芥川龍之介 地獄変⑧

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(じゅうご「わたしはびょうぶのただなかに、びろうげのくるまがいちりょうそらからおちてくるところを)

【十五】「私は屏風の唯中に、檳榔毛の車が一輛空から落ちて来る所を

(えがこうとおもっておりまする。」よしひではこういって、はじめてするどくおおとのさまのおかおを)

描こうと思って居りまする。」良秀はこう云って、始めて鋭く大殿様の御顔を

(ながめました。あのおとこはえのことというと、きちがいどうようになるとはきいて)

眺めました。あの男は画の事と云うと、気違い同様になるとは聞いて

(おりましたが、そのときのめのくばりにはたしかにさようなおそろしさがあったようで)

居りましたが、その時の眼のくばりには確かにさような恐ろしさがあったようで

(ございます。「そのくるまのうちには、ひとりのあでやかなじょうろうが、もうかのうちにくろかみを)

ございます。「その車の中には、一人のあでやかな上﨟が、猛火の中に黒髪を

(みだしながら、もだえくるしんでいるのでございまする。かおはけむりにむせびながら、)

乱しながら、悶え苦しんでいるのでございまする。顔は煙に烟びながら、

(まゆをひそめて、そらざまにやかたをあおいでおりましょう。てはしたすだれをひきちぎって、)

眉を顰めて、空ざまに車蓋を仰いで居りましょう。手は下簾を引きちぎって、

(ふりかかるひのこのあめをふせごうとしているかもしれませぬ。そうして)

降りかかる火の粉の雨を防ごうとしているかも知れませぬ。そうして

(そのまわりには、あやしげなしちょうがじゅうわとなく、にじゅうわとなく、くちばしをならして)

そのまわりには、怪しげな鷙鳥が十羽となく、二十羽となく、嘴を鳴らして

(ふんぷんととびめぐっているのでございまする。ーーああ、それが、そのぎっしゃのうちの)

紛々と飛び繞っているのでございまする。ーーああ、それが、その牛車の中の

(じょうろうが、どうしてもわたしにはえがけませぬ。」「そうしてーーどうじゃ。」おおとのさまは)

上﨟が、どうしても私には描けませぬ。」「そうしてーーどうじゃ。」大殿様は

(どういうわけか、みょうによろこばしそうなごけしきで、こうよしひでをおうながしになりました。)

どう云う訳か、妙に悦ばしそうな御気色で、こう良秀を御促しになりました。

(が、よしひではれいのあかいくちびるをねつでもでたときのようにふるわせながら、)

が、良秀は例の赤い唇を熱でも出た時のように震わせながら、

(ゆめをみているのかとおもうちょうしで、「それがわたしにはえがけませぬ。」と、もういちど)

夢を見ているのかと思う調子で、「それが私には描けませぬ。」と、もう一度

(くりかえしましたが、とつぜんかみつくようないきおいになって、「どうかびろうげのくるまを)

繰返しましたが、突然噛みつくような勢いになって、「どうか檳榔毛の車を

(いちりょう、わたしのみているまえで、ひをかけていただきとうございまする。そうしてもし)

一輛、私の見ている前で、火をかけて頂きとうございまする。そうしてもし

(できまするならばーー」おおとのさまはおかおをくらくなすったとおもうと、とつぜん)

出来まするならばーー」大殿様は御顔を暗くなすったと思うと、突然

(けたたましくおわらいになりました。そうしてそのおわらいごえにいきをつまらせながら、)

けたたましく御笑いになりました。そうしてその御笑い声に息を詰らせながら、

(おっしゃいますには、「おお、ばんじそのほうがもうすとおりにいたしてつかわそう。)

仰有いますには、「おお、万事その方が申す通りに致して遣わそう。

(できるできぬのせんぎはむえきのさたじゃ。」わたくしはそのおことばをうかがいますと、)

出来る出来ぬの詮議は無益の沙汰じゃ。」私はその御言を伺いますと、

など

(むしのしらせか、なんとなくすさまじいきがいたしました。じっさいまたおおとのさまのごようすも、)

虫の知らせか、何となく凄じい気が致しました。実際又大殿様の御容子も、

(おくちのはにはしろくあわがたまっておりますし、おまゆのあたりにはびくびくといなずまが)

御口の端には白く泡がたまって居りますし、御眉のあたりにはびくびくと電が

(はしっておりますし、まるでよしひでのものぐるいにおなじみなすったのかとおもうほど、)

走って居りますし、まるで良秀のもの狂いに御染みなすったのかと思う程、

(ただならなかったのでございます。それがちょいとことばをおきりになると、すぐまた)

