有島武郎 或る女⑳

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(そのせんいんはぼうじゃくぶじんにかくしのなかからなにかかいたものをとりだして、)

その船員は傍若無人に衣嚢(かくし)の中から何か書いた物を取り出して、

(それをえんぴつでちぇっくしながら、ときどきおもいだしたようにかおをひいてまゆをしかめ)

それを鉛筆でチェックしながら、時々思い出したように顔を引いて眉をしかめ

(ながら、えりのおりかえしについたしみを、おやゆびのつめでごしごしとけずってははじいて)

ながら、襟の折り返しについたしみを、親指の爪でごしごしと削ってははじいて

(いた。ようこのしんけいはそこにいたたまれないほどちかちかとはげしくはたらきだした。)

いた。葉子の神経はそこにいたたまれないほどちかちかと激しく働き出した。

(じぶんとじぶんとのあいだにのそのそとえんりょもなくおおまたではいりこんでくるじゃまものでも)

自分と自分との間にのそのそと遠慮もなく大股ではいり込んで来る邪魔者でも

(さけるように、そのせんいんからとおざかろうとして、つとてすりからはなれてじぶんのせんしつ)

避けるように、その船員から遠ざかろうとして、つと手欄から離れて自分の船室

(のほうにはしごだんをおりていこうとした。「どこにおいでです」うしろから、ようこの)

のほうに階子段を降りて行こうとした。「どこにおいでです」後ろから、葉子の

(あたまからつまさきまでをちいさなものででもあるように、ひとめにこめてみやりながら、)

頭から爪先までを小さなものででもあるように、一目に籠めて見やりながら、

(そのせんいんはこうたずねた。ようこは、「せんしつまでまいりますの」とこたえないわけには)

その船員はこう尋ねた。葉子は、「船室まで参りますの」と答えないわけには

(いかなかった。そのこえはようこのもくろみにはんしておそろしくしとやかなひびきをたてて)

行かなかった。その声は葉子の目論見に反して恐ろしくしとやかな響きを立てて

(いた。するとそのおとこはおおまたでようことすれすれになるまでちかづいてきて、)

いた。するとその男は大股で葉子とすれすれになるまで近づいて来て、

(「かびんならばながたさんからのおはなしもありましたし、おひとりたびのよう)

「船室(カビン)ならば永田さんからのお話もありましたし、おひとり旅のよう

(でしたから、いむしつのわきにうつしておきました。ごらんになったまえのへやよりすこし)

でしたから、医務室のわきに移しておきました。御覧になった前の部屋より少し

(きゅうくつかもしれませんが、なにかにごべんりですよ。ごあんないしましょう」といいながら)

窮屈かもしれませんが、何かに御便利ですよ。御案内しましょう」といいながら

(ようこをすりぬけてさきにたった。なにかほうじゅんなさけのしみとしがーとの)

葉子をすり抜けて先に立った。何か芳醇な酒のしみと葉巻煙草(シガー)との

(においが、このおとここゆうのはだのにおいででもあるようにつよくようこのはなをかすめた。)

においが、この男固有の膚のにおいででもあるように強く葉子の鼻をかすめた。

(ようこは、どしんどしんとせまいはしごだんをふみしめながらおりていくそのおとこのふといくび)

葉子は、どしんどしんと狭い階子段を踏みしめながら降りて行くその男の太い首

(からひろいかたあたりをじっとみやりながらそのあとにつづいた。にじゅうしごきゃくのいすが)

から広い肩あたりをじっと見やりながらそのあとに続いた。二十四五脚の椅子が

(しょくたくにせをむけてずらっとならべてあるしょくどうのなかほどから、よこちょうのようなくらい)

食卓に背を向けてずらっとならべてある食堂の中ほどから、横丁のような暗い

(ろうかをちょっとはいると、みぎのとに「いむしつ」とかいたがんじょうなしんちゅうのふだが)

廊下をちょっとはいると、右の戸に「医務室」と書いた頑丈な真鍮の札が

など

(かかっていて、そのむかいのひだりのとには「no.12さつきようこどの」とはくぼくで)

かかっていて、その向かいの左の戸には 「No.12 早月葉子殿」と白墨で

(かいたうるしぬりのふだがさがっていた。せんいんはつかつかとそこにはいって、いきなり)

書いた漆塗りの札が下がっていた。船員はつかつかとそこにはいって、いきなり

(いきおいよくいむしつのとをのっくすると、たかいだぶる・からーのまえだけをはずして、)

