芥川龍之介 地獄変⑨

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(じゅうしちじこくはかれこれまよなかにもちかかったでございましょう。りんせんをつつんだやみが)

【十七】時刻は彼是真夜中にも近かったでございましょう。林泉をつつんだ暗が

(ひっそりとこえをのんで、いちどうのするいきをうかがっているとおもううちには、ただかすかな)

ひっそりと声を呑んで、一同のする息を窺っていると思う中には、唯かすかな

(よかぜのわたるおとがして、まつのけむりがそのたびにすすくさいにおいをおくってまいります。)

夜風の渡る音がして、松明(まつ)の煙がその度に煤臭い匂を送って参ります。

(おおとのさまはしばらくだまって、このふしぎなけしきをじっとながめていらっしゃいましたが、)

大殿様は暫く黙って、この不思議な景色をじっと眺めていらっしゃいましたが、

(やがてひざをおすすめになりますと、「よしひで、」と、するどくおよびかけになりました。)

やがて膝を御進めになりますと、「良秀、」と、鋭く御呼びかけになりました。

(よしひではなにやらごへんじをいたしたようでございますが、わたくしのみみにはただ、うなるような)

良秀は何やら御返事を致したようでございますが、私の耳には唯、呻るような

(こえしかきこえてまいりません。「よしひで。こよいはそのほうののぞみどおり、くるまにひをかけて)

声しか聞えて参りません。「良秀。今宵はその方の望み通り、車に火をかけて

(みせてつかわそう。」おおとのさまはこうおっしゃって、おそばのものたちのほうをながしめに)

見せて遣わそう。」大殿様はこう仰有って、御側の者たちの方を流し眄に

(ごらんになりました。そのときなにかおおとのさまとおそばのだれかれとのあいだには、いみありげな)

御覧になりました。その時何か大殿様と御側の誰彼との間には、意味ありげな

(びしょうがかわされたようにもみうけましたが、これはあるいはわたくしのきのせいかも)

微笑が交されたようにも見うけましたが、これは或は私の気のせいかも

(わかりません。するとよしひではおそるおそるあたまをあげてごえんのうえをあおいだらしゅう)

分りません。すると良秀は畏る畏る頭を挙げて御縁の上を仰いだらしゅう

(ございますが、やはりなにももうしあげずにひかえております。「ようみい。それは)

ございますが、やはり何も申し上げずに控えて居ります。「よう見い。それは

(よがひごろのるくるまじゃ。そのほうもおぼえがあろう。ーーよはそのくるまにこれからひを)

予が日頃乗る車じゃ。その方も覚えがあろう。ーー予はその車にこれから火を

(かけて、まのあたりにえんねつじごくをげんぜさせるつもりじゃが。」おおとのさまはまたことばを)

かけて、目のあたりに炎熱地獄を現ぜさせる心算じゃが。」大殿様は又言を

(おとめになって、おそばのものたちにめくばせをなさいました。それからきゅうににがにがしい)

御止めになって、御側の者たちに眴せをなさいました。それから急に苦々しい

(ごちょうしで、「そのうちにはつみびとのにょうぼうがひとり、いましめたまま、のせてある。さればくるまに)

御調子で、「その内には罪人の女房が一人、縛めた儘、乗せてある。されば車に

(ひをかけたら、またとないよいてほんじゃ。ゆきのようなはだがもえただれるのを)

火をかけたら、又とないよい手本じゃ。雪のような肌が燃え爛れるのを

(みのがすな。くろかみがひのこになって、まいあがるさまもようみておけ。」)

見のがすな。黒髪が火の粉になって、舞い上るさまもよう見て置け。」

(おおとのさまはみたびくちをおつぐみになりましたが、なにをおおもいになったのか、こんどはただ)

大殿様は三度口を御噤みになりましたが、何を御思いになったのか、今度は唯

(かたをゆすって、こえもたてずにおわらいなさりながら、「まつだいまでもないみものじゃ。)

肩を揺って、声も立てずに御笑いなさりながら、「末代までもない観物じゃ。

など

(よもここでけんぶつしよう。それそれ、みすをあげて、よしひでにうちのおんなをみせて)

