森鴎外 食堂②
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問題文
(これもきょくちょうにきいたことばであろう。やまだはめをみはっている。きむらはやまだのかおをみて)
これも局長に聞いた詞であろう。山田は目を瞠っている。木村は山田の顔を見て
(きのどくがるようなようすをした。そしてこういった。)
気の毒がるような様子をした。そしてこう云った。
(「あれはかいがいからはいるいんさつぶつをけんえつして、かっぱんにつかうすみでぬりけすことさ。)
「あれは海外から這入る印刷物を検閲して、活版に使う墨で塗り消すことさ。
(くろくするからかうぃあにするというのだろう。ところがことしははさみできったり、)
黒くするからカウィアにするというのだろう。ところが今年は剪刀で切ったり、
(ぼっしゅうしたりしだした。かうぃあはかたがわですむが、きりぬかれちゃりょうめんなくなる。)
没収したりし出した。カウィアは片側で済むが、切り抜かれちゃ両面無くなる。
(ぼっしゅうせられればまるでなくなる。」やまだはむじゃきにわらった。しばらくいちどうだまって)
没収せられればまるで無くなる。」山田は無邪気に笑った。暫く一同黙って
(べんとうをくっていたが、やまだはなにかきにかかるというようすで、またいいだした。)
弁当を食っていたが、山田は何か気に掛かるという様子で、また言い出した。
(「あんなれんじゅうがこれからふえるだろうか。」「ふえられてたまるものか」と、)
「あんな連中がこれから殖えるだろうか。」「殖えられて溜まるものか」と、
(いぬづかはしかるようにいって、とくべつにあつくきってあるらしいたくあんを、しろい、するどい)
犬塚は叱るように云って、特別に厚く切ってあるらしい沢庵を、白い、鋭い
(まえばでかみきった。「きむらくん、どうだろう」と、やまだはふあんらしいかおをみぎどなりの)
前歯で咬み切った。「木村君、どうだろう」と、山田は不安らしい顔を右隣の
(ほうへむけた。「まずおくにがらだから、とうきょくがたくみにかじをとっていけば、ふえずに)
方へ向けた。「先ずお国柄だから、当局が巧に柁を取って行けば、殖えずに
(すむだろう。しかしやりようでは、げきせいするというようなかたむきをしょうじかねない。)
済むだろう。しかし遣りようでは、激成するというような傾きを生じ兼ねない。
(そのこうほしゃはどんなにんげんかというと、あらゆるふぐうなにんげんだね。せんねんそうしに)
その候補者はどんな人間かと云うと、あらゆる不遇な人間だね。先年壮士に
(なったようなにんげんだね。」ちゃをのんでせきをたつものがちらほらある。)
なったような人間だね。」茶を飲んで席を起つものがちらほらある。
(きむらはかくしからふろしきをだして、べんとうのあきばこをたたんでつつんでいる。いぬづかはようじを)
木村は隠しから風炉鋪を出して、弁当の空箱を畳んで包んでいる。犬塚は楊枝を
(つかいながらきむらに、「まあ、すこしゆっくりしたまえ」といった。たちかかっていた)
使いながら木村に、「まあ、少しゆっくりし給え」と云った。起ち掛かっていた
(きむらは、またこしをすえて、ちゃわんにちゃをいっぱいそそいだ。ふたりといっしょにいのこった)
木村は、また腰を据えて、茶碗に茶を一杯注いだ。二人と一しょに居残った
(やまだは、しきりにちしきよくにせめられるというようすで、こんなといをだした。)
山田は、頻りに知識欲に責められるという様子で、こんな問を出した。
(「じつはむせいふしゅぎというものは、どんなれきしをもっているものかとおもって、)
「実は無政府主義というものは、どんな歴史を持っているものかと思って、
(こないだもあるざっしにしょたいかのはなしのでているのをよんでみたが、いっこう)
こないだもある雑誌に諸大家の話の出ているのを読んで見たが、一向
(わからない。なづけおやはべつとして、いったいどんなひとがたてたしゅぎかねえ。」)
分からない。名附親は別として、一体どんな人が立てた主義かねえ。」
(いぬづかは、「なんにしろごろくじゅうねんこのかたのことだから、むずかしいれきしはないさ」)
犬塚は、「なんにしろ五六十年このかたの事だから、むずかしい歴史はないさ」
(といって、きむらのかおをみて、「きみはたいがいしっているだろう」といいたした。)
と云って、木村の顔を見て、「君は大概知っているだろう」と言い足した。
(きむらはすこしうるさいとおもったらしくかおをしかめたが、すぐおもいなおしたようすで)
木村は少しうるさいと思ったらしく顔を顰めたが、直ぐ思い直した様子で
(こういった。「そう。ぼくだってべつにけんきゅうしたのではありませんが、きんだいしそうの)
こう云った。「そう。僕だって別に研究したのではありませんが、近代思想の
(しりゅうですから、あらまししっています。ごじゅうねんあまりまえ(1856)にしんだ)
