芥川龍之介 地獄変④
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問題文
(ななよしひではそれからごろっかげつのあいだ、まるでおやしきへもうかがわないで、びょうぶのえに)
【七】良秀はそれから五六箇月の間、まるで御邸へも伺わないで、屏風の絵に
(ばかりかかっておりました。あれほどのこぼんのうがいざえをかくというだんに)
ばかりかかって居りました。あれ程の子煩悩がいざ絵を描くと云う段に
(なりますと、むすめのかおをみるきもなくなるともうすのでございますから、ふしぎな)
なりますと、娘の顔を見る気もなくなると申すのでございますから、不思議な
(ものではございませんか。せんこくもうしあげましたでしのはなしでは、なんでもあのおとこは)
ものではございませんか。先刻申し上げました弟子の話では、何でもあの男は
(しごとにとりかかりますと、まるできつねでもついたようになるらしゅうございます。)
仕事にとりかかりますと、まるで狐でも憑いたようになるらしゅうございます。
(いやじっさいとうじのふうひょうに、よしひでががどうでなをなしたのは、ふくとくのおおかみに)
いや実際当時の風評に、良秀が画道で名を成したのは、福徳の大神に
(きせいをかけたからで、そのしょうこにはあのおとこがえをかいているところを、)
祈誓をかけたからで、その証拠にはあの男が絵を描いている所を、
(そっとものかげからのぞいてみると、かならずいんいんとしてりょうこのすがたが、いっぴきならず)
そっと物陰から覗いてみると、必ず陰々として霊狐の姿が、一匹ならず
(ぜんごさゆうに、むらがっているのがみえるなどともうすものもございました。)
前後左右に、群っているのが見えるなどと申す者もございました。
(そのくらいでございますから、いざえふでをとるとなると、そのえをかきあげるという)
その位でございますから、いざ画筆を取るとなると、その絵を描き上げると云う
(よりほかは、なにもかもわすれてしまうのでございましょう。ひるもよるもひとまに)
より外は、何も彼も忘れてしまうのでございましょう。昼も夜も一間に
(とじこもったきりで、めったにひのめもみたことはございません。ーーことにじごくへんの)
閉じこもったきりで、滅多に日の目も見た事はございません。ーー殊に地獄変の
(びょうぶをえがいたときにはこういうむちゅうになりかたが、はなはだしかったようでございます。)
屏風を描いた時にはこう云う夢中になり方が、甚だしかったようでございます。
(ともうしますのはなにもあのおとこが、ひるもしとみもおろしたへやのうちで、ゆいとうだいのひのもとに、)
と申しますのは何もあの男が、昼も蔀も下した部屋の中で、結燈台の火の下に、
(ひみつのえのぐをあわせたり、あるいはでしたちを、すいかんやらかりぎぬやら、さまざまに)
秘密の絵の具を合せたり、或は弟子たちを、水干やら狩衣やら、さまざまに
(きかざらせて、そのすがたを、ひとりずつていねいにうつしたり、ーーそういうことでは)
着飾らせて、その姿を、一人ずつ丁寧に写したり、ーーそう云う事では
(ございません。それくらいのかわったことなら、べつにあのじごくへんのびょうぶをえがかなくとも、)
ございません。それ位の変った事なら、別にあの地獄変の屏風を描かなくとも、
(しごとにかかっているときとさえもうしますと、いつでもやりかねないおとこなので)
仕事にかかっている時とさえ申しますと、何時でもやり兼ねない男なので
(ございます。いや、げんにりゅうがいじのごしゅしょうじのずをえがきましたときなどは、)
ございます。いや、現に龍蓋寺の五趣生死の図を描きました時などは、
(あたりまえのにんげんなら、わざとめをそらせていくあのおうらいのしがいのまえへ、)
当り前の人間なら、わざと眼を外らせて行くあの往来の死骸の前へ、
(ゆうゆうとこしをおろして、なかばくされかかったかおやてあしを、かみのけひとすじもたがえずに、)
悠々と腰を下して、半ば腐れかかった顔や手足を、髪の毛一すじも違えずに、
(うつしてまいったことがございました。では、そのはなはだしいむちゅうになりかたとは、いったい)