勢いよく医務室の戸をノックすると、高いダブル・カラーの前だけをはずして、

(うわぎをぬぎすてたせんいらしいおとこが、あたふたとほそながいなまじろいかおをつきだした)

上着を脱ぎ捨てた船医らしい男が、あたふたと細長いなま白い顔を突き出した

(が、そこにようこがたっているのをめざとくみてとって、あわててくびをひっこめて)

が、そこに葉子が立っているのを目ざとく見て取って、あわてて首を引っ込めて

(しまった。せんいんはおおきなはばかりのないこえで、「おいじゅうにばんはすっかりそうじが)

しまった。船員は大きなはばかりのない声で、「おい十二番はすっかり掃除が

(できたろうね」というと、いむしつのなかからはおんなのようなこえで、「さしておき)

できたろうね」というと、医務室の中からは女のような声で、「さしておき

(ましたよ。きれいになってるはずですが、ごらんなすってください。わたしはいま)

ましたよ。きれいになってるはずですが、御覧なすってください。わたしは今

(ちょっと」とせんいはすがたをみせずにこたえた。「こりゃいったいせんいの)

ちょっと」と船医は姿を見せずに答えた。「こりゃいったい船医の

(ぷらいべーとなんですが、あなたのためにおあけもうすっていってくれた)

私室(プライベート)なんですが、あなたのためにお明け申すって言ってくれた

(もんですから、ぼーいにそうじするようにいいつけておきましたんです。ど、)

もんですから、ボーイに掃除するようにいいつけておきましたんです。ど、

(きれいになっとるかしらん」せんいんはそうつぶやきながらとをあけてひとわたりなかを)

きれいになっとるかしらん」船員はそうつぶやきながら戸をあけて一わたり中を

(みまわした。「むむ、いいようです」そしてみちをひらいて、かくしから)

見回した。「むむ、いいようです」そして道を開いて、衣嚢(かくし)から

(「にっぽんゆうせんがいしゃえじままるじむちょうくんろくとう)

「日本郵船会社絵島丸(えじままる)事務長勲六等

(くらちさんきち」とかいたおおきなめいしをだしてようこに)

倉地三吉(くらちさんきち)」と書いた大きな名刺を出して葉子に

(わたしながら、「わたしがじむちょうをしとります。ごようがあったらなんでもどうか」)

渡しながら、「わたしが事務長をしとります。御用があったらなんでもどうか」

(ようこはまただまったままうなずいてそのおおきなめいしをてにうけた。そしてじぶんの)

葉子はまた黙ったままうなずいてその大きな名刺を手に受けた。そして自分の

(へやときめられたそのへやのたかいしきいをこえようとすると、)

部屋ときめられたその部屋の高い閾(しきい)を越えようとすると、

(「じむちょうさんはそこでしたか」とたずねながらたがわはかせがそのふじんとうちつれて)

「事務長さんはそこでしたか」と尋ねながら田川博士がその夫人と打ち連れて

(ろうかのなかにたちあらわれた。じむちょうがぼうしをとってあいさつしようとしているあいだに、)

廊下の中に立ち現われた。事務長が帽子を取って挨拶しようとしている間に、

(ようそうのたがわふじんはようこをめざして、すかーつのきぬずれのおとをたてながら)

洋装の田川夫人は葉子を目ざして、スカーツの絹ずれの音を立てながら

(つかつかとよってきてめがねのおくからちいさくひかるめでじろりとみやりながら、)

つかつかと寄って来て眼鏡の奥から小さく光る目でじろりと見やりながら、

(「いそがわさんがうわさしていらしったかたはあなたね。なんとかおっしゃい)

「五十川さんがうわさしていらしった方はあなたね。なんとかおっしゃい

(ましたねおなは」といった。この「なんとかおっしゃいましたね」という)

ましたねお名は」といった。この「なんとかおっしゃいましたね」という

(ことばが、なもないものをあわれんでみてやるというはらをじゅうぶんにみせていた。)

言葉が、名もないものをあわれんで見てやるという腹を充分に見せていた。

(いままでじむちょうのまえで、めずらしくうけみになっていたようこは、このことばをきくと、)

今まで事務長の前で、珍しく受け身になっていた葉子は、この言葉を聞くと、

(つよいしょうどうをうけたようになってわれにかえった。どういうたいどでへんじをして)

