有島武郎 或る女㊽

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(ろうじんがきてからようこはよるがあけたようにはじめてはれやかなふだんのきぶんに)

老人が来てから葉子は夜が明けたように始めて晴れやかなふだんの気分に

(なった。そしてれいのいたずららしいにこにこしたあいきょうをかおいちめんにたたえて、)

なった。そして例のいたずららしいにこにこした愛嬌を顔いちめんにたたえて、

(「なんというきさくなんでしょう。わたし、あんなおじいさんの)

「なんという気さくなんでしょう。わたし、あんなおじいさんの

(おかみさんになってみたい・・・だからね、いいものをやっち)

お内儀(かみ)さんになってみたい・・・だからね、いいものをやっち

(まった」きょとりとしてまじまじきむらのむっつりとしたかおをみやるようすはおおきな)

まった」きょとりとしてまじまじ木村のむっつりとした顔を見やる様子は大きな

(こどもとよりおもえなかった。「あなたからいただいたえんげーじ・りんぐね、)

子供とより思えなかった。「あなたからいただいたエンゲージ・リングね、

(あれをやりましてよ。だってなんにもできないんですもの」なんともいえない)

あれをやりましてよ。だってなんにもできないんですもの」なんともいえない

(こびをつつむおとがいがにじゅうになって、きれいなはなみがわらいのさざなみのように)

媚びをつつむおとがいが二重になって、きれいな歯並みが笑いのさざ波のように

(くちびるのみぎわによせたりかえしたりした。きむらは、ようこというおんなは)

口びるの汀(みぎわ)に寄せたり返したりした。木村は、葉子という女は

(どうしてこうむらきでうわすべりがしてしまうのだろう、なさけないというような)

どうしてこうむら気で上すべりがしてしまうのだろう、情けないというような

(ひょうじょうをかおいちめんにみなぎらして、なにかいうべきことばをむねのなかでととのえているよう)

表情を顔いちめんにみなぎらして、何かいうべき言葉を胸の中で整えているよう

(だったが、きゅうにおもいすてたというふうで、だまったままでほっとふかいためいきを)

だったが、急に思い捨てたというふうで、黙ったままでほっと深いため息を

(ついた。それをみるといままでめずらしくおさえつけられていたはんこうしんが、またもや)

ついた。それを見ると今まで珍しく押えつけられていた反抗心が、またもや

(せんぷうのようにようこのこころにおこった。「ねちねちさったらない」とむねのなかを)

旋風のように葉子の心に起こった。「ねちねちさったらない」と胸の中を

(いらいらさせながら、ついでのことにすこしいじめてやろうというたくらみがあたまを)

いらいらさせながら、ついでの事に少しいじめてやろうというたくらみが頭を

(もたげた。しかしかおはどこまでもまえのままのむじゃきさで、「きむらさんおみやげを)

もたげた。しかし顔はどこまでも前のままの無邪気さで、「木村さんお土産を

(かってちょうだいな。あいもさだもですけれども、しんるいたちやことうさんなんぞにも)

買ってちょうだいな。愛も貞もですけれども、親類たちや古藤さんなんぞにも

(なにかしないじゃかおがむけられませんもの。いまごろはたがわのおくさんのてがみが)

何かしないじゃ顔が向けられませんもの。今ごろは田川の奥さんの手紙が

(いそがわのおばさんのところについて、とうきょうではきっとおおさわぎをしているにちがい)

五十川のおばさんの所に着いて、東京ではきっと大騒ぎをしているに違い

(ありませんわ。たつときにはせわをやかせ、るすはるすでしんぱいさせ、ぽかんとして)

ありませんわ。発つ時には世話を焼かせ、留守は留守で心配させ、ぽかんとして

など

(おみやげひとつもたずにかえってくるなんて、きむらもいったいきむらじゃないかと)

お土産一つ持たずに帰って来るなんて、木村もいったい木村じゃないかと

(いわれるのが、わたし、しぬよりつらいから、すこしはおどろくほどのものをかって)

いわれるのが、わたし、死ぬよりつらいから、少しは驚くほどのものを買って

(ちょうだい。さきほどのおかねでそうとうのものがとれるでしょう」きむらは)