写して参った事がございました。では、その甚だしい夢中になり方とは、一体
(どういうことをもうすのか、さすがにおわかりにならないかたもいらっしゃいましょう。)
どう云う事を申すのか、流石に御わかりにならない方もいらっしゃいましょう。
(それはただいまくわしいことはもうしあげているひまもございませんが、おもなはなしをおみみに)
それは唯今詳しい事は申し上げている暇もございませんが、主な話を御耳に
(いれますと、だいたいまずかようなしだいなのでございます。)
入れますと、大体先ずかような次第なのでございます。
(よしひでのでしのひとりが(これもやはり、さきにもうしたおとこでございますが))
良秀の弟子の一人が(これもやはり、前に申した男でございますが)
(あるひえのぐをといておりますと、きゅうにししょうがまいりまして、「おれはすこしひるねを)
或日絵の具を溶いて居りますと、急に師匠が参りまして、「己は少し午睡を
(しようとおもう。がどうもこのごろはゆめみがわるい。」とかもうすのでございます。)
しようと思う。がどうもこの頃は夢見が悪い。」とか申すのでございます。
(べつにこれはめずらしいことでもなんでもございませんから、でしはてをやすめずに、ただ、)
別にこれは珍しい事でも何でもございませんから、弟子は手を休めずに、唯、
(「さようでございますか。」とひととおりのあいさつをいたしました。ところが、よしひでは、)
「さようでございますか。」と一通りの挨拶を致しました。所が、良秀は、
(いつになくさびしそうなかおをして、「ついては、おれがひるねをしているあいだじゅう、)
何時になく寂しそうな顔をして、「就いては、己が午睡をしている間中、
(まくらもとにすわっていてもらいたいのだが。」と、えんりょがましく)
枕もとに坐っていて貰いたいのだが。」と、遠慮がましく
(たのむではございませんか。でしはいつになく、ししょうがゆめなぞをきにするのは、)
頼むではございませんか。弟子は何時になく、師匠が夢なぞを気にするのは、
(ふしぎだとおもいましたが、それもべつにぞうさのないことでございますから、)
不思議だと思いましたが、それも別に造作のない事でございますから、
(「よろしゅうございます。」ともうしますと、ししょうはまだしんぱいそうに、)
「よろしゅうございます。」と申しますと、師匠はまだ心配そうに、
(「ではすぐにおくへきてくれ。もっともあとでほかのでしがきても、おれのねむっているところへは)
「では直に奥へ来てくれ。尤も後で外の弟子が来ても、己の睡っている所へは
(いれないように。」と、ためらいながらいいつけました。おくともうしますのは、)
入れないように。」と、ためらいながら云いつけました。奥と申しますのは、
(あのおとこがえをかきますへやで、そのひもよるのようにとをたてきったなかに、)
あの男が画を描きます部屋で、その日も夜のように戸を立て切った中に、
(ぼんやりとひをともしながら、まだやきふででずどりだけしかできていないびょうぶが、)
ぼんやりと灯をともしながら、まだ焼筆で図取りだけしか出来ていない屏風が、
(ぐるりとたてまわしてあったそうでございます。さてここへまいりますと、)
ぐるりと立て廻してあったそうでございます。さてここへ参りますと、
(よしひではひじをまくらにして、まるでつかれきったにんげんのように、すやすや、)
良秀は肘を枕にして、まるで疲れ切った人間のように、すやすや、
(ねぶりいってしまいましたが、もののはんときとたちませんうちに、まくらもとにおります)
睡入ってしまいましたが、ものの半時とたちません中に、枕もとに居ります
(でしのみみには、なんともかとももうしようのない、きみのわるいこえがはいりはじめました。)
弟子の耳には、何とも彼とも申しようのない、気味の悪い声が入り始めました。
(はちそれがはじめはただ、こえでございましたが、しばらくしますと、しだいにきれぎれな)
【八】それが始めは唯、声でございましたが、暫くしますと、次第に切れ切れな
(ことばになって、いわばおぼれかかったにんげんがみずのなかでうなるように、かようなことを)
