哀れなトンマ先生　坂口安吾

(ひとりのまないにんげんがいても、すぐしっぱいする。たまたまひとりべんじょにいても)

一人のまない人間がいても、すぐ失敗する。たまたま一人便所にいても

(しっぱいする。そとからだれかがはいってきてもしっぱいする。おれは、もう、きのうちぶすの)

失敗する。外から誰かが這入ってきても失敗する。オレは、もう、昨日チブスの

(ちゅうしゃをしたんだい、というきゅうじがあらわれてもだめなのであります。)

注射をしたんだい、という給仕が現れてもダメなのであります。

(するとていぎんせんせいは、また、さんじゅっぷんしいなまちしてんちょうとむだばなしをして、しんちしきを)

すると帝銀先生は、又、三十分椎名町支店長とムダ話をして、新知識を

(えとくして、むなしくひきあげたかもしれません。そして、そのしんちしきのたいさくを)

会得して、むなしく引きあげたかも知れません。そして、その新知識の対策を

(よういして、たとえば、だれか、べんじょにいるやつはないか、とちゅういするすべをあらたに)

用意して、たとえば、誰か、便所にいる奴はないか、と注意する術を新たに

(えとくして、よんけんめにあらわれたでしょうね。ふとうふくつですよ。しかし、おかしく)

会得して、四軒目に現れたでしょうね。フトウフクツですよ。然し、おかしく

(なるほど、とんまだとはおもいませんか。もしもしいなまちで、ほとんどありうべからざる)

なるほど、トンマだとは思いませんか。もしも椎名町で、殆ど有りうべからざる

(ぐうぜんのせいこうがなければ、おそらく、このせんせいはむなしくすうじゅっけんのぎんこうをへんれきし、)

偶然の成功がなければ、恐らく、この先生はむなしく数十軒の銀行を遍歴し、

(そのたびごとにあらてのじゅつをえとくしつつえいえんにへんれきしつづけたかもしれません。)

その度毎に新手の術を会得しつつ永遠に遍歴しつづけたかも知れません。

(そのていどにとんまなせんせいのようにわたしはおもいました。しかし、しいなまちで、いざ、)

その程度にトンマな先生のように私は思いました。然し、椎名町で、イザ、

(せいこうしてみると、あまりにも、げんじつに、かのせんせいのめのまえにてんかいしたできごとは)

成功してみると、あまりにも、現実に、かの先生の目の前に展開した出来事は

(すごすぎました。このすごみをせいかくに、よそうしてはいなかったほど、このせんせいは)

凄すぎました。この凄味を正確に、予想してはいなかったほど、この先生は

(とんまなようにおもわれます。いざ、めのまえにてんかいしたできごとはあまりにも)

トンマなように思われます。イザ、目の前に展開した出来事はあまりにも

(すごすぎたですから、せんせいは、あわてた。てぢかにあったこがねだけしかもちかえる)

凄すぎたですから、先生は、慌てた。手近かにあった小金だけしか持ち帰る

(さんだんがつかなかったほど、かれは、つまり、じけんそのもののきょうあくなけっかを、じぜんに)

算段がつかなかったほど、彼は、つまり、事件そのものの兇悪な結果を、事前に

(にんしきしていなかったのでしょう。よくじつこぎってをうけとりにいくのもずぶといと)

認識していなかったのでしょう。翌日小切手を受取りに行くのもズブトイと

(いうより、とんま、まぬけ、なのです。ばかものなのです。こぎってのしょめいが)

いうより、トンマ、マヌケ、なのです。バカモノなのです。小切手の署名が

(ほとんどじじつのひっせきらしいのも、まぬけのしょうこいがいのなにものでもないでしょう。)

殆ど事実の筆蹟らしいのも、マヌケの証拠以外の何物でもないでしょう。

(わたしは、このはんにんは、まぬけからまぐれあたりにせいこうし、まぐれあたりだから、けいさつが)