ちょうだい。先ほどのお金で相当のものが 買(と)れるでしょう」木村は

(だだっこをなだめるようにわざとおとなしく、「それはよろしい、かえとなら)

駄々児をなだめるようにわざとおとなしく、「それはよろしい、買えとなら

(かいもしますが、わたしはあなたがあれをまとまったままもってかえったらと)

買いもしますが、わたしはあなたがあれをまとまったまま持って帰ったらと

(おもっているんです。たいていのひとはよこはまについてからみやげをかうんですよ。)

思っているんです。たいていの人は横浜に着いてから土産を買うんですよ。

(そのほうがじっさいかっこうですからね。もちあわせもなしにとうきょうにつきなさることを)

そのほうが実際格好ですからね。持ち合わせもなしに東京に着きなさる事を

(おもえば、みやげなんかどうでもいいとおもうんですがね」「とうきょうにつきさえすれば)

思えば、土産なんかどうでもいいと思うんですがね」「東京に着きさえすれば

(おかねはどうにでもしますけれども、おみやげは・・・あなたよこはまのしいれものは)

お金はどうにでもしますけれども、お土産は・・・あなた横浜の仕入れものは

(すぐしれますわ・・・ごらんなさいあれを」といってたなのうえにあるぼうしいれの)

すぐ知れますわ・・・御覧なさいあれを」といって棚の上にある帽子入れの

(ぼーるばこにめをやった。「ことうさんにつれていっていただいてあれをかった)

ボール箱に目をやった。「古藤さんに連れて行っていただいてあれを買った

(ときは、ずいぶんぎんみしたつもりでしたけれども、ふねにきてからみているうちに)

時は、ずいぶん吟味したつもりでしたけれども、船に来てから見ているうちに

(すぐあきてしまいましたの。それにたがわのおくさんのようふくすがたをみたら、がまんにも)

すぐあきてしまいましたの。それに田川の奥さんの洋服姿を見たら、我慢にも

(にほんでかったものをかぶったりきたりするきにはなれませんわ」そういってる)

日本で買ったものをかぶったり着たりする気にはなれませんわ」そういってる

(うちにきむらはたなからはこをおろしてなかをのぞいていたが、「なるほどかたはちっと)

うちに木村は棚から箱をおろして中をのぞいていたが、「なるほど型はちっと

(ふるいようですね。だがしなはこれならこっちでもじょうのぶですぜ」「だからいや)

古いようですね。だが品はこれならこっちでも上の部ですぜ」「だからいや

(ですわ。りゅうこうおくれとなるとねだんのはったものほどみっともないんですもの」)

ですわ。流行おくれとなると値段の張ったものほどみっともないんですもの」

(しばらくしてから、「でもあのおかねはあなたごいりようですわね」きむらはあわてて)

しばらくしてから、「でもあのお金はあなた御入用ですわね」木村はあわてて

(べんかいてきに、「いいえ、あれはどのみちあなたにあげるつもりでいたんです)

弁解的に、「いいえ、あれはどの道あなたに上げるつもりでいたんです

(から・・・」というのをようこはみみにもいれないふうで、「ほんとにばかね)

から・・・」というのを葉子は耳にも入れないふうで、「ほんとにばかね

(わたしは・・・おもいやりもなんにもないことをもうしあげてしまって、どうしましょう)

わたしは・・・思いやりもなんにもない事を申上げてしまって、どうしましょう

(ねえ。・・・もうわたしどんなことがあってもそのおかねだけはいただきませんこと)

ねえ。・・・もうわたしどんな事があってもそのお金だけはいただきません事

(よ。こういったらだれがなんといったってだめよ」ときっぱりいいきって)

よ。こういったらだれがなんといったってだめよ」ときっぱりいいきって

(しまった。きむらはもとよりいちどいいだしたらあとへはひかないようこのひごろの)

しまった。木村はもとより一度いい出したらあとへは引かない葉子の日ごろの

(しょうぶんをしりぬいていた。で、いわずかたらずのうちに、そのかねはしなものにしてもって)

性分を知り抜いていた。で、言わず語らずのうちに、その金は品物にして持って

(かえらすよりほかにみちのないことをかんねんしたらしかった。)

