有島武郎 或る女52
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問題文
(ようこはとうとうぜいかんはとばのいりぐちまできてしまった。そのいりぐちのちいさな)
葉子はとうとう税関波止場の入り口まで来てしまった。その入り口の小さな
(れんがづくりのじむしょには、としのわかいかんしほたちがにじゅうきんぼたんのせびろに、かいぐんぼうを)
煉瓦造りの事務所には、年の若い監視補たちが二重金ぼたんの背広に、海軍帽を
(かぶってじむをとっていたが、そこにちかづくようこのようすをみると、きのうじょうりく)
かぶって事務を取っていたが、そこに近づく葉子の様子を見ると、きのう上陸
(したときからようこをみしっているかのように、そのとびはなれてはでな)
した時から葉子を見知っているかのように、その飛び放れて華手(はで)な
(つくりなすがたにめをさだめるらしかった。ものずきなそのひとたちははやくもしんぶんのきじを)
造りな姿に目を定めるらしかった。物好きなその人たちは早くも新聞の記事を
(みてもんだいとなっているおんながじぶんにちがいないとめぼしをつけているのではあるまいか)
見て問題となっている女が自分に違いないと目星をつけているのではあるまいか
(とようこはなにごとにつけてもぐちっぽくひけめになるじぶんをみいだした。ようこは)
と葉子は何事につけても愚痴っぽくひけ目になる自分を見いだした。葉子は
(しかしそうしたふうにみつめられながらもそこをたちさることができなかった。)
しかしそうしたふうに見つめられながらもそこを立ち去る事ができなかった。
(もしやくらちがひるめしでもたべにあのおおきなごたいをおもおもしくうごかしながらふねのほう)
もしや倉地が昼飯でも食べにあの大きな五体を重々しく動かしながら船のほう
(からでてきはしないかとこころまちがされたからだ。ようこはそろそろとかいがんどおりを)
から出て来はしないかと心待ちがされたからだ。葉子はそろそろと海岸通りを
(ぐらんど・ほてるのほうにあるいてみた。くらちがでてくれば、くらちのほうでも)
グランド・ホテルのほうに歩いてみた。倉地が出て来れば、倉地のほうでも
(じぶんをみつけるだろうし、じぶんのほうでもうしろにめはないながら、でてきたのを)
自分を見つけるだろうし、自分のほうでも後ろに目はないながら、出て来たのを
(かんづいてみせるというじしんをもちながら、うしろもふりむかずにだんだんはとば)
感づいてみせるという自信を持ちながら、後ろも振り向かずにだんだん波止場
(からとおざかった。うみぞいにたてつらねたいしぐいをつなぐがんじょうなてっさには、せいようじんの)
から遠ざかった。海ぞいに立て連ねた石杭をつなぐ頑丈な鉄鎖には、西洋人の
(こどもたちがこうしほどなようけんやあまにつきそわれてこともなげにあそびたわむれて)
子供たちが犢(こうし)ほどな洋犬やあまに付き添われて事もなげに遊び戯れて
(いた。そしてようこをみるとこころやすだてにむじゃきにほほえんでみせたりした。ちいさな)
いた。そして葉子を見ると心安立てに無邪気にほほえんで見せたりした。小さな
(かわいいこどもをみるとどんなときどんなばあいでも、ようこはさだこをおもいだして、)
かわいい子供を見るとどんな時どんな場合でも、葉子は定子を思い出して、
(むねがしめつけられるようになって、すぐなみだぐむのだった。このばあいはことさら)
胸がしめつけられるようになって、すぐ涙ぐむのだった。この場合はことさら
(そうだった。みていられないほどそれらのこどもたちはかなしいすがたにようこのめに)
そうだった。見ていられないほどそれらの子供たちは悲しい姿に葉子の目に
(うつった。ようこはそこからさけるようにあしをかえしてまたぜいかんのほうにあゆみ)
映った。葉子はそこから避けるように足を返してまた税関のほうに歩み
(ちかづいた。かんしかのじむしょのまえをきたりいったりするにんずうはらくえきと)
近づいた。監視課の事務所の前を来たり往ったりする人数は絡繹(らくえき)と
