芥川龍之介 藪の中②
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問題文
(たじょうまるのはくじょう)
【多襄丸の白状】
(あのおとこをころしたのはわたしです。しかしおんなはころしはしません。ではどこへ)
あの男を殺したのはわたしです。しかし女は殺しはしません。ではどこへ
(いったのか?それはわたしにもわからないのです。まあ、おまちなさい。)
行ったのか?それはわたしにもわからないのです。まあ、お待ちなさい。
(いくらごうもんにかけられても、しらないことはもうされますまい。そのうえわたしも)
いくら拷問にかけられても、知らない事は申されますまい。その上わたしも
(こうなれば、ひきょうなかくしだてはしないつもりです。わたしはきのうのひるすこしすぎ、)
こうなれば、卑怯な隠し立てはしないつもりです。わたしは昨日の午少し過ぎ、
(あのふうふにであいました。そのときかぜのふいたひょうしに、むしのたれぎぬがあがったもの)
あの夫婦に出会いました。その時風の吹いた拍子に、牟子の垂絹が上がったもの
(ですから、ちらりとおんなのかおがみえたのです。ちらりと、--みえたとおもうしゅんかん)
ですから、ちらりと女の顔が見えたのです。ちらりと、--見えたと思う瞬間
(には、もうみえなくなったのですが、ひとつにはそのためもあったのでしょう、)
には、もう見えなくなったのですが、一つにはそのためもあったのでしょう、
(わたしにはあのおんなのかおがにょぼさつのようにみえたのです。わたしはとっさのあいだに、)
わたしにはあの女の顔が女菩薩のように見えたのです。わたしは咄嗟の間に、
(たといおとこはころしても、おんなはうばおうとけっしんしました。なに、おとこをころすなぞは、)
たとい男は殺しても、女は奪おうと決心しました。何、男を殺すなぞは、
(あなたがたのおもっているようにたいしたことではありません。どうせおんなをうばうとなれば)
あなた方の思っているように大した事ではありません。どうせ女を奪うとなれば
(かならず、おとこはころされるのです。ただわたしはころすときに、こしのたちをつかうのですが、)
必ず、男は殺されるのです。ただ私は殺すときに、腰の太刀を使うのですが、
(あなたがたはたちはつかわない、ただけんりょくでころす、かねでころす、どうかすると)
あなた方は太刀は使わない、ただ権力で殺す、金で殺す、どうかすると
(おためごかしのことばだけでもころすでしょう。なるほどちはながれない、おとこはりっぱに)
おためごかしの言葉だけでも殺すでしょう。なるほど血は流れない、男は立派に
(いきている、--しかしそれでもころしたのです。つみのふかさをかんがえてみれば、)
生きている、--しかしそれでも殺したのです。罪の深さを考えて見れば、
(あなたがたがわるいか、わたしがわるいか、どちらがわるいかわかりません。(ひにくなる)
あなた方が悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません。(皮肉なる
(びしょう)しかしおとこをころさずとも、おんなをうばうことができればべつにふそくはないわけです。)
微笑)しかし男を殺さずとも、女を奪うことが出来れば別に不足はない訳です。
(いや、そのときのこころもちでは、できるだけおとこをころさずに、おんなをうばおうとけっしんした)
いや、その時の心もちでは、出来るだけ男を殺さずに、女を奪おうと決心した
(のです。が、あのやましなのえきみちでは、とてもそんなことはできません。そこで)
のです。が、あの山科の駅路では、とてもそんな事は出来ません。そこで
(わたしはやまのなかへ、あのふうふをつれこむくふうをしました。これもぞうさは)
わたしは山の中へ、あの夫婦をつれこむ工夫をしました。これも造作は
(ありません。わたしはあのふうふとみちづれになると、むこうのやまにはふるづかがある、)
ありません。わたしはあの夫婦と途づれになると、向うの山には古塚がある、
(このふるづかをあばいてみたら、かがみやたちがたくさんでた、わたしはだれもしらないように、)
この古塚を発いて見たら、鏡や太刀が沢山出た、わたしは誰も知らないように、
(やまのかげのやぶのなかへ、そういうものをうずめてある、もしのぞみてがあるならば、)