強い衝動を受けたようになってわれに返った。どういう態度で返事をして

(やろうかということが、いちばんにあたまのなかではつかねずみのようにはげしくはたらいたが、)

やろうかという事が、いちばんに頭の中で二十日鼠のようにはげしく働いたが、

(ようこはすぐはらをきめてひどくしたでにじんじょうにでた。「あ」とおどろいたようなことばを)

葉子はすぐ腹を決めてひどく下出に尋常に出た。「あ」と驚いたような言葉を

(なげておいて、ていねいにひくくつむりをさげながら、「こんなところまで・・・おそれいり)

投げておいて、丁寧に低くつむりを下げながら、「こんな所まで・・・恐れ入り

(ます。わたしさつきようともうしますが、たびにはふなれでおりますのにひとりたびで)

ます。わたし早月葉と申しますが、旅には不慣れでおりますのにひとり旅で

(ございますから・・・」といってひとみをいなずまのようにたがわにうつして、)

ございますから・・・」といってひとみを稲妻のように田川に移して、

(「ごめいわくではございましょうがなにぶんよろしくねがいます」とまたつむりをさげた。)

「御迷惑ではございましょうが何分よろしく願います」とまたつむりを下げた。

(たがわはそのことばのおわるのをまちかねたようにひきとって、「なにふなれは)

田川はその言葉の終わるのを待ち兼ねたように引き取って、「何不慣れは

(わたしのつまもどうようですよ。なにしろこのふねのなかにはおんなはふたりぎりだから)

わたしの妻も同様ですよ。何しろこの船の中には女は二人ぎりだから

(おたがいです」とあまりなめらかにいってのけたので、つまのまえでもはばかるように)

お互いです」とあまりなめらかにいってのけたので、妻の前でもはばかるように

(こんどはたいどをあらためながらじむちょうにむかって、「ちゃいにーず・すてあれーじには)

今度は態度を改めながら事務長に向かって、「チャイニーズ・ステアレージには

(なんにんほどいますかにほんのおんなは」とといかけた。じむちょうはれいのしおからごえで「さあ、)

何人ほどいますか日本の女は」と問いかけた。事務長は例の塩から声で「さあ、

(まだちょうぼもろくろくせいりしてみませんから、しっかりとはわかりかねますが、)

まだ帳簿もろくろく整理して見ませんから、しっかりとはわかり兼ねますが、

(なにしろこのごろはだいぶふえました。さんよんじゅうにんもいますか。おくさんここが)

何しろこのごろはだいぶふえました。三四十人もいますか。奥さんここが

(いむしつです。なにしろくがつといえばきゅうのにはちがつのはちがつですから、たいへいようのほうは)

医務室です。何しろ九月といえば旧の二八月の八月ですから、太平洋のほうは

(しけることもありますんだ。たまにはここにもごようができますぞ。ちょっと)

暴(し)ける事もありますんだ。たまにはここにも御用ができますぞ。ちょっと

(せんいもごしょうかいしておきますで」「まあそんなにあれますか」とたがわふじんはじっさい)

船医も御紹介しておきますで」「まあそんなに荒れますか」と田川夫人は実際

(おそれたらしく、ようこをかえりみながらすこしいろをかえた。じむちょうはこともなげに、)

恐れたらしく、葉子を顧みながら少し色をかえた。事務長は事もなげに、

(「しけますんだずいぶん」とこんどはようこのほうをまともにみやって)

「暴(し)けますんだずいぶん」と今度は葉子のほうをまともに見やって

(ほほえみながら、おりからへやをでてきたこうろくというせんいをさんにんに)

ほほえみながら、おりから部屋を出て来た興録(こうろく)という船医を三人に

(ひきあわせた。たがわふさいをみおくってからようこはじぶんのへやにはいった。)

引き合わせた。田川夫妻を見送ってから葉子は自分の部屋にはいった。

(さらぬだにどこかじめじめするようなかびんには、きょうのあめのために)

さらぬだにどこかじめじめするような船室(カビン)には、きょうの雨のために

(むすようなくうきがこもっていて、きせんとくゆうなせいようくさいにおいがことにつよくはなに)

蒸すような空気がこもっていて、汽船特有な西洋臭いにおいがことに強く鼻に

(ついた。おびのしたになったようこのむねからせにかけたあたりはあせがじんわりにじみ)