(してたえなかったが、そのなかにじむちょうらしいすがたはさらにみえなかった。ようこは)
して絶えなかったが、その中に事務長らしい姿はさらに見えなかった。葉子は
(えじままるまでいってみるゆうきもなく、そこをいくどもあちこちしてかんしほたちのめに)
絵島丸まで行って見る勇気もなく、そこを幾度もあちこちして監視補たちの目に
(かかるのもうるさかったので、すごすごとぜいかんのおもてもんをけんちょうのほうに)
かかるのもうるさかったので、すごすごと税関の表門を県庁のほうに
(ひきかえした。)
引き返した。
(にじゅうさんそのゆうがたくらちがほこりにまぶれあせにまぶれてもみじざかをすたすたと)
【二三】 その夕方倉地がほこりにまぶれ汗にまぶれて紅葉坂をすたすたと
(のぼってかえってくるまでもようこはりょかんのしきいをまたがずにさくらのなみきのした)
登って帰って来るまでも葉子は旅館の閾(しきい)をまたがずに桜の並み木の下
(などをはいかいしてまっていた。さすがにじゅういちがつとなるとゆうぐれをもよおしたそらは)
などを徘徊して待っていた。さすがに十一月となると夕暮れを催した空は
(みるみるうそさむくなってかぜさえふきだしている。いちにちのこうらくにあそびつかれたらしい)
見る見る薄寒くなって風さえ吹き出している。一日の行楽に遊び疲れたらしい
(ひとのむれにまじってふきげんそうにかおをしかめたくらちはまっこうにさかの)
人の群れにまじってふきげんそうに顔をしかめた倉地は真向(まっこう)に坂の
(ちょうじょうをみつめながらちかづいてきた。それをみやるとようこはいっときにちからをかいふくした)
頂上を見つめながら近づいて来た。それを見やると葉子は一時に力を回復した
(ようになって、すぐおどりだしてくるいたずらごころのままに、いっぽんのさくらの)
ようになって、すぐ跳(おど)り出してくるいたずら心のままに、一本の桜の
(きをたてにくらちをやりすごしておいて、うしろからしずかにちかづいててとてとが)
木を楯に倉地をやり過ごしておいて、後ろから静かに近づいて手と手とが
(ふれあわんばかりにおしならんだ。くらちはさすがにふいをくってまじまじと)
触れ合わんばかりに押しならんだ。倉地はさすがに不意をくってまじまじと
(さむさのためにすこしなみだぐんでみえるおおきなすずしいようこのめをみやりながら、)
寒さのために少し涙ぐんで見える大きな涼しい葉子の目を見やりながら、
(「どこからわいてでたんだ」といわんばかりのかおつきをした。ひとつふねのなかにあさと)
「どこからわいて出たんだ」といわんばかりの顔つきをした。一つ船の中に朝と
(なくよるとなくいっしょになってねおきしていたものを、きょうはじめてはんにちのあまりもかおを)
なく夜となく一緒になって寝起きしていたものを、きょう始めて半日の余も顔を
(みあわさずにすごしてきたのがおもったいじょうにものさびしく、どうじにこんなところで)
見合わさずに過ごして来たのが思った以上に物さびしく、同時にこんな所で
(おもいもかけずであったがよそうのほかにまんぞくであったらしいくらちのかおつきをみて)
思いもかけず出あったが予想のほかに満足であったらしい倉地の顔つきを見て
(とると、ようこはなにもかもわすれてただうれしかった。そのまっくろによごれたてを)
取ると、葉子は何もかも忘れてただうれしかった。そのまっ黒によごれた手を
(いきなりひっつかんであついくちびるでかみしめていたわってやりたいほどだった。)
いきなり引っつかんで熱い口びるでかみしめて労ってやりたいほどだった。
(しかしおもいのままによりそうことすらできないだいどうであるのをどうしよう。ようこは)
しかし思いのままに寄り添う事すらできない大道であるのをどうしよう。葉子は
(そのせつないこころをすねてみせるよりほかなかった。「わたしもうあのやどやには)
その切ない心を拗ねて見せるよりほかなかった。「わたしもうあの宿屋には
(とまりませんわ。ひとをばかにしているんですもの。あなたおかえりになるなら)