唯ならなかったのでございます。それがちょいと言を御切りになると、すぐ又

(なにかがはぜたようないきおいで、とめどなくのどをならしておわらいになりながら、)

何かが爆ぜたような勢いで、止め度なく喉を鳴らして御笑いになりながら、

(「びろうげのくるまにもひをかけよう。またそのうちにはあでやかなおんなをひとり、)

「檳榔毛の車にも火をかけよう。又その中にはあでやかな女を一人、

(じょうろうのよそおいをさせてのせてつかわそう。ほのおとこくえんとにせめられて、くるまのうちのおんなが、)

上﨟の装をさせて乗せて遣わそう。炎と黒煙とに攻められて、車の中の女が、

(もだえじにをするーーそれをえがこうとおもいついたのは、さすがにてんかだいいちのえしじゃ。)

悶え死をするーーそれを描こうと思いついたのは、流石に天下第一の絵師じゃ。

(ほめてとらす。おお、ほめてとらすぞ。」)

褒めてとらす。おお、褒めてとらすぞ。」

(おおとのさまのおことばをききますと、よしひではきゅうにいろをうしなってあえぐようにただ、くちびるばかり)

大殿様の御言葉を聞きますと、良秀は急に色を失ってあえぐように唯、唇ばかり

(うごかしておりましたが、やがてからだじゅうのすじがゆるんだように、べたりとたたみへりょうてを)

動かして居りましたが、やがて体中の筋が緩んだように、べたりと畳へ両手を

(つくと、「ありがたいしあわせでございまする。」と、きこえるかきこえないかわからないほど)

つくと、「有難い仕合でございまする。」と、聞えるか聞えないかわからない程

(ひくいこえで、ていねいにおれいをもうしあげました。これはおおかたじぶんのかんがえていたもくろみの)

低い声で、丁寧に御礼を申上げました。これは大方自分の考えていた目ろみの

(おそろしさが、おおとのさまのおことばにつれてありありとめのまえへうかんできたからで)

恐ろしさが、大殿様の御言葉につれてありありと目の前へ浮んで来たからで

(ございましょうか。わたくしはいっしょうのうちにただいちど、このときだけはよしひでが、)

ございましょうか。私は一生の中に唯一度、この時だけは良秀が、

(きのどくなにんげんにおもわれました。)

気の毒な人間に思われました。

(じゅうろくそれからにさんにちしたよるのことでございます。おおとのさまはおやくそくどおり、)

【十六】それから二三日した夜の事でございます。大殿様は御約束通り、

(よしひでをおめしになって、びろうげのくるまのやけるところを、めぢかくみせておやりになり)

良秀を御召しになって、檳榔毛の車の焼ける所を、目近く見せて御やりになり

(ました。もっともこれはほりかわのおやしきであったことではございません。ぞくにゆきげのごしょと)

ました。尤もこれは堀河の御邸であった事ではございません。俗に雪解の御所と

(いう、むかしおおとのさまのいもうとぎみがいらしったらくがいのさんそうで、おやきになったので)

云う、昔大殿様の妹君がいらしった洛外の山荘で、御焼きになったので

(ございます。このゆきげのごしょともうしますのは、ひさしくどなたもおすまいには)

ございます。この雪解の御所と申しますのは、久しくどなたも御住いには

(ならなかったところで、ひろいおにわもあれほうだいあれはてておりましたが、おおかたこの)

ならなかった所で、広い御庭も荒れ放題荒れ果てて居りましたが、大方この

(ひとけのないごようすをはいけんしたもののあてずいりょうでございましょう。ここで)

人気のない御容子を拝見した者の当推量でございましょう。ここで

(おなくなりになったいもうとぎみのおみのうえにも、とかくのうわさがたちまして、なかにはまた)

御歿くなりになった妹君の御身の上にも、兎角の噂が立ちまして、中には又

(つきのないよごとよごとに、いまでもあやしいおんはかまのひのいろが、ちにもつかずごろうかを)

月のない夜毎夜毎に、今でも怪しい御袴の緋の色が、地にもつかず御廊下を

(あゆむなどというとりざたをいたすものもございました。ーーそれもむりでは)

歩むなどと云う取沙汰を致すものもございました。ーーそれも無理では

(ございません。ひるでさえさびしいこのごしょは、いちどひがくれたとなりますと、)

ございません。昼でさえ寂しいこの御所は、一度日が暮れたとなりますと、

(やりみずのおとがひときわいんにひびいて、ほしあかりにとぶごいさぎも、けぎょうのものかとおもうほど、)

遣り水の音が一際陰に響いて、星明りに飛ぶ五位鷺も、怪形の物かと思う程、

(きみがわるいのでございますから。)

