パノラマ奇島談_§7

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著者:江戸川乱歩
売れない物書きの人見廣介は、定職にも就かない極貧生活の中で、自身の理想郷を夢想し、それを実現することを夢見ていた。そんなある日、彼は自分と瓜二つの容姿の大富豪・菰田源三郎が病死した話を知り合いの新聞記者から聞く。大学時代、人見と菰田は同じ大学に通っており、友人たちから双生児の兄弟と揶揄されていた。菰田がてんかん持ちで、てんかん持ちは死亡したと誤診された後、息を吹き返すことがあるという話を思い出した人見の中で、ある壮大な計画が芽生える。それは、蘇生した菰田を装って菰田家に入り込み、その莫大な財産を使って彼の理想通りの地上の楽園を創造することであった。幸い、菰田家の墓のある地域は土葬の風習が残っており、源三郎の死体は焼かれることなく、自らの墓の下に埋まっていた。

人見は自殺を偽装して、自らは死んだこととし、菰田家のあるM県に向かうと、源三郎の墓を暴いて、死体を隣の墓の下に埋葬しなおし、さも源三郎が息を吹き返したように装って、まんまと菰田家に入り込むことに成功する。人見は菰田家の財産を処分して、M県S郡の南端にある小島・沖の島に長い間、夢見ていた理想郷を建設する。

一方、蘇生後、自分を遠ざけ、それまで興味関心を示さなかった事業に熱中する夫を源三郎の妻・千代子は当惑して見つめていた。千代子に自分が源三郎でないと感付かれたと考えた人見は千代子を、自らが建設した理想郷・パノラマ島に誘う。人見が建設した理想郷とはどのようなものだったのか。そして、千代子の運命は?

関連タイピング

問題文

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(ききしったならば、たしょうはおしみもし、なげいてもくれることでしょうけど、)

聞き知ったならば、多少は惜しみもし、嘆いてもくれることでしょうけど、

(そのていどのさしさわりは、もとよりかくごのうえでもあり、)

その程度の差しさわりは、もとより覚悟の上でもあり、

(かれとしてべつだんこころぐるしいほどのことでもないのです。)

彼として別段心苦しいほどのことでもないのです。

(それよりもかれは、このじぶんじしんをまっさつしてしまったあとの、)

それよりも彼は、この自分自身を抹殺してしまった後の、

(なんともけいようのできない、ふしぎなかんじでむちゅうになっていました。)

何とも形容のできない、不思議な感じで夢中になっていました。

(かれはもはや、こっかのこせきめんにせきもなく、ひろいせかいにだれひとりみよりもなければ)

彼は最早、国家の戸籍面に席もなく、広い世界に誰一人身寄りもなければ

(ともだちもなく、そのうえなまえさえもたぬところの、いっこのすとれんじゃーなので)

友達もなく、その上名前さえ持たぬところの、一個のストレンジャーなので

(ありました。そうなると、じぶんのぜんごさゆうにこしかけているじょうきゃくたちも、まどから)

ありました。そうなると、自分の前後左右に腰かけている乗客たちも、窓から

(みえるえんどうのけしきも、いっぽんのきも、いっけんのいえも、まるでこれまでとはちがった、)

見える沿道の景色も、一本の木も、一軒の家も、まるでこれまでとは違った、

(べつせかいのものにかんじられるのでした。それはいちめん、ひじょうにすがすがしい、)

別世界のものに感じられるのでした。それは一面、非常にすがすがしい、

(うまれたばかりというきもちでありましたが、またいちめんでは、)

生れたばかりという気持ちでありましたが、また一面では、

(このよにたったひとりという、しかもそのひとりぼっちのおとこが、これからみにあまる)

この世にたった一人という、しかもその一人ぼっちの男が、これから身に余る

(だいじぎょうをなしとげねばならないという、めいじょうしがたいさびしさで、)

大事業を成し遂げねばならないという、名状しがたい淋しさで、

(はてはなみだぐましくさえなってくるのを、どうすることもできませんでした。)

果ては涙ぐましくさえなってくるのを、どうすることもできませんでした。

(きしゃは、しかし、かれのかんかいなどにはかんけいなく、えきからえきへとはしりつづけ、)

汽車は、しかし、彼の感懐などには関係なく、駅から駅へと走り続け、

(やがて、よるにはいってもくてきちのtしへととうちゃくしました。)

やがて、夜に入って目的地のT市へと到着しました。

(さきのひとみひろすけはえきをでると、そのあしで、ただちにこもだけのぼだいじへと)