私は、この犯人は、マヌケからマグレ当りに成功し、マグレ当りだから、警察が

(なかなか、つかまえられないのだとおもっていました。いまでも、そうおもっています)

なかなか、つかまえられないのだと思っていました。今でも、そう思っています

(「おーる、きゃっしゅ」「おーる、めんばー、あつまれ」)

「オール、キャッシュ」「オール、メンバー、あつまれ」

(などとさけんでいるところ、まったくとんまなあいけいであって、わたしはあきれて、はらも)

などと叫んでいるところ、まったくトンマな愛敬であって、私は呆れて、腹も

(たたないのでした。こういうとんまなせんせいに、まんまとまぐれあたりに、)

立たないのでした。こういうトンマな先生に、マンマとマグレ当りに、

(してやられたじゅうにめいのひがいしゃはきのどくです。はんにんせんせいも、わがはんざいのあまりの)

してやられた十二名の被害者は気の毒です。犯人先生も、わが犯罪の余りの

(すごみにおどろきあきれたとおもいます。にもかかわらず、たったいちまんななせんえんかのこぎってを)

凄味に驚き呆れたと思います。にも拘らず、たった一万七千円かの小切手を

(よくじつのこのこと、ひっせきをかくさぬらしいしょめいをしてうけとりにでかけるとは)

翌日ノコノコと、筆蹟を隠さぬらしい署名をして受けとりに出かけるとは

(よっぽどかねがほしかったのでしょう。このちいさなきんがくをえることと、)

よっぽど金がほしかったのでしょう。この小さな金額を得ることと、

(このだいざいにんとしてとらわれることとのけいさんすらもたたないほど、かれはとんまで、)

この大罪人として捕われることとの計算すらも立たないほど、彼はトンマで、

(ただ、もう、かねにめがくらんでいたのでしょう。このいちじだけでも、わたしははんにんの)

ただ、もう、金に目がくらんでいたのでしょう。この一事だけでも、私は犯人の

(のんきさ、とんまさ、ばかさに、かくしんをもっていました。だから、わたしは、)

ノンキさ、トンマさ、バカさに、確信をもっていました。だから、私は、

(このじけんのけっかのすごみにもかかわらず、はんにんがとんまのせいで、じけんのほんしつてきな)

この事件の結果の凄味にも拘らず、犯人がトンマのせいで、事件の本質的な

(きょうあくさをかんじていなかったのです。わたしはこだいらせんせいは、いやらしく、きたならしく、)

兇悪さを感じていなかったのです。私は小平先生は、イヤらしく、汚らしく、

(にくらしくて、たまりませんが、ていぎんせんせいは、いまでも、そう、わるものだと)

にくらしくて、たまりませんが、帝銀先生は、今でも、そう、悪者だと

(おもっていません。たぶん、このとんませんせいは、ひじょうにちせいがひくいのだと)

思っていません。たぶん、このトンマ先生は、非常に知性が低いのだと

(おもいます。もし、ちせいがたかければ、こんなことはやらなかった。ちせいはあるしゅの)

思います。もし、知性が高ければ、こんなことはやらなかった。知性はある種の

(ことにはじっこうりょくを、あるしゅのことにはよくせいりょくをあたえてくれるものです。かれは)

ことには実行力を、ある種のことには抑制力を与えてくれるものです。彼は

(とんまですから、こんなことをやりました。むしょうにかねのほしいこのとんまも)

トンマですから、こんなことをやりました。無性に金の欲しいこのトンマも

(あわれなせんせい、かなしいせんせいではないでしょうか。せんせいは、かねに、めがくらんでいて)

哀れな先生、悲しい先生ではないでしょうか。先生は、金に、目がくらんでいて

(あとは、なにもみえなかったのではないでしょうか。あわれなとんませんせい。)

あとは、何も見えなかったのではないでしょうか。哀れなトンマ先生。