山の陰の藪の中へ、そう云う物を埋めてある、もし望み手があるならば、
(どれでもやすいねにうりわたしたい、--というはなしをしたのです。おとこはいつか)
どれでも安い値に売り渡したい、--と云う話をしたのです。男はいつか
(わたしのはなしに、だんだんこころをうごかしはじめました。それから、--どうです。)
わたしの話に、だんだん心を動かし始めました。それから、--どうです。
(よくというものはおそろしいではありませんか?それからはんときもたたないうちに、)
欲と云うものは恐ろしいではありませんか?それから半時もたたない内に、
(あのふうふはわたしといっしょに、やまみちへうまをむけていたのです。わたしはやぶのまえへ)
あの夫婦はわたしと一緒に、山路へ馬を向けていたのです。わたしは藪の前へ
(くると、たからはこのなかにうめてある、みにきてくれといいました。おとこはよくにかわいて)
来ると、宝はこの中に埋めてある、見に来てくれと云いました。男は欲に渇いて
(いますから、いぞんのあるはずはありません。が、おんなはうまもおりずに、まっている)
いますから、異存のある筈はありません。が、女は馬も下りずに、待っている
(というのです。またあのやぶのしげっているのをみては、そういうのもむりは)
と云うのです。またあの藪の茂っているのを見ては、そう云うのも無理は
(ありますまい。わたしはこれもじつをいえば、おもうつぼにはまったのですから、)
ありますまい。わたしはこれも実を云えば、思う壺にはまったのですから、
(おんなひとりをのこしたまま、おとことやぶのなかへはいりました。やぶはしばらくのあいだは)
女一人を残したまま、男と藪の中へはいりました。藪はしばらくの間は
(たけばかりです。が、はんちょうほどいったところに、ややひらいたすぎむらがある、)
竹ばかりです。が、半町ほど行った処に、やや開いた杉むらがある、
(ーーわたしのしごとをしとげるのには、これほどつごうのいいばしょはありません。)
ーーわたしの仕事を仕遂げるのには、これほど都合の好い場所はありません。
(わたしはやぶをおしわけながら、たからはすぎのしたにうめてあると、もっともらしい)
わたしは藪を押し分けながら、宝は杉の下に埋めてあると、もっともらしい
(うそをつきました。おとこはわたしにそういわれると、もうやせすぎがすいてみえるほうへ)
嘘をつきました。男はわたしにそう云われると、もう痩せ杉が透いて見える方へ
(いっしょうけんめいにすすんでいきます。そのうちにたけがまばらになると、なんぼんもすぎが)
一生懸命に進んで行きます。そのうちに竹が疎らになると、何本も杉が
(ならんでいる、--わたしはそこへくるがはやいかいきなりあいてをくみふせました。)
並んでいる、--わたしはそこへ来るが早いかいきなり相手を組み伏せました。
(おとこもたちをはいているだけに、ちからはそうとうあったようですが、ふいをうたれては)
男も太刀を佩いているだけに、力は相当あったようですが、不意を打たれては
(たまりません。たちまちいっぽんのすぎのねがたへ、くくりつけられてしまいました。)
たまりません。たちまち一本の杉の根がたへ、括りつけられてしまいました。
(なわですか?なわはぬすびとのありがたさに、いつへいをこえるかわかりませんから、ちゃんと)
縄ですか?縄は盗人の有難さに、いつ塀を越えるかわかりませんから、ちゃんと
(こしにつけていたのです。もちろんこえをださせないためにも、たけのらくようをほおばらせれば)
腰につけていたのです。勿論声を出させないためにも、竹の落葉を頬張らせれば
(ほかにめんどうはありません。わたしはおとこをかたづけてしまうと、こんどはまたおんなのところへ)
ほかに面倒はありません。わたしは男を片附けてしまうと、今度はまた女の所へ
(おとこがきゅうびょうをおこしたらしいから、みにきてくれといいにいきました。これも)
男が急病を起こしたらしいから、見に来てくれと云いに行きました。これも
(ずぼしにあたったのは、もうしあげるまでもありますまい。おんなはいちめがさをぬいだまま、)
図星に当ったのは、申し上げるまでもありますまい。女は市女笠を脱いだまま、
(わたしにてをとられながら、やぶのおくへはいってきました。ところがそこへきて)