語になって、云わば溺れかかった人間が水の中で呻るように、かような事を
(もうすのでございます。「なに、おれにこいというのだな。ーーどこへーーどこへ)
申すのでございます。「なに、己に来いと云うのだな。ーーどこへーーどこへ
(こいと?ならくへこい。えんねつじごくへこい。ーーだれだ。そういうきさまは。)
来いと? 奈落へ来い。炎熱地獄へ来い。ーー誰だ。そう云う貴様は。
(ーーきさまはだれだーーだれだとおもったら」でしはおもわずえのぐをとくてをやめて、)
ーー貴様は誰だーー誰だと思ったら」弟子は思わず絵の具を溶く手をやめて、
(おそるおそるししょうのかおを、のぞくようにしてすかしてみますと、しわだらけなかおがしろく)
恐る恐る師匠の顔を、覗くようにして透して見ますと、皺だらけな顔が白く
(なったうえにおおつぶなあせをにじませながら、くちびるのかわいた、はのまばらなくちをあえぐように)
なった上に大粒な汗を滲ませながら、唇の干いた、歯の疎な口をあえぐように
(おおきくあけております。そうしてそのくちのうちで、なにかいとでもつけて)
大きく開けて居ります。そうしてその口の中で、何か糸でもつけて
(ひっぱっているかとうたがうほど、めまぐるしくうごくものがあるとおもいますと、それが)
引張っているかと疑う程、目まぐるしく動くものがあると思いますと、それが
(あのおとこのしただったともうすではございませんか。きれぎれなはなしはもとより、)
あの男の舌だったと申すではございませんか。切れ切れな話は元より、
(そのしたからでてくるのでございます。「だれだとおもったらーーうん、きさまだな。)
その舌から出て来るのでございます。「誰だと思ったらーーうん、貴様だな。
(おれもきさまだろうとおもっていた。なに、むかえにきたと?だからこい。ならくへ)
己も貴様だろうと思っていた。なに、迎えに来たと? だから来い。奈落へ
(こい。ならくにはーーならくにはおれのむすめがまっている。」そのとき、でしのめには、)
来い。奈落にはーー奈落には己の娘が待っている。」その時、弟子の眼には、
(もうろうとしたいぎょうなかげが、びょうぶのおもてをかすめてむらむらとおりてくるように)
朦朧とした異形な影が、屏風の面をかすめてむらむらと下りて来るように
(みえたほど、きみのわるいこころもちがいたしたそうでございます。もちろんでしはすぐに)
見えた程、気味の悪い心もちが致したそうでございます。勿論弟子はすぐに
(よしひでにてをかけて、ちからのあらんかぎりゆりおこしましたが、ししょうはなおゆめうつつにひとりごとを)
良秀に手をかけて、力のあらん限り揺り起しましたが、師匠は猶夢現に独り言を
(いいつづけて、よういにめのさめるけしきはございません。そこででしはおもいきって)
云いつづけて、容易に眼のさめる気色はございません。そこで弟子は思い切って
(そばにあったひっせんのみずを、ざぶりとあのおとこのかおへあびせかけました。「まって)
側にあった筆洗の水を、ざぶりとあの男の顔へ浴びせかけました。「待って
(いるから、このくるまへのってこいーーこのくるまへのって、ならくへこいーー」という)
いるから、この車へ乗って来いーーこの車へ乗って、奈落へ来いーー」と云う
(ことばがそれとどうじに、のどをしめられるようなうめきごえにかわったとおもいますと、)
語がそれと同時に、喉をしめられるような呻き声に変ったと思いますと、
(やっとよしひではめをひらいて、はりでさされたよりもあわただしく、やにわにそこへ)
やっと良秀は眼を開いて、針で刺されたよりも慌しく、矢庭にそこへ
(はねおきましたが、まだゆめのなかのいるいいぎょうが、まぶたのうしろをさらないので)
刎ね起きましたが、まだ夢の中の異類異形が、瞼の後をさらないので
(ございましょう。しばらくはただおそろしそうなめつきをして、やはりおおきくくちを)
ございましょう。暫くは唯恐ろしそうな目つきをして、やはり大きく口を
(ひらきながら、くうをみつめておりましたが、やがてわれにかえったようすで、)
開きながら、空を見つめて居りましたが、やがて我に返った容子で、
(「もうよいから、あちらへいってくれ」と、こんどはいかにもそっけなく、)