予もここで見物しよう。それそれ、簾(みす)を揚げて、良秀に中の女を見せて

(つかわさぬか。」おおせをきくとしちょうのひとりは、かたてにまつのひをたかくかざしながら、)

遣わさぬか。」仰を聞くと仕丁の一人は、片手に松明の火を高くかざしながら、

(つかつかとくるまにちかづくと、やにわにかたてをさしのばして、すだれをさらりとあげて)

つかつかと車に近づくと、矢庭に片手をさし伸ばして、簾をさらりと揚げて

(みせました。けたたましくおとをたててもえるまつのひかりは、ひとしきりあかく)

見せました。けたたましく音を立てて燃える松明の光は、一しきり赤く

(ゆらぎながら、たちまちせまいはこのうちをあざやかにてらしだしましたが、とこのうえにむごたらしく、)

ゆらぎながら、忽ち狭い箱の中を鮮かに照出しましたが、とこの上に惨らしく、

(くさりにかけられたにょうぼうはーーああ、だれかみまちがえをいたしましょう。きらびやかな)

鎖にかけられた女房はーーああ、誰か見間違えを致しましょう。きらびやかな

(ぬいのあるさくらのからぎぬにすべらかしくろかみがあでやかにたれて、うちかたむいたおうごんの)

繍のある桜の唐衣にすべらかし黒髪が艶やかに垂れて、うちかたむいた黄金の

(さいしもうつくしくかがやいてみえましたが、みなりこそちがえ、こづくりなからだつきは、)

釵子も美しく輝いて見えましたが、身なりこそ違え、小造りな体つきは、

(いろのしろいうなじのあたりは、そうしてあのさびしいくらいつつましやかなよこがおは、)

色の白い頸のあたりは、そうしてあの寂しい位つつましやかな横顔は、

(よしひでのむすめにそういございません。わたくしはあやうくさけびごえをたてようといたしました。)

良秀の娘に相違ございません。私は危く叫び声を立てようと致しました。

(そのときでございます。わたくしとむかいあっていたさむらいはあわただしくみをおこして、つかがしらをかたてに)

その時でございます。私と向いあっていた侍は慌しく身を起して、柄頭を片手に

(おさえながら、きっとよしひでのほうをにらみました。それにおどろいてながめますと、あのおとこは)

抑えながら、屹と良秀の方を睨みました。それに驚いて眺めますと、あの男は

(このけしきに、なかばしょうきをうしなったのでございましょう。いままでしもにうずくまっていたのが)

この景色に、半ば正気を失ったのでございましょう。今まで下に蹲っていたのが

(きゅうにとびたったとおもいますと、りょうてをまえへのばしたまま、くるまのほうへおもわずしらず)

急に飛び立ったと思いますと、両手を前へ伸した儘、車の方へ思わず知らず

(はしりかかろうといたしました。ただあいにくさきにももうしましたとおり、とおいかげのうちに)

走りかかろうと致しました。唯生憎前にも申しました通り、遠い影の中に

(おりますので、かおかたちははっきりとわかりません。しかしそうおもったのはほんの)

居りますので、顔貌ははっきりと分りません。しかしそう思ったのはほんの

(いっしゅんかんで、いろをうしなったよしひでのかおは、いや、まるでなにかめにみえないちからが、)

一瞬間で、色を失った良秀の顔は、いや、まるで何か目に見えない力が、

(ちゅうへつりあげたようなよしひでのすがたは、たちまちうすくらがりをきりぬいて)

宙へ吊り上げたような良秀の姿は、忽ちうす暗がりを切り抜いて

(ありありとがんぜんへうかびあがりました。むすめをのせたびろうげのくるまが、このとき、)

ありありと眼前へ浮び上りました。娘を乗せた檳榔毛の車が、この時、

(「ひをかけい」というおおとのさまのおことばとともに、しちょうたちがなげるまつのひをあびて)

「火をかけい」と云う大殿様の御言と共に、仕丁たちが投げる松明の火を浴びて

(えんえんともえあがったのでございます。)

