有島武郎 或る女⑤

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(よんれっしゃがかわさきえきをはっすると、ようこはまたてすりによりかかりながら)

【四】 列車が川崎駅を発すると、葉子はまた手欄によりかかりながら

(きべのことをいろいろとおもいめぐらした。ややいろづいたたんぼのさきにまつなみきが)

木部の事をいろいろと思いめぐらした。やや色づいた田圃の先に松並み木が

(みえて、そのあいだからひくくうみのひかる、へいぼんなごじゅうさんつぎふうなけしきが、でんちゅうでくとうを)

見えて、その間から低く海の光る、平凡な五十三次風な景色が、電柱で句読を

(うちながら、うつろのようなようこのめのまえでとじたりひらいたりした。)

打ちながら、空洞(うつろ)のような葉子の目の前で閉じたり開いたりした。

(あかとんぼもとびかわすじせつで、そのむれが、ひうちいしからうちだされるひばなの)

赤とんぼも飛びかわす時節で、その群れが、燧石から打ち出される火花の

(ように、あかいいんしょうをめのそこにのこしてみだれあった。いつみてもしんかいちじみて)

ように、赤い印象を目の底に残して乱れあった。いつ見ても新開地じみて

(みえるかながわをすぎて、きしゃがよこはまのていしゃばにちかづいたころには、はちじを)

見える神奈川を過ぎて、汽車が横浜の停車場に近づいたころには、八時を

(すぎたたいようのひかりが、もみじざかのさくらなみきをきいろくみせるほどにあつくてらしていた。)

過ぎた太陽の光が、紅葉坂の桜並み木を黄色く見せるほどに暑く照らしていた。

(ばいえんでまっくろにすすけたれんがかべのかげにきしゃがとまると、なかからいちばんさきにでて)

煤煙でまっ黒にすすけた煉瓦壁の陰に汽車が停まると、中からいちばん先に出て

(きたのは、みぎてにかのおりーヴいろのつつみものをもったことうだった。ようこは)

来たのは、右手にかのオリーヴ色の包み物を持った古藤だった。葉子は

(ぱらそるをつえによわよわしくでっきをおりて、ことうにたすけられながらかいさつぐちを)

パラソルを杖に弱々しくデッキを降りて、古藤に助けられながら改札口を

(でたが、ゆるゆるあるいているあいだにじょうきゃくはさきをこしてしまって、ふたりはいちばん)

出たが、ゆるゆる歩いている間に乗客は先を越してしまって、二人はいちばん

(あとになっていた。きゃくをとりおくれたじゅうしごにんのていしゃばづきのしゃふが、)

あとになっていた。客を取りおくれた十四五人の停車場づきの車夫が、

(まちあいべやのまえにかたまりながら、やつれてみえるようこにめをつけてなにかとうわさ)

待合部屋の前にかたまりながら、やつれて見える葉子に目をつけて何かとうわさ

(しあうのがふたりのみみにもはいった。「むすめ」「らしゃめん」というような)

し合うのが二人の耳にもはいった。「むすめ」「らしゃめん」というような

(ことばさえそのはしたないことばのなかにはまじっていた。かいこうじょうのがさつないやしい)

言葉さえそのはしたない言葉の中には交じっていた。開港場のがさつな卑しい

(ちょうしは、すぐようこのしんけいにびりびりとかんじてきた。なにしろようこははやく)

調子は、すぐ葉子の神経にびりびりと感じて来た。何しろ葉子は早く

(おちつくところをみつけだしたかった。ことうはていしゃばのぜんぽうのかわぞいにある)

落ち付く所を見つけ出したかった。古藤は停車場の前方の川添いにある

(きゅうけいじょまではしっていってみたが、かえってくるとぶりぶりして、えきふあがりらしい)

休憩所まで走って行って見たが、帰って来るとぶりぶりして、駅夫あがりらしい

(さてんのしゅじんはことうのしょせいっぽすがたをいかにもばかにしたようなことわりかたをした)