泊まりませんわ。人をばかにしているんですもの。あなたお帰りになるなら
(かってにひとりでいらっしゃい」「どうして・・・」といいながらくらちはとうわくした)
勝手にひとりでいらっしゃい」「どうして・・・」といいながら倉地は当惑した
(ようにおうらいにたちどまってしげしげとようこをみなおすようにした。「これじゃ)
ように往来に立ち止まってしげしげと葉子を見なおすようにした。「これじゃ
((といってほこりにまみれたりょうてをひろげえりくびをぬきだすようにのばしてみせて)
(といってほこりにまみれた両手をひろげ襟頸を抜き出すように延ばして見せて
(しぶいかおをしながら)どこにもいけやせんわな」「だからあなたはおかえりなさい)
渋い顔をしながら)どこにも行けやせんわな」「だからあなたはお帰りなさい
(ましといってるんじゃありませんか」そうまえおきしてようこはくらちと)
ましといってるんじゃありませんか」 そう冒頭(まえおき)して葉子は倉地と
(おしならんでそろそろあるきながら、おかみのしうちから、じょちゅうのふしだらまでおひれを)
押し並んでそろそろ歩きながら、女将の仕打ちから、女中のふしだらまで尾鰭を
(つけていいつけて、はやくそうかくかんにうつっていきたいとせがみにせがんだ。)
つけて讒訴(いいつ)けて、早く双鶴館に移って行きたいとせがみにせがんだ。
(くらちはなにかしあんするらしくそっぽをみいみいみみをかたむけていたが、やがてりょかんに)
倉地は何か思案するらしくそっぽを見い見い耳を傾けていたが、やがて旅館に
(ちかくなったころもういちどたちどまって、「きょうあそこからでんわで)
近くなったころもう一度立ち止まって、「きょう双鶴館(あそこ)から電話で
(へやのつごうをしらしてよこすことになっていたがおまえきいたか・・・(ようこは)
部屋の都合を知らしてよこす事になっていたがお前聞いたか・・・(葉子は
(そういいつけられながらいままですっかりわすれていたのをおもいだして、すこしく)
そういいつけられながら今まですっかり忘れていたのを思い出して、少しく
(てれたようにくびをふった)・・・ええわ、じゃでんぽうをうってからさきにいくが)
てれたように首を振った)・・・ええわ、じゃ電報を打ってから先に行くが
(いい。わしはにもつをしてこんやあとからいくで」そういわれてみるとようこはまた)
いい。わしは荷物をして今夜あとから行くで」そういわれてみると葉子はまた
(ひとりだけさきにいくのがいやでもあった。といってにもつのしまつにはふたりのうち)
一人だけ先に行くのがいやでもあった。といって荷物の始末には二人のうち
(どちらかひとりいのこらねばならない。「どうせふたりいっしょにきしゃにのるわけにも)
どちらか一人居残らねばならない。「どうせ二人一緒に汽車に乗るわけにも
(いくまい」くらちがこういいたしたときようこはあやうく、ではきょうの「ほうせいしんぽう」)
行くまい」倉地がこういい足した時葉子は危うく、ではきょうの「報正新報」
(をみたかといおうとするところだったが、はっとおもいかえしてのどのところでおさえて)
を見たかといおうとするところだったが、はっと思い返して喉の所で抑えて
(しまった。「なんだ」くらちはみかけのわりにおそろしいほどびんしょうにはたらくこころで、)
しまった。「なんだ」倉地は見かけのわりに恐ろしいほど敏捷に働く心で、
(かおにもあらわさないようこのちゅうちょをみてとったらしくこうなじるようにたずねたが、)
顔にも現わさない葉子の躊躇を見て取ったらしくこうなじるように尋ねたが、
(ようこがなんでもないとこたえると、すこしもこうでいせずに、それいじょうといつめようとは)
葉子がなんでもないと応えると、少しも拘泥せずに、それ以上問い詰めようとは
(しなかった。どうしてもりょかんにかえるのがいやだったので、ひじょうなものたらなさを)
しなかった。どうしても旅館に帰るのがいやだったので、非常な物足らなさを
(かんじながら、ようこはそのままそこからくらちにわかれることにした。くらちはちからの)
