有島武郎 或る女⑱

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(ようこははしごのあがりぐちまでいってふたりにかさをかざしてやって、いちだんいちだん)

葉子は階子の上がり口まで行って二人に傘をかざしてやって、一段一段

(とおざかっていくふたりのすがたをみおくった。とうきょうでわかれをつげたあいこやさだよのすがたが、)

遠ざかって行く二人の姿を見送った。東京で別れを告げた愛子や貞世の姿が、

(あめにぬれたかさのへんをげんえいとなってみえたりかくれたりしたようにおもった。ようこは)

雨にぬれた傘のへんを幻影となって見えたり隠れたりしたように思った。葉子は

(ふしぎなこころのしゅうちゃくからさだこにはとうとうあわないでしまった。あいことさだよとは)

不思議な心の執着から定子にはとうとう会わないでしまった。愛子と貞世とは

(ぜひみおくりがしたいというのを、ようこはしかりつけるようにいってとめて)

ぜひ見送りがしたいというのを、葉子はしかりつけるようにいってとめて

(しまった。ようこがじんりきしゃでいえをでようとすると、なんのきなしにあいこがまえがみから)

しまった。葉子が人力車で家を出ようとすると、なんの気なしに愛子が前髪から

(ぬいてびんをかこうとしたくしが、もろくもぽきりとおれた。それをみるとあいこは)

抜いて鬢をかこうとした櫛が、もろくもぽきりと折れた。それを見ると愛子は

(こらえこらえていたなみだのせきをきってこえをたててなきだした。さだよははじめからはらでも)

堪え堪えていた涙の堰を切って声を立てて泣き出した。貞世は初めから腹でも

(たてたように、もえるようなめからとめどなくなみだをながして、じっとようこを)

立てたように、燃えるような目からとめどなく涙を流して、じっと葉子を

(みつめてばかりいた。そんないたいたしいようすがそのときまざまざとようこのめのまえに)

見つめてばかりいた。そんな痛々しい様子がその時まざまざと葉子の目の前に

(ちらついたのだ。ひとりぽっちでとおいたびにかしまだっていくじぶんというものが)

ちらついたのだ。一人ぽっちで遠い旅に鹿島立って行く自分というものが

(あじきなくもおもいやられた。そんなこころもちになるとせわしいあいだにもようこはふと)

あじきなくも思いやられた。そんな心持ちになると忙しい間にも葉子はふと

(たがわのほうをふりむいてみた。ちゅうがっこうのせいふくをきたふたりのしょうねんと、かみをおさげに)

田川のほうを振り向いて見た。中学校の制服を着た二人の少年と、髪をお下げに

(して、おびをおはさみにしめたしょうじょとが、たがわとふじんとのあいだにからまってちょうど)

して、帯をおはさみにしめた少女とが、田川と夫人との間にからまってちょうど

(こくべつをしているところだった。つきそいのもりのおんながしょうじょをだきあげて、たがわ)

告別をしているところだった。付き添いの守りの女が少女を抱き上げて、田川

(ふじんのくちびるをそのひたいにうけさしていた。ようこはそんなばめんをみせつけられ)

夫人の口びるをその額に受けさしていた。葉子はそんな場面を見せつけられ

(ると、ひとごとながらじぶんがひにくでむちうたれるようにおもった。)

ると、他人事(ひとごと)ながら自分が皮肉でむちうたれるように思った。

(りゅうをもばかしてめぶたにするのはははとなることだ。いまのいままでやくようにさだこのことを)

竜をも化して牝豚にするのは母となる事だ。今の今まで焼くように定子の事を

(おもっていたようこは、たがわふじんにたいしてすっかりはんたいのことをかんがえた。ようこはその)

思っていた葉子は、田川夫人に対してすっかり反対の事を考えた。葉子はその

(いまいましいこうけいからめをうつしてげんていのほうをみた。しかしそこにはもううばの)

いまいましい光景から目を移して舷梯のほうを見た。しかしそこにはもう乳母の

など

(すがたもことうのかげもなかった。たちまちせんしゅのほうからけたたましいどらのおとが)