わたしに手をとられながら、藪の奥へはいって来ました。ところがそこへ来て
(みると、おとこはすぎのねにしばられている、--おんなはそれをひとめみるなり、いつのまに)
見ると、男は杉の根に縛られている、--女はそれを一目見るなり、いつのまに
(ふところからだしていたか、きらりとさすがをひきぬきました。わたしはまだいままでに、)
懐から出していたか、きらりと小刀を引き抜きました。わたしはまだ今までに、
(あのくらいきしょうのはげしいおんなは、ひとりもみたことがありません。もしそのときでも)
あのくらい気性の烈しい女は、一人も見たことがありません。もしその時でも
(ゆだんしていたらば、ひとつきにひばらをつかれたでしょう。いや、それはみをかわした)
油断していたらば、一突きに脾腹を突かれたでしょう。いや、それは身を躱した
(ところが、むにむざんにきりたてられるうちには、どんなけがもしかねなかった)
ところが、無二無三に斬り立てられる内には、どんな怪我も仕兼ねなかった
(のです。が、わたしもたじょうまるですから、どうにかこうにかたちもぬかずに、)
のです。が、わたしも多襄丸ですから、どうにかこうにか太刀も抜かずに、
(とうとうさすがをうちおとしました。いくらきのまさったおんなでも、えものがなければ)
とうとう小刀を打ち落としました。いくら気の勝った女でも、得物がなければ
(しかたがありません。わたしはとうとうおもいどおり、おとこのいのちはとらずとも、おんなをてに)
仕方がありません。わたしはとうとう思い通り、男の命は取らずとも、女を手に
(いれることはできたのです。おとこのいのちはとらずとも、--そうです。わたしはそのうえ)
入れる事は出来たのです。男の命は取らずとも、--そうです。わたしはその上
(にも、おとこをころすつもりはなかったのです。ところがなきふしたおんなをあとに、やぶのそとへ)
にも、男を殺すつもりはなかったのです。所が泣き伏した女を後に、藪の外へ
(にげようとすると、おんなはとつぜんわたしのうでへ、きちがいのようにすがりつきました。)
逃げようとすると、女は突然わたしの腕へ、気違いのように縋りつきました。
(しかもきれぎれにさけぶのをきけば、あなたがしぬかおっとがしぬか、どちらかひとり)
しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人
(しんでくれ、ふたりのおとこにはじをみせるのは、しぬよりもつらいというのです。)
死んでくれ、二人の男に恥を見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。
(いや、そのうちどちらにしろいきのこったおとこにつれそいたい--そうもあえぎあえぎ)
いや、その内どちらにしろ生き残った男につれ添いたい--そうもあえぎあえぎ
(いうのです。わたしはそのときもうぜんと、おとこをころしたいきになりました。(いんうつなる)
云うのです。わたしはその時猛然と、男を殺したい気になりました。(陰鬱なる
(こうふん)こんなことをもうしあげると、きっとわたしはあなたがたよりざんこくなにんげんに)
興奮)こんな事を申し上げると、きっとわたしはあなた方より残酷な人間に
(みえるでしょう。しかしそれはあなたがたが、あのおんなのかおをみないからです。ことに)
見えるでしょう。しかしそれはあなた方が、あの女の顔を見ないからです。殊に
(そのいっしゅんかんの、もえるようなひとみをみないからです。わたしはおんなとめをあわせたとき、)
その一瞬間の、燃えるような瞳を見ないからです。わたしは女と眼を合せた時、
(たといかみなりにうちころされても、このおんなをつまにしたいとおもいました。つまにしたい、)
たとい神鳴に打ち殺されても、この女を妻にしたいと思いました。妻にしたい、
(ーーわたしのねんとうにあったのは、ただこういういちじだけです。これはあなたがたの)
ーーわたしの念頭にあったのは、ただこう云う一事だけです。これはあなた方の
(おもうように、いやしいしきよくではありません。もしそのときしきよくのほかに、なにものぞみが)
思うように、卑しい色欲ではありません。もしその時色欲のほかに、何も望みが
(なかったとすれば、わたしはおんなをけたおしても、きっとにげてしまったでしょう。)
