懶惰な帝国大学生でありました。
(ひとなつを、とうかいどうみしまのやどですごしたことがあります。ごじゅうえんをこきょうのあねから、)
一夏を、東海道三島の宿で過したことがあります。五十円を故郷の姉から、
(これがとさいごといって、やっとおくっていただき、わたしはがくせいかばんにきさらのゆかたやら、)
これがと最後と言って、やっと送って戴き、私は学生鞄に着更の浴衣やら、
(しゃつやらをつめこみ、それをもってふらと、げしゅくをたちでて、そのまま)
シャツやらを詰め込み、それを持ってふらと、下宿を立ち出て、そのまま
(きしゃにのりこめばよかったものを、ほうがくをまちがえ、なじみのおでんやに)
汽車に乗りこめばよかったものを、方角を間違え、馴染みのおでんやに
(とびこみました。そこにはともだちがさんにんきあわせていました。)
とびこみました。其処には友達が三人来合わせて居ました。
(やあ、やあ、めかしてどこへいくのだと、すでによっぱらっているゆうじんたちは、)
やあ、やあ、めかして何処へ行くのだと、既に酔っぱらっている友人達は、
(わたしをからかいました。わたしはきよわくろうばいして、いやどこということもない)
私をからかいました。私は気弱く狼狽して、いや何処ということもない
(んだけど、きみたちも、いかないかね、とこころにもないかんゆうがふいとくちから)
んだけど、君たちも、行かないかね、と心にも無い勧誘がふいと口から
(すべりでて、それからはきこのいきおいで、ぼくにね、ごじゅうえんあるんだ、こきょうの)
辷り出て、それからは騎虎の勢で、僕にね、五十円あるんだ、故郷の
(あねからもらったのさ、これから、みんなでりょこうにでようよ、なに、したくなんか)
姉から貰ったのさ、これから、みんなで旅行に出ようよ、なに、支度なんか
(いらない、そのままでいいじゃないか、いこう、いこう、とやけくそになり、)
要らない、そのままでいいじゃないか、行こう、行こう、とやけくそになり、
(しぶるゆうじんたちをひっぱるようにしてつれだしてしまいました。あとは、)
しぶる友人達を引張るようにして連れ出してしまいました。あとは、
(どうなることか、わたしじしんにさえわかりませんでした。あのころはわたしも、)
どうなることか、私自身にさえわかりませんでした。あの頃は私も、
(ずいぶん、のんきなところのあるこどもでした。よのなかもまた、わたしたちをのんきに)
随分、呑気なところのある子供でした。世の中も亦、私達を呑気に
(あまえさせてくれていました。わたしは、みしまにいってしょうせつをかこうとおもって)
あまえさせてくれていました。私は、三島に行って小説を書こうと思って
(いたのでした。みしまにはたかべさきちさんという、わたしよりふたつとししたのせいねんが)
居たのでした。三島には高部佐吉さんという、私より二つ年下の青年が
(さかやをひらいていたのです。さきちさんのにいさんはぬまづでおおきいつくりざかやを)
酒屋を開いて居たのです。佐吉さんの兄さんは沼津で大きい造酒屋を
(いとなみ、さきちさんはそのすえっこで、わたしとふとしたことから、しりあいになり、)
営み、佐吉さんはその末っ子で、私とふとした事から、知合いになり、
(わたしもどうようにまっていであるし、またどうようにはやくからちちにしなれているみのうえ)
私も同様に末弟であるし、また同様に早くから父に死なれている身の上
(なので、さきちさんとは、なにかとはなしがあうのでした。さきちさんのにいさんとは)
なので、佐吉さんとは、何かと話が合うのでした。佐吉さんの兄さんとは
(わたしもあったことがあり、なかなかふとっぱらのよいほうだし、さきちさんはいえじゅうの)
私も逢ったことがあり、なかなか太っ腹の佳い方だし、佐吉さんは家中の
(あいをどくせんしているくせに、それでもなにかとふへいがおおいようで、いえをとびだし、)
愛を独占して居るくせに、それでも何かと不平が多い様で、家を飛出し、
(とうきょうのわたしのげしゅくへ、にこにこわらってやってきたこともありました。さまざま)