先の人見広介は駅を出ると、その足で、直ちに菰田家の菩提寺へと

(いそぐのでした。さいわいてらはしがいののちゅうにたっていましたので、)

急ぐのでした。幸い寺は市街の野中に建っていましたので、

(もうくじすぎというそのじぶんにはひとどおりもなく、てらのひとたちにさえ)

もう九時過ぎというその時分には人通りもなく、寺の人たちにさえ

(きをつけていれば、しごとをさとられるしんぱいはありません。それに、ふきんには)

気をつけていれば、仕事を悟られる心配はありません。それに、付近には

など

(むかしながらのあけっぱなしなひゃくしょうけがてんざいしていて、)

昔ながらの開けっ放しな百姓家が点在していて、

(そこのなやからくわをぬすみだすべんぎもあるのです。)

そこの納屋から鍬を盗み出す便宜もあるのです。

(あぜみちになった、まばらないけがきをもぐりこすと、そこがもうもんだいのはかばでした。)

畦道になった、まばらな生け垣を潜り越すと、そこがもう問題の墓場でした。

(やみよではありましたが、そのかわりにほしがさえているのと、)

闇夜ではありましたが、その代わりに星がさえているのと、

(まえにきてけんとうをつけておいたのとで、こもだげんざぶろうのにいはかを)

前に来て見当をつけておいたのとで、菰田源三郎の新墓を

(みつけだすのはなんのぞうさもありませんでした。)

見つけ出すのは何の造作もありませんでした。

(かれはそこからせきとうのなかをほんどうにちかづいて、とざされたあまどのすきからなかを)

彼はそこから石塔の中を本堂に近づいて、閉ざされた雨戸の隙から中を

(うかがってみましたが、ひっそりとしておともなく、へんぴなばしょのうえに、)

窺ってみましたが、ひっそりとして音もなく、辺鄙な場所の上に、

(あさのはやいてらのひとたちは、もうねてしまったようすでした。)

朝の早い寺の人たちは、もう寝てしまった様子でした。

(これならだいじょうぶとみさだめたうえ、かれはもとのあぜみちにとってかえし、ふきんのひゃくしょうけを)

これなら大丈夫と見定めた上、彼は元の畦道に取って返し、付近の百姓家を

(あさりまわって、なんなくいっぽんのくわをてにいれ、げんざぶろうのぼちにもどってきた)

あさり廻って、難なく一本の鍬を手に入れ、源三郎の墓地に戻ってきた

(じぶんには、それがみなねこのようにあしおとをぬすみ、やみのなかでみをかくしてのしごと)

時分には、それがみな猫のように足音を盗み、闇の中で身を隠しての仕事

(だったものですから、ひじょうにてまをとり、もうじゅういちじちかくになっていました。)

だったものですから、非常に手間を取り、もう十一時近くになっていました。

(かれのけいかくにとってはちょうどよいじかんなのです。)

彼の計画にとってはちょうどよい時間なのです。

(さてかれは、ものすごいやみのぼちに、くわをふるって、)

さて彼は、ものすごい闇の墓地に、鍬をふるって、

(よにもおそるべきはかぼりのしごとをはじめるのでありました。)

世にも恐るべき墓掘りの仕事を始めるのでありました。

(にいはかのこととて、ほりかえすのにぞうさはありませんが、そのしたにかくれている)

新墓のこととて、掘り返すのに造作はありませんが、その下に隠れている

(ものをそうぞうすると、すうじつたしょうばかずをふみ、どんよくにきのくるったかれとても、)

ものを想像すると、数日多少場数を踏み、貪欲に気の狂った彼とても、

(いいがたきおそれのために、せんりつをかんじないではいられませんでした。)

言いがたき恐れのために、戦慄を感じないではいられませんでした。

(が、なにをおもうひまもないのでした。じゅっかいもくわをくだしたかとおもうと、)

が、何を思う暇もないのでした。十回も鍬を下したかと思うと、

(もうひつぎのふたがあらわれてしまったのです。)

もう棺の蓋が表れてしまったのです。

(いまさらちゅうちょしているばあいではありません。)

今更躊躇している場合ではありません。

(かれはまんしんのゆうをふるって、その、やみにほのじろくみえているしらきのいたのうえのつちを)

彼は満身の勇をふるって、その、闇にほの白く見えている白木の板の上の土を

(とりのけ、いたといたとのあいだにくわのさきをかって、ひとつうんとちからをいれると、)

取り除け、板と板との間に鍬の先をかって、一つうんと力を入れると、

(ぎ・・・・・・ぎとほねのずいにひびくようなおとをたてて、しかし、なんなくふたはひらきました。)