支流ですから、あらまし知っています。五十年余り前(1856)に死んだ
(まっくすすちるねるがきょくたんなこじんしゅぎをたてたのがたんしょになっていると、)
Max Stirnerが極端な個人主義を立てたのが端緒になっていると、
(いっぱんにみとめられているようです。つぎはよんじゅうねんあまりまえ(1865)にしんだ)
一般に認められているようです。次は四十年余り前(1865)に死んだ
(ぷるうどんで、くろぽときんがむせいふしゅぎのちちといったのが)
Proudhonで、Kropotkinが無政府主義の父と云ったのが
(あたっているかどうかはべつとして、さっきもいったように、なづけおやだということ)
当っているかどうかは別として、さっきも言ったように、名附親だということ
(だけはたしかです。つぎははじめてむせいふしゅぎをじっこうしようとした)
だけは確かです。次は始て無政府主義を実行しようとした
(みかえるばくにんで、さんじゅうねんあまりまえ(1876)に)
Michael Bakuninで、三十年余り前(1876)に
(しんでいます。それからこっちでなをしられているのは、ろんどんににげて)
死んでいます。それからこっちで名を知られているのは、ロンドンに逃げて
(おこなっていて、もうななじゅうちかくになっている(1842うまれ)ぺえてる)
行っていて、もう七十近くになっている(1842生れ)Peter
(あれくせえうぃっちくろぽときんで、そのほかにはあめりかに)
Alexejewitsch Kropotkinで、その外には亜米利加に
(たっかあようなじんぶつがあるだけでしょう。」「なかなかくわしいね」と、)
Tuckerのような人物があるだけでしょう。」「なかなか精しいね」と、
(いぬづかがまたひやかした。ねっしんにきいていたやまだがまたくちをだした。「いったいその)
犬塚がまた冷かした。熱心に聞いていた山田がまた口を出した。「一体その
(にさんにんのおおあたまはどんなにんげんかねえ。」きむらはみぎのひじをたくについて、あたまをささえて、)
二三人の大頭はどんな人間かねえ。」木村は右の肘を卓に衝いて、頭を支えて、
(ややたいくつらしいようすをしてはなしている。「すちるねるはてつがくしじょうにだいえいきょうを)
やや退屈らしい様子をして話している。「スチルネルは哲学史上に大影響を
(あたえているひとで、むせいふしゅぎといわれているひとたちといっしょにせられては)
与えている人で、無政府主義と云われている人達と一しょにせられては
(かわいそうだ。あれはほんみょうをよはんかすぱるしゅみっとといって)
可哀相だ。あれは本名をJohann Kaspar Schmidtと云って
(べるりんでこうとうがっこうのきょうしをしていた。ゆうめいな、ゆいいつしゃとそのしょゆうをだすときに、)
伯林で高等学校の教師をしていた。有名な、唯一者とその所有を出す時に、
(ずいぶんきょくたんなぎろんだから、ほんみょうをしょせずにだしたのだ。しかしいまではれくらむ)
随分極端な議論だから、本名を署せずに出したのだ。しかし今ではReclam
(ばんになっていて、だれでもよむ。ぷるうどんはべさんそんの)
版になっていて、誰でも読む。ProudhonはBesanc,onの
(びんぼうにんのこで、ちいさいときに、かつじひろいまでしたことがあるそうだ。それでも)
貧乏人の子で、小さい時に、活字拾いまでしたことがあるそうだ。それでも
(とうとうぱりいでぎいんにあげられるまでこぎつけた。たいしたがくしゃではない。)
とうとう巴里で議員に挙げられるまで漕ぎ付けた。大した学者ではない。
(すちるねるとおなじように、へえげるをほんぞんにしてはいるが、へえげるのほんを)
スチルネルと同じように、Hegelを本尊にしてはいるが、ヘエゲルの本を
(ほんとうによんだのではないと、あとでじぶんではくじょうしている。すちるねるがするどいろんりで)
本当に読んだのではないと、後で自分で白状している。スチルネルが鋭い論理で
(どくそうのぎろんをしたのとはちがって、たいていぜんじんのいったせつをこちょうしたにすぎない。)
独創の議論をしたのとは違って、大抵前人の言った説を誇張したに過ぎない。
(ゆうめいな、せんゆうはぬすみだというごなんぞも、ぷるうどんがうまれるよりにじゅうねんもまえに)
有名な、占有は盗みだという語なんぞも、プルウドンが生れるより二十年も前に
(ぶりぞおがいっている。ぷるうどんというひとはまずべんろんかというべき)
Brissotが云っている。プルウドンという人は先ず弁論家というべき
(だろう。それからばくにんは、もすこおとぺてるぶるぐのちゅうかんにある)
だろう。それからバクニンは、莫斯科と彼得堡との中間にある
(ぷりやむひので、きかのいえにうまれたひとで、ほうへいのしかんになったが、)
Prjamuchinoで、貴家の家に生れた人で、砲兵の士官になったが、
(うまれつきらんをこのむというたちなので、まもなくぐんせきをだっして、よーろっぱじゅうを)