帰らすよりほかに道のない事を観念したらしかった。

(そのばん、じむちょうがしごとをおえてからようこのへやにくると、ようこはなにかきに)

その晩、事務長が仕事を終えてから葉子の部屋に来ると、葉子は何か気に

(さえたふうをしてろくろくもてなしもしなかった。「とうとうかたが)

障(さ)えたふうをしてろくろくもてなしもしなかった。「とうとう形が

(ついた。じゅうくにちのあさのじゅうじだよしゅっこうは」というじむちょうのかいかつなことばにへんじも)

ついた。十九日の朝の十時だよ出航は」という事務長の快活な言葉に返事も

(しなかった。おとこはけげんなかおつきでみやっている。「あくとう」としばらくしてから、)

しなかった。男は怪訝な顔つきで見やっている。「悪党」としばらくしてから、

(ようこはひとことこれだけいってじむちょうをにらめた。「なんだ?」としりあがりにいって)

葉子は一言これだけいって事務長をにらめた。「なんだ?」と尻上がりにいって

(じむちょうはわらっていた。「あなたみたいなざんこくなにんげんはわたしはじめてみた。きむらを)

事務長は笑っていた。「あなたみたいな残酷な人間はわたし始めて見た。木村を

(ごらんなさいかわいそうに。あんなにてひどくしなくたって・・・おそろしいひとって)

御覧なさいかわいそうに。あんなに手ひどくしなくたって・・・恐ろしい人って

(あなたのことね」「なに?」とまたじむちょうはしりあがりにおおきなこえでいってねどこに)

あなたの事ね」「何?」とまた事務長は尻上がりに大きな声でいって寝床に

(ちかづいてきた。「しりません」とようこはなおおこってみせようとしたが、いかにも)

近づいて来た。「知りません」と葉子はなお怒って見せようとしたが、いかにも

(きざみのあらい、たんじゅんな、たいのないおとこのかおをみると、からだのどこかが)

刻みの荒い、単純な、他意のない男の顔を見ると、からだのどこかが

(ゆすられるきがしてきて、わざとひきしめてみせたくちびるのへんから)

揺(ゆす)られる気がして来て、わざと引き締めて見せた口びるのへんから

(おもわずもわらいのかげがひそみでた。それをみるとじむちょうがにがいかおとわらったかおとを)

思わずも笑いの影が潜み出た。それを見ると事務長が苦い顔と笑った顔とを

(いっしょにして、「なんだいくだらん」といって、でんとうのきんじょにいすをよせて、)

一緒にして、「なんだいくだらん」といって、電燈の近所に椅子を寄せて、

(おおきなながいあしをなげだして、ゆうかんしんぶんをおおきくひらいてめをとおしはじめた。きむらとは)

大きな長い足を投げ出して、夕刊新聞を大きく開いて目を通し始めた。木村とは

(ひきかえてじむちょうがこのへやにくると、へやがちいさくみえるほどだった。)

引きかえて事務長がこの部屋に来ると、部屋が小さく見えるほどだった。

(うわむけたくつのおおきさにはようこはふきだしたいくらいだった。ようこはめで)

上向けた靴の大きさには葉子は吹き出したいくらいだった。葉子は目で

(なでたりさすったりするようにして、このおおきなこどもみたようなぼうくんのあたまから)

なでたりさすったりするようにして、この大きな子供みたような暴君の頭から

(あしのさきまでをみやっていた。ごわっごわっとときどきしんぶんをおりかえすおとだけが)

足の先までを見やっていた。ごわっごわっと時々新聞を折り返す音だけが

(きこえて、つみにがあらかたかたづいたせんしつのよるはしずかにふけていった。ようこは)

聞こえて、積み荷があらかた片付いた船室の夜は静かにふけて行った。葉子は

(そうしたままでふときむらをおもいやった。きむらはぎんこうによってきってをげんきんに)

そうしたままでふと木村を思いやった。木村は銀行に寄って切手を現金に

(かえて、みせのしまらないうちにいくらかかいものをして、それをこわきにかかえ)

換えて、店の締まらないうちにいくらか買い物をして、それを小わきにかかえ

(ながら、ゆうしょくもしたためずに、じゃくそんがいにあるというにほんじんのりょてんにかえり)