ギ……ギと骨の髄に響くような音を立てて、しかし、難なく蓋は開きました。

(そのひょうしに、まわりのつちがくずれてさらさらとひつぎのそこへおちるのさえ、)

その拍子に、周りの土が崩れてサラサラと棺の底へ落ちるのさえ、

(なにかせいあるもののしわざのようにかんじて、かれはいのちもちぢむおもいをしたことです。)

何か生あるものの仕業のように感じて、彼は命も縮む思いをしたことです。

(ふたをひらくとどうじに、めいじょうしがたいいしゅうがかれのはなをつきました。)

蓋を開くと同時に、名状し難い異臭が彼の鼻を突きました。

(しんでからしち、はちにちもたっているのですから、げんざぶろうのしたいは、)

死んでから七、八日も経っているのですから、源三郎の死体は、

(もうくさりはじめたのにちがいありません。かれはとうのしたいをみるまえに、)

もう腐り始めたのに違いありません。彼は当の死体を見る前に、

(まずそのいしゅうにたじろがないではいられませんでした。)

まずその異臭にたじろがないではいられませんでした。

(はかばというようなものを、あまりこわがらないかれは、それまでぞんがいへいきで)

墓場というようなものを、あまり怖がらない彼は、それまで存外平気で

(しごとをつづけることができたのですが、さてひつぎのふたをとって、もうひとつのかれ)

仕事を続けることが出来たのですが、さて棺の蓋を取って、もう一つの彼

(といってもいい、こもだのしがいとかおをあわせるだんになると、はじめてなにかこう、)

といってもいい、菰田の死骸と顔を合わせる段になると、初めて何かこう、

(えたいのしれぬかげのようなものが、たましいのそこからじりじりとこみあげてくるかんじで、)

得体の知れぬ影のようなものが、魂の底からジリジリと込み上げてくる感じで、

(わっといって、いきなりにげだしたいほどのきょうふにおそわれました。)

ワッといって、いきなり逃げ出したいほどの恐怖に襲われました。

(それはけっして、ゆうれいのこわさなどではなく、もっといような、どちらかといえば)

それは決して、幽霊の怖さなどではなく、もっと異様な、どちらかといえば

(げんじつてきな、それだけではとうていいいつくせないのですけれど、たとえば、)

現実的な、それだけでは到底言い尽くせないのですけれど、例えば、

(くらやみのおおひろまでたったひとり、ろうそくのひかりでじぶんのかおをうつすときににた、)

暗闇の大広間でたった一人、蝋燭の光で自分の顔をうつすときに似た、

(それのいくそうばいもおそろしいかんじでありました。)

それの幾層倍も恐ろしい感じでありました。

(ちんもくのほしぞらのもとに、うすぼんやりとたくさんのにんげんがたっているようなせきとう、)

沈黙の星空のもとに、うすぼんやりとたくさんの人間が立っているような石塔、

(そのまんなかに、ぽっかりとくちをあいたまっくろなあな、うすきみわるい)

その真ん中に、ぽっかりと口をあいた真っ黒な穴、薄気味悪い

(じごくのえまきものににて、みずからそのがちゅうのひとになったきもちです。そして、)

地獄の絵巻物に似て、自らその画中の人になった気持です。そして、

(そのあなのそこの、ちょっとみたくらいではしきべつできぬくらさのなかによこたわっている)

その穴の底の、ちょっと見たくらいでは識別できぬ暗さの中に横たわっている

(しにんは、ほかでもないかれじしんなのでありました。このしにんのかおを)

死人は、ほかでもない彼自身なのでありました。この死人の顔を

(しきべつできぬというてんが、いっそうおそろしさをますのでありました。)

識別できぬという点が、一層恐ろしさを増すのでありました。

(あなのそこに、ぽーっとしろくきょうかたびらがみえ、そこからはえているしにんのくびは、やみに)

穴の底に、ポーっと白く経帷子が見え、そこから生えている死人の首は、闇に

(とけこんでいて、しかし、それゆえに、どんなにこわくもそうぞうできるのです。)

溶け込んでいて、しかし、それゆえに、どんなに怖くも想像できるのです。

(ひょっとしたらぐうぜんにもかれのけいかくがいんをなして、こもだがまだほんとうにしんでいず、)

ひょっとしたら偶然にも彼の計画が因をなして、菰田がまだ本当に死んでいず、

(かれがはかをあばいたばっかりに、いきかえりつつあるのかもしれません。)