姿も古藤の影もなかった。たちまち船首のほうからけたたましい銅鑼の音が

(ひびきはじめた。ふねのじょうげはさいごのどよめきにゆらぐようにみえた。ながいつなをひき)

響き始めた。船の上下は最後のどよめきに揺らぐように見えた。長い綱を引き

(ずっていくすいふがぼうしのおちそうになるのをみぎのてでささえながら、あたりの)

ずって行く水夫が帽子の落ちそうになるのを右の手でささえながら、あたりの

(くうきにはげしいどうようをおこすほどのいきおいでいそいでようこのかたわらをとおりぬけた。)

空気に激しい動揺を起こすほどの勢いで急いで葉子のかたわらを通りぬけた。

(みおくりにんはいっせいにぼうしをぬいでげんていのほうにあつまっていった。そのさいになって)

見送り人は一斉に帽子を脱いで舷梯のほうに集まって行った。その際になって

(いそがわじょしははたとようこのことをおもいだしたらしく、たがわふじんになにかいっておいて)

五十川女史ははたと葉子の事を思い出したらしく、田川夫人に何かいっておいて

(ようこのいるところにやってきた。「いよいよおわかれになったが、いつぞやおはなしした)

葉子のいる所にやって来た。「いよいよお別れになったが、いつぞやお話しした

(たがわのおくさんにおひきあわせしようからちょっと」ようこはいそがわじょしの)

田川の奥さんにおひきあわせしようからちょっと」葉子は五十川女史の

(しんせつぶりのぎせいになるのをしょうちしつつ、いっしゅのこうきしんにひかされて、そのあとに)

親切ぶりの犠牲になるのを承知しつつ、一種の好奇心にひかされて、そのあとに

(ついていこうとした。ようこにはじめてものをいうたがわのたいどもみてやりたかった。)

ついて行こうとした。葉子に初めて物をいう田川の態度も見てやりたかった。

(そのとき、「ようこさん」ととつぜんいって、ようこのかたにてをかけたものがあった。)

その時、「葉子さん」と突然いって、葉子の肩に手をかけたものがあった。

(ふりかえるとびーるのよいのにおいがむせかえるようにようこのはなをうって、めの)

振り返るとビールの酔いのにおいがむせかえるように葉子の鼻を打って、目の

(しんまであかくなったしらないわかもののかおが、ちかぢかとはなさきにあらわれて)

心(しん)まで紅くなった知らない若者の顔が、近々と鼻先にあらわれて

(いた。はっとみをひくひまもなく、ようこのかたはびしょぬれになったよいどれのうでで)

いた。はっと身を引く暇もなく、葉子の肩はびしょぬれになった酔いどれの腕で

(がっしりとまかれていた。「ようこさん、おぼえていますかわたしを・・・あなたは)

がっしりと巻かれていた。「葉子さん、覚えていますかわたしを・・・あなたは

(わたしのいのちなんだ。いのちなんです」といううちにも、そのめからはほろほろと)

わたしの命なんだ。命なんです」といううちにも、その目からはほろほろと

(にえるようななみだがながれて、まだうらわかいなめらかなほおをつたった。ひざからしたが)

煮えるような涙が流れて、まだうら若いなめらかな頬を伝った。膝から下が

(ふらつくのをようこにすがってあやうくささえながら、「けっこんをなさるんですか)

ふらつくのを葉子にすがって危うくささえながら、「結婚をなさるんですか

(・・・おめでとう・・・おめでとう・・・だがあなたがにほんにいなくなると)

・・・おめでとう・・・おめでとう・・・だがあなたが日本にいなくなると

(おもうと・・・いたたまれないほどこころぼそいんだ・・・わたしは・・・」もうこえさえ)

思うと・・・いたたまれないほど心細いんだ・・・わたしは・・・」もう声さえ

(つづかなかった。そしてふかぶかといきをひいてしゃくりあげながら、ようこのかたにかおを)