東京の私の下宿へ、にこにこ笑ってやって来た事もありました。さまざま
(だだをこねていたようですが、どうにかおちつき、みしまのまちはずれに)
駄々をこねて居たようですが、どうにか落ち附き、三島の町はずれに
(こぢんまりしたいえをもち、にいさんのいえのみせにならべ、)
小ぢんまりした家を持ち、兄さんの家の酒樽を店に並べ、
(さけのこうりをはじめたのです。にじゅっさいのいもうとさんとふたりですんでいました。)
酒の小売を始めたのです。二十歳の妹さんと二人で住んで居ました。
(わたしは、そのいえへいくつもりであったのです。さきちさんから、てがみで)
私は、其の家へ行くつもりであったのです。佐吉さんから、手紙で
(ようすをきいてるだけで、まだそのいえをみたこともなかったので、)
様子を聞いてるだけで、まだ其の家を見た事も無かったので、
(いってみてぐあいがわるいようだったらすぐかえろう、ぐあいがいいようだったら)
行ってみて具合が悪いようだったらすぐ帰ろう、具合がいいようだったら
(ひとなつおいてもらって、しょうせつをいっぺんかこう、そうおもっていたのでありましたが、)
一夏置いて貰って、小説を一篇書こう、そう思って居たのでありましたが、
(こころならずもさんにんのゆうじんをしょうたいしてしまったので、わたしは、とにかくみしままでの)
心ならずも三人の友人を招待してしまったので、私は、とにかく三島迄の
(きっぷをよんまいかい、じしんありげにゆうじんたちをきしゃにのせたものの、さて)
切符を四枚買い、自信あり気に友人たちを汽車に乗せたものの、さて
(こんなにおおぜいでさきちさんのちいさいしゅてんにごやっかいになっていいものかどうか、)
こんなに大勢で佐吉さんの小さい酒店に御厄介になっていいものかどうか、
(きしゃのすすむにつれてわたしのふあんはぞうだいし、そのうちにひもくれて、みしまえき)
汽車の進むにつれて私の不安は増大し、そのうちに日も暮れて、三島駅
(ちかくなるころには、あまりのこころぼそさにぜんしんこまかにふるえはじめ、いくどとなく)
近くなる頃には、あまりの心細さに全身こまかにふるえ始め、幾度となく
(なみだぐみました。わたしはじしんのこのふあんを、ゆうじんにしらせたくなかったので、)
涙ぐみました。私は自身のこの不安を、友人に知らせたくなかったので、
(けんめいにさきちさんのひとがらのよさをかたり、みしまについたらしめたものだ、)
懸命に佐吉さんの人柄の良さを語り、三島に着いたらしめたものだ、
(じぶんでもいやになるほど、そのまのぬけたむみなことばをいくどもいくどもくりかえして)
自分でもイヤになる程、その間の抜けた無意味な言葉を幾度も幾度も繰返して
(いうのでした。あらかじめさきちさんにでんぽうをうっておいたのですが、)
言うのでした。あらかじめ佐吉さんに電報を打って置いたのですが、
(はたしてみしまのえきにむかえにきてくれているかどうか、もしむかえにきて)
はたして三島の駅に迎えに来てくれて居るかどうか、若し迎えに来て
(いてくれなかったら、わたしはこのさんにんのゆうじんをかかえて、いったいどうしたらいい)
居てくれなかったら、私は此の三人の友人を抱えて、一体どうしたらいい
(でしょう。わたしのめんぼくは、まるつぶれになるのではないでしょうか。)
でしょう。私の面目は、まるつぶれになるのではないでしょうか。
(みしまえきにおりてかいさつぐちをでると、こうないはがらんとしてだれもおりませぬ。)
三島駅に降りて改札口を出ると、構内はがらんとして誰も居りませぬ。
(ああ、やはりだめだ。わたしはなきべそをかきました。えきはたはたのまんなかにあって、)
ああ、やはり駄目だ。私は泣きべそをかきました。駅は田畑の真中に在って、
(みしまのまちのあかりさえみえず、どちらをみまわしてもまっくらやみ、いなだをなでる)
三島の町の灯さえ見えず、どちらを見廻しても真暗闇、稲田を撫でる
(かぜのおとがさやさやきこえ、かえるのこえもむねにしみて、わたしはまったくとほうにくれました。)
風の音がさやさや聞え、蛙の声も胸にしみて、私は全く途方にくれました。