感じながら、葉子はそのままそこから倉地に別れる事にした。倉地は力の
(こもっためでようこをじっとみてちょっとうなずくとあとをもみないでどんどんと)
こもった目で葉子をじっと見てちょっとうなずくとあとをも見ないでどんどんと
(りょかんのほうにかっぽしていった。ようこはのこりおしくそのうしろすがたをみおくっていたが、)
旅館のほうに闊歩していった。葉子は残り惜しくその後ろ姿を見送っていたが、
(それになんということもないかるいほこりをかんじてかすかにほほえみながら、くらちが)
それになんという事もない軽い誇りを感じてかすかにほほえみながら、倉地が
(のぼってきたさかみちをひとりでおりていった。ていしゃばについたころにはもう)
登って来た坂道を一人で降りて行った。停車場に着いたころにはもう
(がすのひがそこらにともっていた。ようこはしったひとにあうのをきょくたんに)
瓦斯(ガス)の灯がそこらにともっていた。葉子は知った人にあうのを極端に
(おそれさけながら、きしゃのでるすぐまえまでていしゃばまえのさてんのひとまに)
恐れ避けながら、汽車の出るすぐ前まで停車場前の茶店の一間(ひとま)に
(かくれていていっとうしつにとびのった。だだっぴろいそのきゃくしゃにはがいむしょうのやかいにいく)
隠れていて一等室に飛び乗った。だだっ広いその客車には外務省の夜会に行く
(らしいさんにんのがいこくじんがめいめい、でこるてーをきかざったふじんをかいほうしてのっている)
らしい三人の外国人が銘々、デコルテーを着飾った婦人を介抱して乗っている
(だけだった。いつものとおりそのひとたちはふしぎにひとをひきつけるようこのすがたに)
だけだった。いつものとおりその人たちは不思議に人をひきつける葉子の姿に
(めをそばだてた。けれどもようこはもうひだりてのこゆびをきようにおりまげて、ひだりのびんの)
目をそばだてた。けれども葉子はもう左手の小指を器用に折り曲げて、左の鬢の
(ほつれげをうつくしくかきあげるあのしなをしてみせるきはなくなって)
ほつれ毛を美しくかき上げるあの嬌態(しな)をして見せる気はなくなって
(いた。へやのすみにこしかけて、てさげとぱらそるとをひざにひきつけ)
いた。室(へや)のすみに腰かけて、手提げとパラソルとを膝に引きつけ
(ながら、たったひとりそのへやのなかにいるもののようにおうようにかまえていた。ぐうぜん)
ながら、たった一人その部屋の中にいるもののように鷹揚に構えていた。偶然
(かおをみあわせても、ようこははりのあるそのめをむじゃきに(ほんとうにそれはつみを)
顔を見合わせても、葉子は張りのあるその目を無邪気に(ほんとうにそれは罪を
(しらないじゅうろくしちのおとめのめのようにむじゃきだった)おおきくみひらいてあいてのしせんを)
知らない十六七の乙女の目のように無邪気だった)大きく見開いて相手の視線を
(はにかみもせずむかえるばかりだった。せんぽうのひとたちのねんれいがどのくらいでようぼうが)
はにかみもせず迎えるばかりだった。先方の人たちの年齢がどのくらいで容貌が
(どんなふうだなどということもようこはすこしもちゅういしてはいなかった。)
どんなふうだなどという事も葉子は少しも注意してはいなかった。
(そのこころのなかにはただくらちのすがたばかりがいろいろにえがかれたりけされたりして)
その心の中にはただ倉地の姿ばかりがいろいろに描かれたり消されたりして
(いた。れっしゃがしんばしにつくとようこはしとやかにくるまをでたが、ちょうどそこに、)
いた。列車が新橋に着くと葉子はしとやかに車を出たが、ちょうどそこに、
(とうざんにかくおびをしめた、はこやとでもいえばいえそうな、)
唐桟(とうざん)に角帯を締めた、箱丁(はこや)とでもいえばいえそうな、
(きのきいたわかいものがでんぽうをかたてにもって、めざとくようこにちかづいた。)
気のきいた若い者が電報を片手に持って、目ざとく葉子に近づいた。
(それがそうかくかんからのでむかえだった。)
それが双鶴館からの出迎えだった。