彼が墓をあばいたばっかりに、生き返りつつあるのかもしれません。

(そんなばかばかしいことまでもうそうされるのです。)

そんなばかばかしいことまで妄想されるのです。

(かれはみうちからこみあげてくるせんりつを、じっとおさえづけながら、)

彼は身内から込み上げてくる戦慄を、じっとおさえ付けながら、

(もはやほとんどうつろのこころで、あなのよこにはらばいになると、そのそこのほうへ、)

最早殆ど虚ろの心で、穴の横に腹ばいになると、その底の方へ、

(りょうてをのばして、おもいきって、しにんのからだをさぐってみました。)

両手を伸ばして、思い切って、死人の体を探ってみました。

(さいしょさわったのは、かみをそったとうぶらしく、いちめんにざらざらとこまかいけが)

最初触ったのは、髪をそった頭部らしく、一面にザラザラと細かい毛が

(かんじられました。ひふをおしてみると、みょうにぶよぶよしていて、)

感じられました。皮膚を押してみると、妙にブヨブヨしていて、

(すこしつよくあたれば、ずるりとかわがやぶれそうなのです。そのぶきみさに)

少し強く当たれば、ズルリと皮が破れそうなのです。その不気味さに

(はっとてをひいて、しばらくむねのこどうをしずめてから、ふたたびてをのばして、)

ハッと手を引いて、しばらく胸の鼓動を静めてから、再び手を伸ばして、

(こんどさわったのはしにんのくちらしく、かたいはならびがかんぜられ、)

今度触ったのは死人の口らしく、かたい歯並びが感ぜられ、

(そのはとはのあいだにかみあわせてあるのは、おそらくわたなのでしょう。)

その歯と歯の間に咬み合わせてあるのは、おそらく綿なのでしょう。

(やわらかくはあっても、くさりかかったひふのそれとはちがうのです。)

柔らかくはあっても、腐りかかった皮膚のそれとは違うのです。

(かれはすこしだいたんになって、なおもくちのあたりをさぐりまわしていますと、)

彼は少し大胆になって、なおも口のあたりを探り廻していますと、

(みょうなことには、こもたのくちはせいぜんのそれのじゅうばいものおおきさにひらいていることが)

妙なことには、菰田の口は生前のそれの十倍もの大きさに開いていることが

(わかりました。さゆうには、まるではんにゃのめんのように、)

わかりました。左右には、まるで般若の面のように、

(おくばがすっかりあらわれるほどにさけ、じょうげには、)

奥歯がすっかり現れるほどに裂け、上下には、

(はぐきがかんぜられるほどもひらいています。けっしてくらやみゆえのさっかくではないのです。)

歯茎が感ぜられるほども開いています。決して暗闇ゆえの錯覚ではないのです。

(それがまた、かれをこころのずいからふるえあがらせました。なにも、しにんがかれのてを)

それが又、彼を心の髄から震え上がらせました。何も、死人が彼の手を

(かむかもしれぬというような、そんなおそれではありません。)

噛むかもしれぬというような、そんな恐れではありません。

(しにんのはいぞうがうんどうをていししてからも、くちだけで、こきゅうをしようと、そのへんの)

死人の肺臓が運動を停止してからも、口だけで、呼吸をしようと、その辺の

(きんにくがきょくどにちぢんで、くちびるをおしひらき、)

筋肉が極度に縮んで、唇を押し開き、

(いきたにんげんではとてもふかのうなほどおおきなくちにしてしまったという、)

生きた人間ではとても不可能なほど大きな口にしてしまったという、

(そのだんまつまのよにもものすごいじょうけいが、かれのめさきにちらついたからです。)

その断末魔の世にもものすごい情景が、彼の眼先にチラついたからです。

(さきのひとみひろすけは、これだけのけいけんで、もはやせいもこんもつきはてたかんじでした。)

さきの人見広介は、これだけの経験で、最早精も根も尽き果てた感じでした。

(このうえになお、そのずるずるにくさったしたいをあなからとりだすだけではなくて、)

この上になお、そのズルズルに腐った死体を穴から取り出すだけではなくて、

(それをしょぶんするために、さらにいっそうおそろしいおおしごとを)

それを処分するために、さらにいっそう恐ろしい大仕事を

(やりとげなければならぬとおもうと、かれはじぶんのけいかくがむぼうきわまるもので)

やり遂げなければならぬと思うと、彼は自分の計画が無謀極まるもので

(あったことを、いまさらながら、つくづくとかんじないではいられませんでした。)

あったことを、今更ながら、つくづくと感じないではいられませんでした。

(はち)

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