生れ附き乱を好むという質なので、間もなく軍籍を脱して、欧羅巴中を
(へんれきして、いたるところにそうどうをおこさせたものだ。ほんごくのしべりあへながされたほかに、)
遍歴して、到る処に騒動を起させたものだ。本国のシベリアへ流された外に、
(しょほうでごくにつながれたことがある。むせいふとうじけんとしてはいちばんおおきいゆらの)
諸方で獄に繋がれたことがある。無政府党事件としては一番大きいJuraの
(とけいしょくにんのそうどうも、このひとがせんどうしたのだ。すうぃすにいるうちに、べるんで)
時計職人の騒動も、この人が煽動したのだ。瑞西にいるうちに、Beruで
(しんぞうびょうになってしんだ。それからくろぽときんだが、あれはすもれんすく)
心臓病になって死んだ。それからクロポトキンだが、あれはSmolensk
(こうしゃくのむすこにうまれて、ちいさいときはみやなかでとねりをつとめていた。それからかざあき)
公爵の息子に生れて、小さい時は宮中で舎人を勤めていた。それからカザアキ
(きへいのしかんになってしべりあへやられて、ごねんかんざいきんしていて、まんしゅうまで)
騎兵の士官になってシベリアへ遣られて、五年間在勤していて、満州まで
(まわってみた。そのころしゅじゅなひとにせっしょくしたけっか、むせいふしゅぎになったのだそうだ。)
廻って見た。その頃種々な人に接触した結果、無政府主義になったのだそうだ。
(それからぺてるぶるぐのだいがくにはいって、ちがくをけんきゅうした。じぶんでもがくじゅつじょうにかちの)
それから彼得堡の大学に這入って、地学を研究した。自分でも学術上に価値の
(あるじぎょうは、さんじゅっさいのときにかんこうしたあじあちずだといっている。ゆらへ)
ある事業は、三十歳の時に刊行した亜細亜地図だと云っている。Juraへ
(いったのも、えいこくでちがくじょうのようむをしょくたくせられていったのだ。あめりかの)
行ったのも、英国で地学上の用務を嘱託せられて行ったのだ。亜米利加の
(たっかあなんぞはぷるうどんのほんやくをしているくらいのもので、たいしたじんぶつでは)
タッカアなんぞはプルウドンの翻訳をしている位のもので、大した人物では
(ない。」きむらがしばらくだまっていると、いぬづかがいった。「くろぽときんはべっぴんの)
ない。」木村が暫く黙っていると、犬塚が云った。「クロポトキンは別品の
(むすめをもっているというじゃないか。」「そうです。たいそうせけんでどうじょうしている)
娘を持っているというじゃないか。」「そうです。大相世間で同情している
(おんなのようですね」と、きむらはこたえて、まただまってしまった。やまだがなにか)
女のようですね」と、木村は答えて、また黙ってしまった。山田が何か
(おもいだしたというようすでいった。「こんどのれんじゅうはしけいになりたがって)
思い出したという様子で云った。「こん度の連中は死刑になりたがって
(いるから、しけいにしないほうがいいというものがあるそうだが、どういうもの)
いるから、死刑にしない方が好いというものがあるそうだが、どういうもの
(だろう。」しきしまのけむりをふいていたいぬづかが、「そうさ、しにたがっている)
だろう。」敷島の烟を吹いていた犬塚が、「そうさ、死にたがっている
(そうだから、かんごくでうまいものをくわせて、ながいきをさせてやるがよかろう」と)
そうだから、監獄で旨い物を食わせて、長生をさせて遣るが好かろう」と
(いってわらった。そしてきむらのほうへむいて、「これまでしけいになったやつは、)
云って笑った。そして木村の方へ向いて、「これまで死刑になった奴は、
(けんしんしゃだというので、ひどくあがめられているというじゃないか」といった。)
献身者だというので、ひどく崇められているというじゃないか」と云った。
(きむらは「らわこおるわいやんあんりい)
木村は「Ravachol--Vaillant--Henry--
(かぜりお」とかずをよむようにいって、「ずいぶんさかんにしゅぎのせんでんに)
Caserio」と数を読むように云って、「随分盛んに主義の宣伝に
(つかわれているようですね」といいたした。「どれ」といって、いぬづかがかみまきの)
使われているようですね」と言い足した。「どれ」と云って、犬塚が紙巻の
(もえさしをはいふきのなかになげたのをあいずに、さんにんはせきをたった。)
燃えさしを灰吹の中に投げたのを合図に、三人は席を起った。
(ほかをかたづけてしまってまっていた、まかないのおとこが、さんにんのまえにあったちゃわんや)
外を片付けてしまって待っていた、まかないの男が、三人の前にあった茶碗や
(はいふきをのけて、みずをだぶだぶふくませたぞうきんで、たくのうえをなではじめた。)
灰吹を除けて、水をだぶだぶ含ませた雑巾で、卓の上を撫で始めた。
((めいじよんじゅうさんねんじゅうにがつ))
(明治四十三年十二月)