続かなかった。そして深々と息気をひいてしゃくり上げながら、葉子の肩に顔を

(ふせてさめざめとおとこなきになきだした。このふいなできごとはさすがにようこを)

伏せてさめざめと男泣きに泣き出した。この不意な出来事はさすがに葉子を

(おどろかしもし、きまりわるくさせた。だれだとも、いつどこであったともおもいだす)

驚かしもし、きまり悪くさせた。だれだとも、いつどこであったとも思い出す

(よしがない。きべこきょうとわかれてからなんということなしにすてばちな)

由がない。木部孤筇(きべこきょう)と別れてから何という事なしに捨てばちな

(ここちになって、だれかれのさべつもなくちかよってくるおとこたちにたいしてかってきままを)

心地になって、だれかれの差別もなく近寄って来る男たちに対して勝手気ままを

(ふるまったそのあいだに、ぐうぜんにであってぐうぜんにわかれたひとのなかのひとりでもあろうか。)

振る舞ったその間に、偶然に出あって偶然に別れた人の中の一人でもあろうか。

(あさいこころでもてあそんでいったこころのなかにこのおとこのこころもあったであろうか。とにかく)

浅い心でもてあそんで行った心の中にこの男の心もあったであろうか。とにかく

(ようこにはすこしもおもいあたるふしがなかった。ようこはそのおとこからはなれたいいっしんに、)

葉子には少しも思い当たる節がなかった。葉子はその男から離れたい一心に、

(てにもったてかばんとつつみものとをかんぱんのうえにほうりなげて、わかもののてをやさしく)

手に持った手鞄と包み物とを甲板の上にほうりなげて、若者の手をやさしく

(ふりほどこうとしてみたがむえきだった。しんるいやほうばいたちのことあれがしなめが)

振りほどこうとして見たが無益だった。親類や朋輩たちの事あれがしな目が

(ひとしくようこにそそがれているのをようこはいたいほどみにかんじていた。とどうじに、おとこの)

等しく葉子に注がれているのを葉子は痛いほど身に感じていた。と同時に、男の

(なみだがうすいひとえのめをとおして、ようこのはだにしみこんでくるのをかんじた。みだれた)

涙が薄い単衣の目を透して、葉子の膚にしみこんで来るのを感じた。乱れた

(つやつやしいかみのにおいもついはなのさきでようこのこころをうごかそうとした。はじもがいぶんも)

つやつやしい髪のにおいもつい鼻の先で葉子の心を動かそうとした。恥も外聞も

(わすれはてて、おおぞらのしたですすりなくおとこのすがたをみていると、そこにはかすかな)

忘れ果てて、大空の下ですすり泣く男の姿を見ていると、そこにはかすかな

(ほこりのようなきもちがわいてきた。ふしぎなにくしみといとしさがこんがらかって)

誇りのような気持ちがわいて来た。不思議な憎しみといとしさがこんがらかって

(ようこのこころのなかでうずまいた。ようこは、「さ、もうはなしてくださいまし、ふねがでます)

葉子の心の中で渦巻いた。葉子は、「さ、もう放してくださいまし、船が出ます

(から」ときびしくいっておいて、かんでふくめるように、「だれでもいきてるあいだは)

から」ときびしくいって置いて、かんで含めるように、「だれでも生きてる間は

(こころぼそくくらすんですのよ」とそのみみもとにささやいてみた。わかものはよくわかったと)

心細く暮すんですのよ」とその耳もとにささやいて見た。若者はよくわかったと

(いうふうにふかぶかとうなずいた。しかしようこをいだくてはきびしくふるえこそすれ、)

いうふうに深々とうなずいた。しかし葉子を抱く手はきびしく震えこそすれ、

(ゆるみそうなようすはすこしもみえなかった。ものものしいどらのひびきはさげんからうげんに)

ゆるみそうな様子は少しも見えなかった。物々しい銅鑼の響きは左舷から右舷に

(まわって、またせんしゅのほうにきこえていこうとしていた。せんいんもじょうきゃくも)