炎々と燃え上ったのでございます。

(じゅうはちひはみるみるうちに、やかたをつつみました。ひさしについたむらさきのふさが、)

【十八】火は見る見る中に、車蓋をつつみました。庇についた紫の流蘇が、

(あおられたようにさっとなびくと、そのしたからもうもうとやめにもしろいけむりがうずをまいて、)

煽られたようにさっと靡くと、その下から濛々と夜目にも白い煙が渦を巻いて、

(あるいはすだれ、あるいはそで、あるいはむねのかなものが、いっときにくだけてとんだかとおもうほど、ひのこが)

或は簾、或は袖、或は棟の金物が、一時に砕けて飛んだかと思う程、火の粉が

(あめのようにまいあがるーーそのすさまじさといったらございません。いや、それよりも)

雨のように舞い上るーーその凄じさと云ったらございません。いや、それよりも

(めらめらとしたをはいてそでごうしにからみながら、なかぞらまでもたちのぼるれつれつとした)

めらめらと舌を吐いて袖格子に搦みながら、半空までも立ち昇る烈々とした

(ほのおのいろはまるでにちりんがちにおちて、てんかがほとばしったようだとでももうしましょうか。)

炎の色はまるで日輪が地に落ちて、天火が迸ったようだとでも申しましょうか。

(さきにあやうくさけぼうとしたわたくしも、いまはたましいをけして、ただぼうぜんとくちをひらきながら、)

前に危く叫ぼうとした私も、今は魂を消して、唯茫然と口を開きながら、

(このおそろしいこうけいをみまもるよりほかはございませんでした。しかしおやのよしひではーー)

この恐ろしい光景を見守るより外はございませんでした。しかし親の良秀はーー

(よしひでのそのときのかおつきは、いまでもわたくしはわすれません。おもわずしらずくるまのほうへ)

良秀のその時の顔つきは、今でも私は忘れません。思わず知らず車の方へ

(かけよろうとしたあのおとこは、ひがもえあがるとどうじに、あしをとめて、やはりてを)

駆け寄ろうとしたあの男は、火が燃え上ると同時に、足を止めて、やはり手を

(さしのばしたまま、くいいるばかりのめつきをして、くるまをつつむえんえんを)

さし伸した儘、食い入るばかりの眼つきをして、車をつつむ焔煙を

(すいつけられたようにながめておりましたが、まんしんにあびたひのひかりで、しわだらけな)

吸いつけられたように眺めて居りましたが、満身に浴びた火の光で、皺だらけな

(みにくいかおは、ひげのさきまでもよくみえます。が、そのおおきくみひらいためのうちといい、)

醜い顔は、髭の先までもよく見えます。が、その大きく見開いた眼の中と云い、

(ひきゆがめたくちびるのあたりといい、あるいはまたたえずひきつっているほおのにくのふるえといい、)

引き歪めた唇のあたりと云い、或は又絶えず引攣っている頬の肉の震えと云い、

(よしひでのこころにこもごもおうらいするおそれとかなしみとおどろきとは、れきれきとかおにえがかれました。)

良秀の心に交々往来する恐れと悲しみと驚きとは、歴々と顔に描かれました。

(くびをはねられるまえのぬすびとでも、ないしはじゅうおうのちょうへひきだされた、じゅうぎゃくごあくの)

首を刎ねられる前の盗人でも、及至は十王の庁へ引き出された、十逆五悪の

(つみびとでも、ああまでくるしそうなかおをいたしますまい。これにはさすがにあのごうりきの)

罪人でも、ああまで苦しそうな顔を致しますまい。これには流石にあの強力の

(さむらいでさえ、おもわずいろをかえて、おそるおそるおおとのさまのおかおをあおぎました。)

侍でさえ、思わず色を変えて、畏る畏る大殿様の御顔を仰ぎました。

(が、おおとのさまはかたくくちびるをおかみになりながら、ときどききみわるくおわらいになって、)

が、大殿様は緊く唇を御噛みになりながら、時々気味悪く御笑いになって、

(めもはなさずじっとくるまのほうをおみつめになっていらっしゃいます。そうして)