気味が悪いのでございますから。

(ちょうどそのよるはやはりつきのない、まっくらなばんでございましたが、おおとのあぶらのほかげで)

丁度その夜はやはり月のない、まっ暗な晩でございましたが、大殿油の火影で

(ながめますと、えんにちかくざをおしめになったおおとのさまは、あさぎののうしにこいむらさきの)

眺めますと、縁に近く座を御占めになった大殿様は、浅黄の直衣に濃い紫の

(うきもんのさしぬきをおめしになって、しろじのにしきのふちをとったわらふだに、たかだかとあぐらを)

浮紋の指貫を御召しになって、白地の錦の縁をとった円座に、高々とあぐらを

(くんでいらっしゃいました。そのぜんごさゆうにおそばのものどもがごろくにん、うやうやしく)

組んでいらっしゃいました。その前後左右に御側の者どもが五六人、恭しく

(いならんでおりましたのは、べつにとりたててもうしあげるまでもございますまい。)

居並んでおりましたのは、別に取り立てて申し上げるまでもございますまい。

(が、うちにひとり、めだってことありげにみえたのは、さきとしみちのくのたたかいにうえて)

が、中に一人、眼だって事ありげに見えたのは、先年陸奥の戦いに餓えて

(ひとのにくをくっていらい、しかのいきづのさえさくようになったというごうりきのさむらいが、)

人の肉を食って以来、鹿の生角さえ裂くようになったと云う強力の侍が、

(したにはらまきをきこんだようすで、たちをかもめじりにはきそらせながら、ごえんのしたにいかめしく)

下に腹巻を着こんだ容子で、太刀を鴎尻に佩き反らせながら、御縁の下に厳しく

(つくばっていたことでございます。ーーそれがみな、よかぜになびくひのひかりで、)

つくばっていた事でございます。ーーそれが皆、夜風に靡く灯の光で、

(あるいはあかるくあるいはくらく、ほとんどゆめうつつをわかたないけしきで、なぜかものすさまじく)

或は明るく或は暗く、殆ど夢現を分たない気色で、何故かもの凄く

(みえわたっておりました。そのうえにまた、おにわにひきすえたびろうげのくるまが、)

見え渡って居りました。その上に又、御庭に引き据えた檳榔毛の車が、

(たかいやかたにのっしりとやみをおさえて、うしはつけずくろいながえをはすにしじへかけながら、)

高い車蓋にのっしりと暗を抑えて、牛はつけず黒い轅を斜に榻へかけながら、

(かなもののきんをほしのように、ちらちらひからせているのをながめますと、はるとはいう)

金物の黄金を星のように、ちらちら光らせているのを眺めますと、春とは云う

(もののなんとなくはだざむいきがいたします。もっともそのくるまのうちは、ふせんりょうのふちをとった)

ものの何となく肌寒い気が致します。尤もその車の内は、浮線綾の縁をとった

(あおいすだれがおもくふうじこめておりますから、はこにはなにがはいっているかわかりません。)

青い簾が重く封じこめて居りますから、箱には何がはいっているか判りません。

(そうしてそのまわりにはしちょうたちが、てんでにもえさかるまつをとって、)

そうしてその周りには仕丁たちが、手ん手に燃えさかる松明(まつ)を執って、

(けむりがごえんのほうへなびくのをきにしながら、しさいらしくひかえております。)

煙が御縁の方へ靡くのを気にしながら、仔細らしく控えて居ります。

(とうのよしひではややはなれて、ちょうどごえんのまっこうに、ひざまずいておりましたが、これはいつもの)

当の良秀は稍離れて、丁度御縁の真向に、跪いて居りましたが、これは何時もの

(こうぞめらしいかりぎぬになえたもみえぼしをいただいて、ほしぞらのおもみにおされたかと)

香染めらしい狩衣に萎えた揉烏帽子を頂いて、星空の重みに圧されたかと

(おもうくらい、いつもよりはなおちいさく、みすぼらしげにみえました。そのうしろにまたひとり、)

思う位、何時もよりは猶小さく、見すぼらしげに見えました。その後に又一人、

(おなじようなえぼしかりぎぬのうずくまったのは、たぶんめしつれたでしのひとりででも)

同じような烏帽子狩衣の蹲ったのは、多分召し連れた弟子の一人ででも

(ございましょうか。それがちょうどふたりとも、とおいうすくらがりのうちにうずくまっております)

ございましょうか。それが丁度二人とも、遠いうす暗がりの中に蹲って居ります

(ので、わたくしのいたごえんのしたからは、かりぎぬのいろさえさだかにはわかりません。)

ので、私のいた御縁の下からは、狩衣の色さえ定かにはわかりません。

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