茶店の主人は古藤の書生っぽ姿をいかにもばかにしたような断りかたをした

など

(といった。ふたりはしかたなくうるさくつきまつわるしゃふをおいはらいながら、)

といった。二人はしかたなくうるさく付きまつわる車夫を追い払いながら、

(しおのかおりのただよったにごったちいさなうんがをわたって、あるせまいきたないまちのなかほどにある)

潮の香の漂った濁った小さな運河を渡って、ある狭いきたない町の中ほどにある

(いっけんのちいさなりょじんやどにはいっていった。よこはまというところにはにもつかぬような)

一軒の小さな旅人宿にはいって行った。横浜という所には似もつかぬような

(こふうなそとがまえで、みのがみのくすぶりかえったおきあんどんにはふといふでつきでさがみやと)

古風な外構えで、美濃紙のくすぶり返った置き行燈には太い筆つきで相模屋と

(かいてあった。ようこはなんとなくそのあんどんにきょうみをひかれてしまっていた。)

書いてあった。葉子はなんとなくその行燈に興味をひかれてしまっていた。

(いたずらずきなそのこころは、かえいごろのうらがにでもあればありそうなこのはたごやに)

いたずら好きなその心は、嘉永ごろの浦賀にでもあればありそうなこの旅籠屋に

(あしをやすめるのをおそろしくおもしろくおもった。みせにしゃがんで、ばんとうとなにかはなして)

足を休めるのを恐ろしくおもしろく思った。店にしゃがんで、番頭と何か話して

(いるあばずれたようなじょちゅうまでがめにとまった。そしてようこがていよくものを)

いるあばずれたような女中までが目にとまった。そして葉子が体よく物を

(いおうとしていると、ことうがいきなりとりかまわないちょうしで、「どこかしずかな)

言おうとしていると、古藤がいきなり取りかまわない調子で、「どこか静かな

(へやにあんないしてください」とぶあいそうにさきをこしてしまった。「へいへい、どうぞ)

部屋に案内してください」と無愛想に先を越してしまった。「へいへい、どうぞ

(こちらへ」じょちゅうはふたりをまじまじとみやりながら、きゃくのまえもかまわず、ばんとうと)

こちらへ」女中は二人をまじまじと見やりながら、客の前もかまわず、番頭と

(めをみあわせて、さげすんだらしいわらいをもらしてあんないにたった。ぎしぎしと)

目を見合わせて、さげすんだらしい笑いをもらして案内に立った。ぎしぎしと

(いたぎしみのするまっくろなせまいはしごだんをあがって、にしにつきあたったろくじょうほどのせまい)

板ぎしみのするまっ黒な狭い階子段を上がって、西に突き当った六畳ほどの狭い

(へやにあんないして、つったったままであらっぽくふたりをふしぎそうにじょちゅうはみくらべる)

部屋に案内して、突っ立ったままで荒っぽく二人を不思議そうに女中は見比べる

(のだった。あぶらじみたえりもとをおもいださせるような、にしにでまどのあるうすぎたない)

のだった。油じみた襟元を思い出させるような、西に出窓のある薄ぎたない

(へやのなかをじょちゅうをひっくるめてにらみまわしながらことうは、「そとより)

部屋の中を女中をひっくるめてにらみ回しながら古藤は、「外部(そと)より

(ひどい・・・どこかよそにしましょうか」とようこをみかえった。ようこはそれには)

ひどい・・・どこか他所にしましょうか」と葉子を見返った。葉子はそれには

(みみもかさずに、しりょぶかいきじょのようなものごしでじょちゅうのほうにむいていった。)

耳もかさずに、思慮深い貴女のような物腰で女中の方に向いていった。

(「となりもあいていますか・・・そう。よるまではどこもあいている)

「隣室(となり)も明いていますか・・・そう。夜まではどこも明いている

(・・・そう。おまえさんがここのせわをしておいで?・・・ならほかのへやも)

・・・そう。お前さんがここの世話をしておいで?・・・なら余の部屋も

(ついでにみせておもらいしましょうかしらん」じょちゅうはもうようこにはけいべつのいろは)