眼も放さずじっと車の方を御見つめになっていらっしゃいます。そうして

(そのくるまのうちにはーーああ、わたくしはそのとき、そのくるまにどんなむすめのすがたをながめたか、)

その車の中にはーーああ、私はその時、その車にどんな娘の姿を眺めたか、

(それをくわしくもうしあげるゆうきは、とうていあろうともおもわれません。あのけむりにむせんで)

それを詳しく申し上げる勇気は、到底あろうとも思われません。あの煙に咽んで

(あおむけたかおのしろさ、ほのおをはらってふりみだれたかみのながさ、それからまたみるまにひと)

仰向けた顔の白さ、焔を掃ってふり乱れた髪の長さ、それから又見る間に火と

(かわっていく、さくらのからぎぬのうつくしさ、ーーなんというむごたらしいけしきで)

変って行く、桜の唐衣の美しさ、ーー何と云う惨たらしい景色で

(ございましたろう。ことによかぜがひとおろしして、けむりがむこうへなびいたとき、あかいうえに)

ございましたろう。殊に夜風が一下しして、煙が向うへ靡いた時、赤い上に

(きんぷんをまいたような、ほのおのうちからうきあがって、かみをくちにかみながら、いましめのくさりも)

金粉を撒いたような、焔の中から浮き上って、髪を口に噛みながら、縛の鎖も

(きれるばかりみもだえをしたありさまは、じごくのごうくをまのあたりへうつしだしたかと)

切れるばかり身悶えをした有様は、地獄の業苦を目のあたりへ写し出したかと

(うたがわれて、わたくしはじめごうりきのさむらいまでおのずとみのけがよだちました。)

疑われて、私始め強力の侍までおのずと身の毛がよだちました。

(するとそのよかぜがまたひとわたり、おにわのきぎのこずえにさっとかようーーとだれでも、)

するとその夜風が又一渡り、御庭の木々の梢にさっと通うーーと誰でも、

(おもいましたろう。そういうおとがくらいそらを、どこともしらずはしったとおもうと、)

思いましたろう。そう云う音が暗い空を、どことも知らず走ったと思うと、

(たちまちなにかくろいものが、ちにもつかずちゅうにもとばず、まりのようにおどりながら、)

忽ち何か黒いものが、地にもつかず宙にも飛ばず、鞠のように躍りながら、

(ごしょのやねからひのもえさかるくるまのうちへ、いちもんじにとびこみました。そうして)

御所の屋根から火の燃えさかる車の中へ、一文字にとびこみました。そうして

(しゅぬりのようなそでごうしが、ばらばらとやけおちるうちに、のけぞったむすめのかたをだいて、)

朱塗の様な袖格子が、ばらばらと焼け落ちる中に、のけ反った娘の肩を抱いて、

(きぬをさくようなするどいこえを、なんともいえずくるしそうに、ながくけむりのそとへ)

帛を裂くような鋭い声を、何とも云えず苦しそうに、長く煙の外へ

(とばせました。つづいてまた、ふたこえみこえーーわたくしたちはわれしらず、あっとどうおんに)

飛ばせました。続いて又、二声三声ーー私たちは我知らず、あっと同音に

(さけびました。かべしろのようなほのおをうしろにして、むすめのかたにすがっているのは、ほりかわの)

叫びました。壁代のような焔を後にして、娘の肩に縋っているのは、堀河の

(おやしきにつないであった、あのよしひでとあだなのある、さるだったのでございますから。)

御邸に繋いであった、あの良秀と諢名のある、猿だったのでございますから。

(そのさるがどこをどうしてこのごしょまで、しのんできたか、それはもちろんだれにも)

その猿が何処をどうしてこの御所まで、忍んで来たか、それは勿論誰にも

(わかりません。が、ひごろかわいがってくれたむすめなればこそ、さるもいっしょにひのうちへ)

わかりません。が、日頃可愛がってくれた娘なればこそ、猿も一緒に火の中へ

(はいったのでございましょう。)

はいったのでございましょう。

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