回って、また船首のほうに聞こえて行こうとしていた。船員も乗客も

(もうしあわしたようにようこのほうをみまもっていた。せんこくからてもちぶさたそうに)

申し合わしたように葉子のほうを見守っていた。先刻から手持ちぶさたそうに

(ただたってなりゆきをみていたいそがわじょしはおもいきってちかよってきて、わかものを)

ただ立って成り行きを見ていた五十川女史は思い切って近寄って来て、若者を

(ようこからひきはなそうとしたが、わかものはむずかるこどものようにじだんだをふんで)

葉子から引き離そうとしたが、若者はむずかる子供のように地だんだを踏んで

(ますますようこによりそうばかりだった。せんしゅのほうにむらがってしごとをしながら、)

ますます葉子に寄り添うばかりだった。船首のほうに群がって仕事をしながら、

(このようすをみまもっていたすいふたちはいっせいにたかくわらいごえをたてた。そしてそのなかの)

この様子を見守っていた水夫たちは一斉に高く笑い声を立てた。そしてその中の

(ひとりはわざとふねじゅうにきこえわたるようなくさめをした。ばつびょうのじこくは)

一人はわざと船じゅうに聞こえ渡るようなくさめをした。抜錨の時刻は

(いちびょういちびょうにせまっていた。ものわらいのまとになっている、そうおもうとようこのこころは)

一秒一秒に逼っていた。物笑いの的になっている、そう思うと葉子の心は

(いとしさからはげしいいとわしさにかわっていった。「さ、おはなしください、さ」)

いとしさから激しいいとわしさに変って行った。「さ、お放しください、さ」

(ときわめてれいこくにいって、ようこはたすけをもとめるようにあたりをみまわした。たがわ)

ときわめて冷酷にいって、葉子は助けを求めるようにあたりを見回した。田川

(はかせのそばにいてなにかはなしをしていたひとりのたいひょうなせんいんがいたが、)

博士の側にいて何か話をしていた一人の 大兵(たいひょう)な船員がいたが、

(ようこのとうわくしきったようすをみると、いきなりおおまたにちかづいてきて、「どれ、)

葉子の当惑しきった様子を見ると、いきなり大股に近づいて来て、「どれ、

(わたしがしたまでおつれしましょう」というやいなや、ようこのへんじもまたずにわかものを)

わたしが下までお連れしましょう」というや否や、葉子の返事も待たずに若者を

(こともなくだきすくめた。わかものはこのらんぼうにかっとなっていかりくるったが、そのせんいんは)

事もなく抱き竦めた。若者はこの乱暴にかっとなって怒り狂ったが、その船員は

(ちいさなにもつでもあつかうように、わかもののどうのあたりをみぎわきにかいこんで、)

小さな荷物でも扱うように、若者の胴のあたりを右わきにかいこんで、

(やすやすとげんていをおりていった。いそがわじょしはあたふたとようこにあいさつもせずに)

やすやすと舷梯を降りて行った。五十川女史はあたふたと葉子に挨拶もせずに

(そのあとにつづいた。しばらくするとわかものはさんばしのぐんしゅうのあいだにせんいんのてから)

そのあとに続いた。しばらくすると若者は桟橋の群衆の間に船員の手から

(おろされた。けたたましいきてきがとつぜんなりはためいた。たがわふさいのばんざいを)

おろされた。けたたましい汽笛が突然鳴りはためいた。田川夫妻の万歳を

(もういちどくりかえした。わかものをさんばしにつれていった、かのきょだいなせんいんは、おおきな)

もう一度繰り返した。若者を桟橋に連れて行った、かの巨大な船員は、大きな

(たいくをましらのようにかるくもてあつかって、おともたてずにさんばしから)

体躯を猿(ましら)のように軽くもてあつかって、音も立てずに桟橋から

(ずしずしとはなれていくふねのうえにただひとすじのつなをつたってあがってきた。ひとびとはまた)

ずしずしと離れて行く船の上にただ一条の綱を伝って上がって来た。人々はまた

(そのはやわざにおどろいてめをみはった。)

その早業に驚いて目を見張った。

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