ながら、夕食もしたためずに、ジャクソン街にあるという日本人の旅店に帰り

(つくころには、まちまちにひがともって、さむいもやとけむりとのあいだをろうどうしゃたちがつかれた)

着くころには、町々に灯がともって、寒い靄と煙との間を労働者たちが疲れた

(ごたいをひきずりながらあるいていくのにたくさんであっているだろう。ちいさな)

五体を引きずりながら歩いて行くのにたくさん出あっているだろう。小さな

(すとーぶにけむりのおおいせきたんがぶしぶしもえて、けばけばしいでんとうのひかりだけが、)

ストーブに煙の多い石炭がぶしぶし燃えて、けばけばしい電灯の光だけが、

(むちうつようにがらんとしたへやのうすぎたなさをこうこうとてらしているだろう。)

むちうつようにがらんとした部屋の薄ぎたなさを煌々と照らしているだろう。

(そのひかりのしたで、ぐらぐらするいすにこしかけて、すとーぶのひをみつめながら)

その光の下で、ぐらぐらする椅子に腰かけて、ストーブの火を見つめながら

(きむらがかんがえている。しばらくかんがえてからさびしそうにみるともなくへやのなかを)

木村が考えている。しばらく考えてからさびしそうに見るともなく部屋の中を

(みまわして、またすとーぶのひにながめいるだろう。そのうちにあのなみだのでやすい)

見回して、またストーブの火にながめ入るだろう。そのうちにあの涙の出やすい

(めからはなみだがほろほろととめどもなくながれでるにちがいない。じむちょうがおとをたてて)

目からは涙がほろほろととめどもなく流れ出るに違いない。事務長が音を立てて

(しんぶんをおりかえした。きむらはひざがしらにてをおいて、そのてのなかにかおをうずめてないて)

新聞を折り返した。木村は膝頭に手を置いて、その手の中に顔を埋めて泣いて

(いる。いのっている。ようこはくらちからめをはなして、うわめをつかいながらきむらのいのりの)

いる。祈っている。葉子は倉地から目を放して、上目を使いながら木村の祈りの

(こえにみみをかたむけようとした。とぎれとぎれなせつないいのりのこえがなみだにしめって)

声に耳を傾けようとした。途切れ途切れな切ない祈りの声が涙にしめって

(たしかに・・・たしかにきこえてくる。ようこはまゆをよせてちゅういりょくをしゅうちゅうしながら、)

確かに・・・確かに聞こえて来る。葉子は眉を寄せて注意力を集中しながら、

(きむらがほんとうにどうようこをおもっているかをはっきりみきわめようとしたが、)

木村がほんとうにどう葉子を思っているかをはっきり見窮めようとしたが、

(どうしてもおもいうかべてみることができなかった。じむちょうがまたしんぶんをおりかえす)

どうしても思い浮かべてみる事ができなかった。事務長がまた新聞を折り返す

(おとをたてた。ようこははっとしてよどみにささえられたこのはがまたながれはじめた)

音を立てた。葉子ははっとして淀みにささえられた木の葉がまた流れ始めた

(ように、すらすらときむらのしょさをそうぞうした。それがだんだんおかのうえにうつって)

ように、すらすらと木村の所作を想像した。それがだんだん岡の上に移って

(いった。あわれなおか!おかもまだねないでいるだろう。きむらなのかおかなのか)

行った。哀れな岡! 岡もまだ寝ないでいるだろう。木村なのか岡なのか

(いつまでもいつまでもねないでひのきえかかったすとーぶのまえにうずくまって)

いつまでもいつまでも寝ないで火の消えかかったストーブの前にうずくまって

(いるのは・・・ふけるままにしみこむさむさはそっとゆかをつたわってあしのさきから)

いるのは・・・ふけるままにしみ込む寒さはそっと床を伝わって足の先から

(はいあがってくる。おとこはそれにもきがつかぬふうでいすのうえにうなだれている。)

はい上がって来る。男はそれにも気が付かぬふうで椅子の上にうなだれている。

(すべてのひとはねむっているときに、きむらのようこもじむちょうにいだかれてやすやすとねむって)

すべての人は眠っている時に、木村の葉子も事務長に抱かれて安々と眠って

(いるときに・・・。)

いる時に・・・。

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