ついでに見せておもらいしましょうかしらん」女中はもう葉子には軽蔑の色は

(みせなかった。そしてこころえがおにつぎのへやとのあいのふすまをあけるあいだにようこは)

見せなかった。そして心得顔に次の部屋との間(あい)の襖を開ける間に葉子は

(てばやくおおきなぎんかをかみにつつんで、「すこしかげんがわるいし、またいろいろおせわに)

手早く大きな銀貨を紙に包んで、「少しかげんが悪いし、またいろいろお世話に

(なるだろうから」といいながら、それをじょちゅうにわたした。そしてずっとならんだ)

なるだろうから」といいながら、それを女中に渡した。そしてずっと並んだ

(いつつのへやをひとつひとつみてまわって、かけじく、かびん、うちわさし、こびょうぶ、つくえと)

五つの部屋を一つ一つ見て回って、掛け軸、花びん、団扇さし、小屏風、机と

(いうようなものを、じぶんのこのみにまかせてあてがわれたへやのとすっかりとり)

いうようなものを、自分の好みに任せてあてがわれた部屋のとすっかり取り

(かえて、すみからすみまできれいにそうじをさせた。そしてことうをせいざにすえて)

かえて、すみからすみまできれいに掃除をさせた。そして古藤を正座に据えて

(こざっぱりしたざぶとんにすわると、にっこりほほえみながら、「これならはんにち)

小ざっぱりした座ぶとんにすわると、にっこりほほえみながら、「これなら半日

(ぐらいがまんできましょう」といった。「ぼくはどんなところでもへいきなんですがね」)

ぐらい我慢できましょう」といった。「僕はどんな所でも平気なんですがね」

(ことうはこうこたえて、ようこのびしょうをおいながらあんしんしたらしく、「きぶんはもう)

古藤はこう答えて、葉子の微笑を追いながら安心したらしく、「気分はもう

(なおりましたね」とつけくわえた。「ええ」とようこはなにげなくびしょうをつづけようと)

なおりましたね」と付け加えた。「ええ」と葉子は何げなく微笑を続けようと

(したが、そのしゅんかんにつとおもいかえしてまゆをひそめた。ようこにはけびょうをつづけるひつようが)

したが、その瞬間につと思い返して眉をひそめた。葉子には仮病を続ける必要が

(あったのをついわすれようとしたのだった。それで、「ですけれどもまだこんな)

あったのをつい忘れようとしたのだった。それで、「ですけれどもまだこんな

(なんですの。こらどうきが」といいながら、じみなふうつうのひとえもののなかにかくれた)

なんですの。こら動悸が」といいながら、地味な風通の単衣物の中にかくれた

(はなやかなじゅばんのそでをひらめかして、みぎてをちからなげにまえにだした。そしてそれと)

はなやかな襦袢の袖をひらめかして、右手を力なげに前に出した。そしてそれと

(どうじにこきゅうをぐっとつめて、しんぞうとおぼしいあたりにはげしくちからをこめた。ことうは)

同時に呼吸をぐっとつめて、心臓と覚しいあたりにはげしく力をこめた。古藤は

(すきとおるようにしろいてくびをしばらくなでまわしていたが、みゃくどころにさぐりあてると)

すき通るように白い手くびをしばらくなで回していたが、脈所に探りあてると

(きゅうにおどろいてめをみはった。「どうしたんです、え、ひどくふきそくじゃ)

急に驚いて目を見張った。「どうしたんです、え、ひどく不規則じゃ

(ありませんか・・・いたむのはあたまばかりですか」「いいえ、おなかもいたみはじめ)

ありませんか・・・痛むのは頭ばかりですか」「いいえ、お腹も痛みはじめ

(たんですの」「どんなふうに」「ぎゅっときりででももむように・・・よくこれが)

たんですの」「どんなふうに」「ぎゅっと錐ででももむように・・・よくこれが

(あるんでこまってしまうんですのよ」ことうはしずかにようこのてをはなして、おおきなめで)