ついた。帯の下になった葉子の胸から背にかけたあたりは汗がじんわりにじみ

(でたらしく、むしむしするようなふゆかいをかんずるので、せまくるしい)

出たらしく、むしむしするような不愉快を感ずるので、狭苦しい

(ばーすをとりつけたり、せんめんだいをすえたりしてあるそのあいだにきゅうくつにつみ)

寝台(バース)を取りつけたり、洗面台を据えたりしてあるその間に窮屈に積み

(かさねられたこにもつをみまわしながら、おびをときはじめた。けしょうかがみのついたたんすのうえ)

重ねられた小荷物を見回しながら、帯を解き始めた。化粧鏡の付いた箪笥の上

(には、くだもののかごがひとつとはなたばがふたつのせてあった。ようこはえりまえをくつろげ)

には、果物のかごが一つと花束が二つ載せてあった。葉子は襟前をくつろげ

(ながら、だれからよこしたものかとそのはなたばのひとつをとりあげると、そのそば)

ながら、だれからよこしたものかとその花束の一つを取り上げると、そのそば

(からあついかみきれのようなものがでてきた。てにとってみると、それはてふだがたの)

から厚い紙切れのようなものが出て来た。手に取って見ると、それは手札形の

(しゃしんだった。まだじょがっこうにかよっているらしい、かみをそくはつにしたむすめのはんしんぞうで、)

写真だった。まだ女学校に通っているらしい、髪を束髪にした娘の半身像で、

(そのうらには「こうろくさま。とりのこされたるちよより」としてあった。そんなものを)

その裏には「興録さま。取り残されたる千代より」としてあった。そんなものを

(こうろくがしまいわすれるはずがない。わざとわすれたふうにみせて、ようこのこころにこうきしん)

興録がしまい忘れるはずがない。わざと忘れたふうに見せて、葉子の心に好奇心

(なりかるいしっとなりをあおりたてようとする、あまりてもとのみえすいたからくり)

なり軽い嫉妬なりをあおり立てようとする、あまり手もとの見えすいたからくり

(だとおもうと、ようこはさげすんだこころもちで、いぬにでもするようにぽいとそれをとこの)

だと思うと、葉子はさげすんだ心持ちで、犬にでもするようにぽいとそれを床の

(うえにほうりなげた。ひとりのたびのふじんにたいしてふねのなかのおとこのこころがどういうふうに)

上にほうりなげた。一人の旅の婦人に対して船の中の男の心がどういうふうに

(うごいているかをそのしゃしんいちまいがかたりがおだった、ようこはなんということなしにちいさな)

動いているかをその写真一枚が語り貌だった、葉子はなんという事なしに小さな

(ひにくなわらいをくちびるのところにうかべていた。しんだいのしたにおしこんであるひらべったい)

皮肉な笑いを口びるの所に浮かべていた。寝台の下に押し込んである平べったい

(とらんくをひきだして、そのなかからゆかたをとりだしていると、のっくもせずに)

トランクを引き出して、その中から浴衣を取り出していると、ノックもせずに

(とつぜんとをあけたものがあった。ようこはおもわずしゅうちからかおをあからめて、ひきだした)

突然戸をあけたものがあった。葉子は思わず羞恥から顔を赤らめて、引き出した

(はでなゆかたをたてに、しだらなくぬぎかけたながじゅばんのすがたをかくまいながらたち)

派手な浴衣を楯に、しだらなく脱ぎかけた長襦袢の姿をかくまいながら立ち

(あがってふりかえってみると、それはせんいだった。はなやかなしたぎをゆかたのところどころ)

上がって振り返って見ると、それは船医だった。はなやかな下着を浴衣の所々

(からのぞかせて、おびもなくほっそりととほうにくれたようにみをしゃにして)

からのぞかせて、帯もなくほっそりと途方に暮れたように身を斜(しゃ)にして

(たったようこのすがたは、おとこのめにはほしいままなしげきだった。こんいずくらしくとも)

立った葉子の姿は、男の目にはほしいままな刺激だった。懇意ずくらしく戸も

(たたかなかったこうろくもさすがにどぎまぎして、はいろうにもでようにもしょざいに)

たたかなかった興録もさすがにどぎまぎして、はいろうにも出ようにも所在に

(きゅうして、しきいにかたあしをふみいれたままとうわくそうにたっていた。)

窮して、閾(しきい)に片足を踏み入れたまま当惑そうに立っていた。

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