なかったとすれば、わたしは女を蹴倒しても、きっと逃げてしまったでしょう。
(おとこもそうすればわたしのたちに、ちをぬることにはならなかったのです。が、)
男もそうすればわたしの太刀に、血を塗る事にはならなかったのです。が、
(うすぐらいやぶのなかに、じっとおんなのかおをみたせつな、わたしはおとこをころさないかぎり、ここは)
薄暗い藪の中に、じっと女の顔を見た刹那、わたしは男を殺さない限り、ここは
(さるまいとかくごしました。しかしおとこをころすにしても、ひきょうなころしかたはしたく)
去るまいと覚悟しました。しかし男を殺すにしても、卑怯な殺し方はしたく
(ありません。わたしはおとこのなわをといたうえ、たちうちをしろといいました。)
ありません。わたしは男の縄を解いた上、太刀打ちをしろと云いました。
((すぎのねがたにおちていたのは、そのときすてわすれたなわなのです。)おとこはけっそうを)
(杉の根がたに落ちていたのは、その時捨て忘れた縄なのです。)男は血相を
(かえたまま、ふといたちをひきぬきました。とおもうとくちもきかずに、ふんぜんと)
変えたまま、太い太刀を引き抜きました。と思うと口も利かずに、憤然と
(わたしへとびかかりました。--そのたちうちがどうなったかは、もうしあげる)
わたしへ飛びかかりました。--その太刀打ちがどうなったかは、申し上げる
(までもありますまい。わたしのたちはにじゅうさんごうめに、あいてのむねをつらぬきました。)
までもありますまい。わたしの太刀は二十三合目に、相手の胸を貫きました。
(にじゅうさんごうめに、--どうかそれをわすれずにください。わたしはいまでもこのことだけは)
二十三合目に、--どうかそれを忘れずに下さい。わたしは今でもこの事だけは
(かんしんだとおもっているのです。わたしとにじゅうごうきりむすんだものは、てんかにあのおとこ)
感心だと思っているのです。わたしと二十合斬り結んだものは、天下にあの男
(ひとりだけですから。(かいかつなるびしょう)わたしはおとこがたおれるとどうじに、ちに)
一人だけですから。(快活なる微笑)わたしは男が倒れると同時に、血に
(そまったかたなをさげたなり、おんなのほうをふりかえりました。すると、--どうです、)
染まった刀を下げたなり、女の方を振り返りました。すると、--どうです、
(あのおんなはどこにもいないではありませんか?わたしはおんながどちらへにげたか、)
あの女はどこにもいないではありませんか?わたしは女がどちらへ逃げたか、
(すぎむらのあいだをさがしてみました。が、たけのらくようのうえには、それらしいあとものこって)
杉むらの間を探して見ました。が、竹の落葉の上には、それらしい跡も残って
(いません。またみみをすませてみても、きこえるのはただおとこののどに、だんまつまのおとが)
いません。また耳を澄ませて見ても、聞えるのはただ男の喉に、断末魔の音が
(するだけです。ことによるとあのおんなは、わたしがたちうちをはじめるがはやいか、)
するだけです。事によるとあの女は、わたしが太刀打ちを始めるが早いか、
(ひとのたすけでもよぶために、やぶをくぐってにげたのかもしれない。--わたしは)
人の助けでも呼ぶために、藪をくぐって逃げたのかも知れない。--わたしは
(そうかんがえると、こんどはわたしのいのちですから、たちやゆみやをうばったなり、すぐに)
そう考えると、今度はわたしの命ですから、太刀や弓矢を奪ったなり、すぐに
(またもとのやまみちへでました。そこにはまだおんなのうまが、しずかにくさをくっています。)
またもとの山路へ出ました。そこにはまだ女の馬が、静かに草を食っています。
(そのごのことはもうしあげるだけ、むようのくちかずにすぎますまい。ただ、みやこへはいる)
その後の事は申し上げるだけ、無用の口数にすぎますまい。ただ、都へはいる
(まえに、たちだけはもうてばなしていました。--わたしのはくじょうはこれだけです。)
前に、太刀だけはもう手放していました。--わたしの白状はこれだけです。
(どうせいちどはおうちのこずえに、かけるくびとおもっていますから、どうかごっけいに)
どうせ一度は樗の梢に、懸ける首と思っていますから、どうか極刑に
(あわせてください。(こうぜんたるたいど))
遇わせて下さい。(昂然たる態度)