「もう好いから、あちらへ行ってくれ」と、今度は如何にも素っ気なく、
(いいつけるのでございます。でしはこういうときにさからうと、いつでもおおこごとを)
云いつけるのでございます。弟子はこう云う時に逆うと、何時でも大小言を
(いわれるので、そうそうししょうのへやからでてまいりましたが、まだあかるいそとのひのひかりを)
云われるので、匆々師匠の部屋から出て参りましたが、まだ明い外の日の光を
(みたときには、まるでじぶんがあくむからさめたような、ほっとしたきがいたしたとか)
見た時には、まるで自分が悪夢から覚めた様な、ほっとした気が致したとか
(もうしておりました。しかしこれなぞはまだよいほうなので、そのごひとつきばかり)
申して居りました。しかしこれなぞはまだよい方なので、その後一月ばかり
(たってから、こんどはまたべつのでしが、わざわざおくへよばれますと、よしひではやはり)
たってから、今度は又別の弟子が、わざわざ奥へ呼ばれますと、良秀はやはり
(うすぐらいあぶらびのひかりのうちで、えふでをかんでおりましたが、いきなりでしのほうへ)
うす暗い油火の光の中で、絵筆を噛んで居りましたが、いきなり弟子の方へ
(むきなおって、「ごくろうだが、またはだかになってもらおうか。」ともうすのでございます。)
向き直って、「御苦労だが、又裸になって貰おうか。」と申すのでございます。
(これはそのときまでにも、どうかするとししょうがいいつけたことでございますから、)
これはその時までにも、どうかすると師匠が云いつけた事でございますから、
(でしはさっそくいるいをぬぎすてて、あかはだかになりますと、あのおとこはみょうにかおを)
弟子は早速衣類をぬぎすてて、赤裸になりますと、あの男は妙に顔を
(しかめながら、「わしはくさりでしばられたにんげんがみたいとおもうのだが、きのどくでも)
しかめながら、「わしは鎖で縛られた人間が見たいと思うのだが、気の毒でも
(しばらくのあいだ、わしのするとおりになっていてはくれまいか。」と、そのくせすこしも)
暫くの間、わしのする通りになっていてはくれまいか。」と、その癖少しも
(きのどくらしいようすなどはみせずに、れいぜんとこうもうしました。がんらいこのでしは)
気の毒らしい容子などは見せずに、冷然とこう申しました。元来この弟子は
(えふでなどをにぎるよりも、たちでももったほうがよさそうな、たくましいわかもので)
画筆などを握るよりも、太刀でも持った方が好さそうな、逞しい若者で
(ございましたが、これにはさすがにおどろいたとみえて、のちのちまでもそのときのはなしを)
ございましたが、これには流石に驚いたと見えて、後々までもその時の話を
(いたしますと、「これはししょうがきがちがって、わたしをころすのではないかとおもいました」)
致しますと、「これは師匠が気が違って、私を殺すのではないかと思いました」
(とくりかえしてもうしたそうでございます。が、よしひでのほうでは、あいての)
と繰返して申したそうでございます。が、良秀の方では、相手の
(ぐずぐずしているのが、じれったくなってまいったのでございましょう。どこから)
愚図々々しているのが、燥ったくなって参ったのでございましょう。どこから
(だしたか、ほそいてつのくさりをざらざらとたぐりながら、ほとんどとびつくようないきおいで、)
出したか、細い鉄の鎖をざらざらと手繰りながら、殆ど飛びつくような勢いで、
(でしのせなかへのりかかりますと、いやおうなしにそのままりょううでをねじあげて、)
弟子の背中へ乗りかかりますと、否応なしにその儘両腕を捻じあげて、
(ぐるぐるまきにいたしてしまいました。そうしてまたそのくさりのはしをじゃけんにぐいと)
ぐるぐる巻きに致してしまいました。そうして又その鎖の端を邪慳にぐいと
(ひきましたからたまりません。でしのからだははずみをくらって、いきおいよくゆかを)
引きましたからたまりません。弟子の体ははずみを食って、勢よく床を
(ならしながら、ごろりとそこへよこだおしにたおれてしまったのでございます。)
鳴らしながら、ごろりとそこへ横倒しに倒れてしまったのでございます。