あるんで困ってしまうんですのよ」古藤は静かに葉子の手を離して、大きな目で

(ふかぶかとようこをみつめた。「いしゃをよばなくってもがまんができますか」ようこは)

深々と葉子をみつめた。「医者を呼ばなくっても我慢ができますか」葉子は

(くるしげにほほえんでみせた。「あなただったらきっとできないでしょうよ。)

苦しげにほほえんで見せた。「あなただったらきっとできないでしょうよ。

(・・・なれっこですからこらえてみますわ。そのかわりあなたながたさん・・・)

・・・慣れっこですからこらえて見ますわ。その代わりあなた永田さん・・・

(ながたさん、ね、ゆうせんがいしゃのしてんちょうの・・・あすこにいってふねのきっぷのことを)

永田さん、ね、郵船会社の支店長の・・・あすこに行って船の切符の事を

(そうだんしてきていただけないでしょうか。ごめいわくですわね。それでもそんなことまで)

相談して来ていただけないでしょうか。御迷惑ですわね。それでもそんな事まで

(おねがいしちゃあ・・・ようござんす、わたし、くるまでそろそろいきますから」)

お願いしちゃあ・・・ようござんす、わたし、車でそろそろ行きますから」

(ことうは、おんなというものはこれほどのけんこうのへんちょうをよくもこうまでがまんをする)

古藤は、女というものはこれほどの健康の変調をよくもこうまで我慢をする

(ものだというようなかおをして、もちろんじぶんがいってみるといいはった。)

ものだというような顔をして、もちろん自分が行ってみるといい張った。

(じつはそのひ、ようこはみのまわりのこどうぐやけしょうひんをととのえかたがた、べいこくいきの)

実はその日、葉子は身のまわりの小道具や化粧品を調えかたがた、米国行きの

(ふねのきっぷをかうためにことうをつれてここにきたのだった。ようこはそのころすでに)

船の切符を買うために古藤を連れてここに来たのだった。葉子はそのころすでに

(べいこくにいるあるわかいがくしといいなずけのあいだがらになっていた。しんばしでしゃふがわかおくさまと)

米国にいるある若い学士と許嫁の間柄になっていた。新橋で車夫が若奥様と

(よんだのも、このことがでいりのもののあいだにこうぜんとしれわたっていたからのこと)

呼んだのも、この事が出入りのものの間に公然と知れわたっていたからの事

(だった。それはようこがしせいしをもうけてからしばらくごのことだった。あるふゆのよる、)

だった。それは葉子が私生子を設けてからしばらく後の事だった。ある冬の夜、

(ようこのははのおやさがなにかのようでそのおっとのしょさいにいこうとはしごだんを)

葉子の母の親佐(おやさ)が何かの用でその良人の書斎に行こうと階子段を

(のぼりかけると、うえからこまづかいがまっしぐらにかけおりてきて、あやうくおやさに)

のぼりかけると、上から小間使いがまっしぐらに駆けおりて来て、危うく親佐に

(ぶっつかろうとしてそのばをすりぬけながら、なにかいみのわからないことを)

ぶっ突かろうとしてそのばをすりぬけながら、何か意味のわからないことを

(はやくちにいってはしりさった。そのしまだまげやおびのみだれたうしろすがたが、ちょうろうのことばの)

早口にいって走り去った。その島田髷や帯の乱れた後ろ姿が、嘲弄の言葉の

(ようにめをうつと、おやさはくちびるをかみしめたが、あしおとだけはしとやかに)

ように目を打つと、親佐は口びるをかみしめたが、足音だけはしとやかに

(はしごだんをあがって、いつもににずしょさいのとのまえにたちどまって、しわぶきをひとつ)

階子段を上がって、いつもに似ず書斎の戸の前に立ち止まって、しわぶきを一つ

(して、それからきそくただしくまをおいてさんどとをのっくした。)

して、それから規則正しく間をおいて三度戸をノックした。

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